困った瞳
引き裂かれるような頭痛と悪寒を押し殺し、僕は瘴気の濃い洞窟の奥へと足を踏み入れた。
紫黒の靄が渦巻く空洞の広がり。その中心に、ソレは立っていた。
全身からドス黒い蒸気を立ち上らせ、人型を辛うじて保ちながらも、半ばモンスター化しかけた輪郭。
漆黒の髪の隙間から覗く肌は瘴気に焼かれ、荒い息とともに苦悶の呻きを漏らしている。
ノワール。
かつて僕が慈しみ、守り、そして何十年もの間、行方知れずになっていた闇の精霊の少年。
彼は僕を攻撃してくることもなく、ただ立ち尽くし、真っ直ぐに僕の姿を見つめていた。
敵意はない。ただ、どうしようもない苦痛に苛まれていることだけが痛いほど伝わってくる。
「……ノワール」
僕は震える喉から、声を絞り出した。
一歩、また一歩と、彼を刺激しないように静かに間合いを詰めていく。
「どうして……ひとりで、いなくなっちゃったの?」
胸の奥から溢れ出すのは、何十年もの時を越えた問いかけだった。
「僕のせいなの……? 僕があの時、君を庇って倒れたから……君は自分を責めて、どこかへ行っちゃったの?」
ノワールは答えず、ただ喉の奥で「ぐ、ぅ……」と小さく呻いた。
「ならもう自分を責めないで。今なら僕も、大精霊様や五大精霊のみんなもいる。みんなの力を合わせれば、その君を苦しめている瘴気だって……絶対に元に戻せるんだよ」
僕は両手を胸の前に掲げ、必死に語りかけた。
「お願いだから……帰ってきて、ノワール」
僕の叫びが届いたのか、ノワールの身体が微かに震えた。
瘴気の奔流のせいなのか、それとも魂が抗おうとしているのか、彼は自らの頭を抱えるようにして苦しげに顔を歪める。
あと数歩。手を伸ばせば、その冷たい指先に触れられる――そう信じた、その刹那だった。
ギシャァァァッ!!
甲高い怪音とともに、頭上の岩壁から黒く変異した下層の肉食蜘蛛が、二人の間を引き裂くようにして猛烈な勢いで落下してきた。
「邪魔をしないで……っ!」
僕は即座に不可視の風の刃を放ち、蜘蛛の胴体を両断する。
けれど、そのほんの一瞬の視界の遮断が致命的だった。
「ノワール――ッ!」
伸ばした僕の手が宙を掴む。
ノワールは蜘蛛の死骸が撒き散らした紫紺の血飛沫の向こうで、足元に広がる底なしの闇の裂け目へと自ら身を沈め――そのまま、溶けるように姿を消してしまった。
慌てて周囲を索敵するが、その姿も、濃密だった気配も、すでに影も形もなく掻き消えていた。
「……っ」
僕は膝をつきそうになる体を、風の厚みで辛うじて支えた。
けれど、悔しさの奥で、僕の心は決して折れてはいなかった。
(あの目……)
消え去る間際、ノワールが僕に向けた眼差し。
瘴気に侵され、血のように真っ赤に染まりきってしまっていたけれど――あれは、叱られたり、素直になれずに困り果てた時、あの子がいつも見せていた、よく知った瞳そのものだった。
(ノワールは、まだ完全に消えてない。絶対に助かる)
そして何より、今の直接の対峙によって、ノワールが纏う「瘴気を含んだ特有の魔力波長」を、風の精霊としての僕の核が完璧に記憶した。
次にあの子がどこかの階層に現れたなら、どんなに深く身を潜めていても、風の流れを辿って必ず居場所を特定できるはずだ。
その時だった。
ゾワリ、と風を伝って広域の感覚に強烈な不協和音が走った。
(……え……?)
慌てて意識を研ぎ澄まし、上層の気配を読み取る。
僕を探すために必死で階層を駆けのぼっている氷華さんたち四人と、パニックを起こして逃げ惑っている『剛腕の鉄血隊』の五人。
二つのグループが偶然にも合流しかけているその場所――上層22層に、信じがたいほど強烈な瘴気が立ち込めていた。
『ノア……』
精神リンクの奥底から、大地を揺るがすようなテラのゆったりとした重厚な声が響いた。
『22層に……強い、瘴気の気配。……氷華たちが、あぶない』
「……っ!」
あの子が現れると、このダンジョン全体に瘴気溜まりを引き連れてきちゃうのかもしれない。
その瘴気で上層のモンスターたちが異常変異を起こしたのか。
救援に急ぐあまり、氷華さんたちはその危険な罠に正面から突っ込もうとしている。
僕の単独行動を気遣って、僕を探すために走ってくれている大切な仲間たちを――死なせるわけにはいかない。
僕は懐から、白い仮面を取り出した。
カチリ、と顔を覆う。
「すぐに行くよ、みんな――!」
仮面の奥でエメラルドの瞳を鋭く輝かせ、僕は風そのものとなって、上層22層の戦場へと跳躍した。




