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風の精霊、人として生きる

「お、重い……足が上がらないよ……」


世界樹ダンジョン第1層、地上へと続く大階段の手前。

僕はブカブカの破れた男子制服の裾を引きずりながら、生まれたての小鹿のようにプルプルと震える足で歩いていた。


『あらあらノアちゃん、大丈夫? もう少しでお外よ〜』

『さっきのド派手な一撃の反動じゃね? 魔力は全回復してても、お腹はペコペコってヤツ!』

『……血圧、血糖値の急激な低下を感知。……無理は禁物だ』


脳内に響くアクアリア、フルグル、テラの心配そうな声。

風の精霊と同化して規格外の魔力を得たとはいえ、人間の肉体として受肉した以上、エネルギー(ご飯)を摂らないと普通にガス欠で倒れるらしい。


ぐぎゅるるるる……。


お腹から、自分でも引くくらい情けない音が響く。


「うぅ……力が入らない……。せめて学食の……かけうどん……」


視界が急速に狭まり、足がもつれる。

僕はそのまま、ダンジョン出口の石畳へとバタリと倒れ込んでしまった。



「――おい! 大丈夫か、しっかりしろ!」


遠くから響く凛とした女性の声。

それと同時に、パチパチと微弱な静電気のような魔力と、ふわりと香る白樺のような落ち着いた匂いが僕を包み込んだ。


硬い床から抱き起こされ、柔らかい何かに頭を乗せられる。

重い瞼をうっすらと開けると、そこには長身で黒髪を高い位置でポニーテールに束ねた、白衣姿の凛々しい女性がいた。

腰には一振りの業物。身に纏うのは、歴戦の探索者だけが放つ鋭い覇気。


(あ……鳴神先生だ……)


アルトだった頃、学園の講堂で遠巻きに見たことのある名物教師。元プロのSランク雷撃剣士だ。

もちろん、先生が僕のような底辺生徒の顔を知っているはずもない。


「……ん……うどん……」

「うどん!? いや、それより君、その酷い破れ服……いや、傷はないのか? だが魔力の波長が異常だ。何より、なぜこんな幼い少女が男子の制服を着て深層の気配を纏っている……?」


女性――鳴神先生は僕の手首を取り、魔力脈を診ながら目を見張った。


『まあまあ、この人間の方、とても芯の通った優しい魔力をしていますね』

大精霊様の穏やかな声が脳内に響く。

『ノア、この方に身を委ねてごらんなさい。今のあなたに必要なのは、暖かな寝床と休息ですよ』


「……お腹……すきました……」

限界だった僕の意識は、そこで完全に途切れた。



ピピピ……ピピピ……。


規則的な生体モニターの電子音で目が覚めた。

視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井と、幾重にも張り巡らされた結界の淡い光。

ベッドの周りには物々しい大型の魔力測定機器が並び、マジックミラーの向こうでは白衣を着た研究員たちが険しい顔でモニターを睨み合っていた。


「……ここ、どこだろ……」


「気がついたか」


カーテンが引かれ、先ほどの黒髪ポニーテールの女性が入ってきた。

手にはトレイに乗った温かいお粥と出汁の効いたスープがある。


「あ……あなたは……」

「私は鳴神冴香(なるかみ さえか)。国立世界樹総合探索学園で教鞭を執っている者だ。ダンジョン浅層で行き倒れていた君を保護した。……まあ、まずは腹に何か入れなさい。君の胃壁は極度の飢餓状態だった。刺激物は避けて流動食にしてある」


「あ、ありがとうございます……」


スプーンを手に取り、恐る恐る口に運ぶ。

優しい塩気と出汁の旨味が、乾ききった身体にじんわりと染み渡っていった。あまりの温かさに、鼻の奥がツンとする。


僕がスープを飲み干すのを見届けると、冴香先生はベッド脇のパイプ椅子に深く腰掛け、分厚いファイルを膝の上に置いた。その表情は、いつになく重苦しい。


「さて。君が意識を失っている間に、学園の最高研究医療機関で徹底的な精密検査を行わせてもらった」

「……どうだったんです?」

「単刀直入に言おう。現代の魔導医学・探索者解剖学の常識では、君の存在そのものが『説明不能』だ」


鳴神先生はファイルを開き、青く発光する魔力回路のレントゲン写真を僕に見せた。


「通常、人間の体内には魔力を通すための神経系があり、外部の魔素に対して一定の抵抗値を持つ。だが、君の体内にはその抵抗値が一切存在しない。それどころか、細胞の隅々に至るまで世界樹の根と同じ超高密度の自然魔素で満たされている。……まるで、純粋な自然現象そのものが人の形を取っているかのような異常体質だ」


(やっぱり、風の精霊と完全同化した影響がモロに出てるんだ……)


「過去の探索史にも、こんな症例は一件も記録されていない。未知のダンジョン災害、あるいは高濃度魔素による突然変異――現時点では分類する言葉すら存在しない『未観測の特異症例』だ」


