闇の同胞
ドス黒い瘴気が津波のように押し寄せ、あたり一面を漆黒の帳で包み込んでいく。
ドローンの通信リンクに激しいノイズが走り、空間の裂け目がぐにゃりと歪んだ。
そこから姿を現したのは――見上げるような巨獣でも、禍々しい異形のモンスターでもなかった。
現れたのは、一人の青年だった。
見た目は十八歳ほど。
無造作に伸ばされた長めのウルフカットの黒髪が、吹き荒れる瘴気に揺れている。纏っているのは、幾重にも切り裂かれたような黒衣。
その伏せられた顔には生気がなく、暗い影を落としていた。だが、ゆっくりと持ち上がった顔面――その双眸は、理性を塗り潰すような禍々しい真紅にゆらめいた。
「……っ!?」
全員の足が、その場に縫い付けられたように止まった。
姿形は華奢な人間と大差ない。だが、この場にいる全員が百戦錬磨の実力者だからこそ、本能で理解してしまった。
巨大なモンスターなど比べ物にならない――今目の前にいるこの存在こそが、この世の何よりも危険で、底知れない『異形』であると。
その姿を見た瞬間、ノアの両肩にいた二対の精霊が激しく息を呑んだ。
『嘘……ねえ、嘘でしょ……ッ!?』
『……てめえ……!なんでそんな姿に……!!』
フルグルの悲痛な叫びと、イグニスの絞り出すような戦慄。
それと呼応するように、ノアの脳裏を苛んでいた頭痛が完全に霧散し、ひとつの名前が魂の底から浮上した。
「……ノワール……」
ノアの唇から、掠れたような小さな呟きが零れ落ちた。
すぐ傍でノアの体を支えていた氷華の耳朶が、その微かな音を敏感に拾い上げる。
(……ノワール……? ノアさん、今、何を……?)
だが、思考を巡らせる暇など微塵も残されていなかった。
正気を失った青年――ノワールが、喉の奥から獣のような重苦しい唸り声を絞り出したのだ。
「ア……ガァァッ!!」
人語ではない、魂を削るような咆哮とともに、ノワールの手元に凝縮された闇の魔力が集い、一振りの凶悪な刃を形成した。
振るわれた漆黒の刃から、空間そのものを両断するような斬撃が一閃する。
「散開ッ! 若人らを守れ!!」
ボルドーの怒号が響く。
歴戦のプロチームが即座に反応し、学生チームの前に割って入った。
ボルドーが巨大なタワーシールドを構え、レオンが交差させた双剣に風の障壁を纏わせ、シエラが蛇腹剣を螺旋状に旋回させて雷の盾を張る。マリンはその裏で学生チームをかばうように水の障壁を展開していた。プロ四人が全力を注ぎ込んだ絶対防御の陣。
ドッゴォォォォォンッ――!!
「ぐ、おぉぉぉッ!?」
「くっ……なんっ……て重さだ……!」
衝突の瞬間、轟音とともにボルドーの巨体が数メートルも後方へと押し込まれ、レオンの風が容易く掻き消された。プロのトップランカーたちが、たった一撃の余波で防戦一方に追い込まれる。
あり得ない。これほどの出力の化け物が、何の前触れもなく目の前に存在していること自体が。
『――全員、退却だ! 今すぐ退却しろ!!』
通信機から、鳴神先生の悲鳴にも似た絶叫が叩きつけられた。
モニター越しに送られてくる観測データは、もはや計器の限界値を振り切っていたのだ。
通常の人間やモンスターでは絶対にあり得ない、天文学的な魔力量と濃密な瘴気。肉体に魔力を宿しているのではない。それはまるで――『魔力そのもの、現象そのものが人の形を成している』かのような特異点。
ノアの身体構造を解析した際に得られた、あの人知を超えた生体データと酷似していた。
『任務は完全放棄だ! ボルドー、レオン、学生たちを連れて今すぐ全力で引けッ!!』
「ノアさん! ノアさん、逃げますよ!」
「しっかりしなさいな!」
氷華が叫び、クローディアが手を伸ばす。クラリスも必死に炎の壁を展開しようと杖を構えていた。
だが――ノアの耳には、その声が届いていなかった。
(ノワール……どうして……君が……)
赤く染まった瞳の青年を呆然と見つめたまま、ノアの視界が急速に色を失っていく。
仲間たちの叫び声も、爆発音も、まるで分厚い水底へと沈んでいくように遠のいていく。
ノアの意識の糸は、唐突にぷつりと途切れた。
◇
深い、深い、暗闇の底。
途切れた意識の彼方で、ノアはいつかの記憶の断片を視ていた。
天を焦がすような天変地異。
世界を呑み込もうとする、凶悪で強大な『何か』との絶望的な死闘。
吹き荒れる風と舞い散る火の粉の中で、小柄な少女の姿をした精霊は、ボロボロになりながら倒れ伏す黒衣の青年を背に庇っていた。
命からがら展開された封印陣。
青年を庇いながらその術式を完成させた代償として、少女の胸元には、残酷なまでに大きな風穴が開いていた。
『……っ、ノ……! おい、目を開けろ!』
『嘘……そんな……!』
周囲を取り囲む精霊たちの悲痛な叫び声が、遠い潮騒のように霞んでいく。
冷たくなっていく少女の背中で、抱き起こそうとする青年の声だけが、痛いほどはっきりと鼓膜を震わせていた。
『なんで……なんで、俺なんかのために……ッ!』
血を吐きながら、少女は掠れた声で、けれど愛おしそうに微笑んで答えていた。
『そんなの……君だから……』
すべてを光が呑み込み、映像が白く溶けていく。
やがて、その白い光の向こう側から、誰かが自分を呼ぶ必死な声が響いてきた。
「……ノアさん! ノアさん……っ!」
ふと、重い瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた洞窟の岩肌ではなく、清潔で無機質な真っ白な天井だった。
そして、涙を浮かべて取り乱したようにこちらを覗き込む氷華と、青ざめたクラリス、拳を強く握りしめるクローディアの顔。
(……ああ。僕……気を失っていたんだ……)
安堵と混乱が入り混じる中、ノアの意識はゆっくりと現実へと浮上していった。




