精霊のキオク
地下26層を越えてからの進軍は、まさに地獄絵図の様相を呈していた。
濃密な瘴気に当てられ、理性を完全に失ったモンスターたちの猛攻が途切れることなく押し寄せてくる。
外殻が異常発達し、全身から黒い毒気を噴き出す変異種の群れ。だが、この極限の死線において、プロチームの圧倒的な技量に呼応するように、学生チームもまた目覚ましい奮闘を見せていた。
「焼き尽くしなさい――『獄炎衝』っ!!」
クラリスの放つ劫火が、前衛の頭上をかすめて群れの中心を正確に消し飛ばす。
その直後、炎の余波を一切恐れずに飛び込んだクローディアの大剣が、残余の巨獣を骨ごと叩き割った。
「ハハッ、良い連携だねぇクラリス! 氷華、右の死角から来るよ!」
「言われずとも――凍てつきなさい!」
氷華の研ぎ澄まされた氷剣が閃き、迫る変異種の急所を瞬時に凍結、粉砕していく。
学生とは思えないその阿吽の呼吸と攻撃密度に、前衛で大盾を構えるボルドーが感嘆の声を漏らした。
「見事だ! 学生と侮っておったが……実に頼もしい刃よ!」
「ふふ、あの子たち本当にいい筋してるわね。惚れ惚れしちゃう」
シエラの蛇腹剣が紫電を撒き散らしながら広範囲を薙ぎ払い、レオンの双剣が零れた個体を確実に仕留めていく。プロたちからも一目置かれる奮闘の要となっていたのは、後方で息を乱しながらも的確に立ち回り続けるノアの存在だった。
(くっ……まだ、胸のざわつきが収まらない……っ)
胃の腑を握り潰されるような吐き気と、胸の奥で早鐘を打つ激しい鼓動。得体の知れない悪寒を引きずりながらも、ノアは必死に意識を保ち、三人のサポートに徹していた。
クラリスの爆炎を大気の壁で遮断して味方への干渉を防ぎ、クローディアの踏み込みに合わせて足元の大気を硬質化させ、氷華が踏み込む直前の気流を整えて神速の刺突を後押しする。かつての合同任務で掴んだあの調律を、極限状態の中でも寸分違わず再現し続けていた。
死闘を重ね、地下29層を突破した、その時だった。
不意に――あれほど執拗だったモンスターの咆哮が、ぷつりと途絶えた。
重苦しい静寂が、洞窟内の空気を支配する。
開けた巨大な空洞の先、絡み合う世界樹の巨木が大きく裂けたその割れ目に、それは鎮座していた。
地下30層、【最奥入口ゲート】。
見上げるほど巨大な、太古の黒鉄で作られた重厚な門扉。
表面には無数の禍々しい刻印が刻まれ、そこから漏れ出る濃密な瘴気が、陽炎のように空間を歪ませていた。
「……静かすぎるな」
レオンが双剣を握り直しながら、冷たい汗を頬に伝わせた。
つい先ほどまで凶暴の限りを尽くしていたモンスターたちが、このゲートの周囲数百メートルには一匹たりとも近寄ってこない。まるで、扉の向こうに潜む“絶対的な捕食者”を本能で恐れ、息を殺して逃げ惑う草食動物のように。
その異様な雰囲気に全員が肌を粟立たせる中、通信機から鳴神先生の張り詰めた声が響いた。
『――地下30層、最奥ゲートの目視を確認した。全員、迎撃態勢を維持しつつ、ドローンを展開しろ。これよりスキャンシークエンスへ移行する』
「了解いたしました」
氷華が応じ、二基の球体ドローンが低音の駆動音を響かせながら黒鉄の門へと近づいていく。
青い走査レーザーがゲートの表面をなぞり始め、モニターの解析進行バーがゆっくりと進み出した。
『解析完了まで、およそ百八十秒。……何があっても気を抜くなよ』
通信越しの警告を聞きながら、ノアはその場に立ち尽くしていた。
黒鉄の門を見上げた瞬間、視界が激しく明滅し、頭蓋の奥を直接杭で打ち抜かれたような激痛が走ったのだ。
(あ、がっ……!? な、に……これ……っ!?)
激しい頭痛とともに、ノアの脳裏に、自分のものではない――けれど確かに自分自身が体験したはずの、失われた記憶の断片が濁流となって雪崩れ込んできた。
視界を覆い尽くす、黒い泥のような瘴気の奔流。
五大精霊と大精霊様が一丸となって挑んだ、世界の存亡を賭けた封印戦。
その最中、吹き荒れる嵐の向こうで、見覚えのない精霊の姿。
そして――今まさに、漆黒の泥濘へと引きずり込まれようとしていた、もう一人の影。
《タスケタカッタ……》
《ドウして……》
《カエってきテ……!》
ノア自身の口から漏れ出たのか、それとも魂に刻まれた風の精霊の叫びなのかすら分からない。
瀕死の重傷を負いながらも、身を挺して彼の手を掴み、泥の中から引きずり出した。そこまでは覚えている。けれど、その後に力尽き、意識を失った自分が再び目覚めた時――助けたはずの彼の姿は、どこにもなかったのだ。
胸を抉るような、あまりにも強烈な後悔の念。
涙が零れ落ちそうになるほどの痛切な喪失感が、ノアの心を激しく苛出していく。
「ノアさん……!? 顔色が真っ青です、しっかりしてください!」
異変に気づいた氷華が駆け寄り、ノアの肩を抱きとめた。
クラリスも険しい表情で駆け寄り、クローディアが大剣を構えて外周を睨み据える。
「大丈夫ですわノアさん、無理をしてはいけません! 私たちがついています!」
「安心しな、何が来ようとアタシが叩き潰してやるからさ!」
仲間たちの温かい声が、ノアの意識を辛うじて繋ぎ止める。
三人はノアを庇うように円陣を組み、周囲への警戒度を極限まで引き上げていた。
『スキャン進捗率、八十五パーセント……九十……』
管制室の鳴神先生の声が、カウントダウンを刻む。
あと数十秒。何事もなくデータさえ回収できれば、この忌まわしい深淵から全員で生還できるはずだった。
――だが、世界はそれを許さなかった。
ミ……シッ。
ギギギギギギギィッ……!
突如として、大気の軋む不吉な音が空間全体に木霊した。
金属が歪む音ではない。空間そのものが、内側からの異常な重圧に耐えかねてひび割れていくような、禍々しい鳴動。
「っ!? な、何事ですの……!?」
「空間が……歪んで……!?」
クラリスと氷華が息を呑む。
黒鉄のゲートの直前――虚空の裂け目から、見上げるほど濃密な、ドス黒い瘴気の渦が津波のように噴き出し始めていた。