「僕……どうなっちゃうんですか……?」


不安になって尋ねると、鳴神先生は僅かに眉根を寄せ、窓の外の研究員たちを一瞥した。


「上層部や研究機関の連中は、君を直ちに隔離し、国の特別研究施設へ移送して徹底的に解剖・サンプル採取を行うべきだと主張したよ。未知の生体サンプルとして、一生カプセルの中で観察対象にされるところだった」


「……ぇ゙……」


背筋に冷たいものが走る。

だが、鳴神先生は強い眼差しで僕を真っ直ぐ見つめ返した。


「だが、私がその決定を突っぱねた」

「え……?」

「未知の現象だからといって、心を持ち、言葉を話す子どもを実験動物のように扱うなど断じて認めん。……私は理事長と政府の特務監査官に対し、『これほど前例のない特異体質を外部へ隔離移送・拘束すれば、精神的ストレスによる大規模な魔力暴発のリスクが高すぎる』と掛け合った」


鳴神先生は腕を組み、静かに、けれど揺るぎない口調で言葉を継ぐ。


「結果として、学園都市の最高管理下において『保護観察を兼ねた経過研究』という形で合意を取り付けた。君の存在と検査データは最高機密に指定され、理事長と私、担当医の数名以外には一切明かされない」


「最高機密……」


「ああ。外部や学園の一般生徒に対しては、あくまで『ダンジョン浅層で行き倒れていた、身元不明・記憶混濁の特待生』として処理する。君には普通の人間として、一般の学生と同じように通常の生活を送ってもらう」


鳴神先生はそこでふと表情を和らげ、優しく問いかけてきた。


「……ところで、君の名前を聞いていなかったな。自分の名前は覚えているか?」


アルト、という名前はもう使えない。記録上は死んだことになっているはずだし、何より今の僕は女の子の姿だ。

大精霊様から授かった、新しい名前。風の精霊としての名。


「……ノア、です」


「ノアか。いい名だ」

鳴神先生は手元のカルテに『ノア』とペンを走らせると、頷いた。


「ノア、君の身元引受人――保護者としての全責任は、元Sランク探索者であるこの鳴神冴香が個人で負う。明日から君には、私が担任を務める高等部2年Dクラス――支援科に編入してもらう。住まいも、一般的な第二学生寮の部屋を手配した」


「普通の、寮生活……ですか?」


「そうだ。特別な隔離施設ではなく、普通の学生として友人と笑い、授業を受け、日常を過ごすこと。それこそが君の魔力を安定させる最善の環境だと私が上層部を説得したのだからな。……もちろん、私の観察下にあることには変わりないが、窮屈な思いはさせん」


「鳴神先生……っ。そこまでしてくれて、本当にありがとうございます……!」


僕はお荷物で、使い捨ての囮として捨てられたはずの人間だ。

それなのに、出会ったばかりのこの人は、自らの立場や責任を賭けて見ず知らずの僕を匿い、守ってくれた。


「私は元より曲がったことが嫌いなだけだ。……それに、君の魔力は異様だが、その奥にある気配はどこまでも澄んでいて穏やかだった。そんな人間が、悪意を持って世界を害するはずがないと私の勘が言っている」


冴香先生はふっと微笑むと、大きな手で僕の白銀の髪をぽんぽんと撫でた。


「制服や生活必需品はすでに寮の部屋へ届けてある。まずはこれを使いなさい。学園内の連絡や決済、ギルドの身分証も兼ねている」


渡されたのは、薄型の生徒手帳型端末だった。


「はい!」


端末を受け取り、電源を入れる。

通信機能がアクティブになった瞬間、ピコンピコンとけたたましい通知音が鳴り響き、学園都市のネットニュースが画面一面を埋め尽くした。


「ん……? なんだこの騒ぎは。さっきから学園のネットワークがやけに重いが……」


鳴神先生も不審そうに自分の端末を覗き込む。

僕の手元の画面には、燦然と輝く特大の見出しが躍っていた。


【D-net急上昇トレンド1位】

『第20層に出現した白銀の守護者! ネームド変異種を一撃解体!』

『プロ配信者・水無瀬マリン救出の瞬間(再生数:2,500万回)』

『【神話の再来】謎の「翠光の仮面」を目撃・考察するスレ Part12』


「……な、なんだこれぇぇぇぇっ!?」


僕の悲痛な叫びが、静かな病室に木霊した。

幸いなことに、冴香先生は「ふむ、深層の気流が乱れて変異種が出たのか。物騒な世の中だな」と眉をひそめるだけで、画面に映る白仮面が目の前の小さく震える少女だとは夢にも思っていないようだった。


こうして僕は、かつての一ノ瀬アルトとしての過去を捨て、未観測の特異生体――表向きは『普通の2年Dクラス生・ノア』として、波乱含みの新生活を踏み出すことになったのだ。

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