翠光の少女
「ちょ、嘘でしょ!? なんで第20層にこんなの湧いてんのぉぉぉっ!?」
世界樹ダンジョン第20層、苔むした大回廊。
飛び交う悲鳴とけたたましいアラート音のなか、水無瀬マリンは青髪のツインテールを激しく揺らしながら必死に地を蹴っていた。
頭上を追尾するのは、最新型の魔導配信ドローンだ。
浮遊カメラのレンズ越しに、宙に浮かぶ透過ウィンドウのチャット欄が目にも止まらぬ速さで流れていく。
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『うわあああマジで変異種じゃん!』
『第20層にネームド級とかいんのかよ』
『マリンちゃん早く帰還スクロール使って!』
『間に合わない! 詠唱遮断されたら死ぬぞ!』
『誰か救助呼べ! ギルド何やってんだよ!!』
「使おうにも、発動の硬直時間すら稼げないってのぉぉ!」
マリンが振り返りざまに杖を振る。
「『水翔刃』――っ!」
高圧の刃が飛ぶが、追手を阻むことはできない。
背後に迫るのは、全身が黒い樹皮と棘で覆われた『深淵の奇形竜 キメラ・ドレイク』。第30層以深にしか生息しないはずの凶悪な変異種だ。
放たれた水刃など、硬質な外殻に当たってパチンと弾け飛ぶだけ。
ギシャアアアアッ!
耳を劈く咆哮とともに、巨大な尾が一閃。
回廊の巨大な支柱が軽々とへし折れ、飛び散った岩塊がマリンの足を薙ぐ。
「きゃあっ……!?」
バランスを崩し、石畳に派手に転がる。
杖が手から滑り落ち、無情にも数メートル先へ転がっていった。
ドローンカメラが、絶体絶命のマリンの姿を無慈悲に世界中へ中継し続ける。同接はすでに50万人を突破していた。
ドスン、ドスンと重い地響き。
巨竜が口を大きく開き、口腔の奥に禍々しい紫黒のブレスの光が収束していく。
(あ……ダメだ、死ぬ……っ)
マリンはぎゅっと目を閉じ、腕で頭を庇った。
リスナーの阿鼻叫喚がコメント欄を埋め尽くす。
だが――その瞬間。
『――よかった、間に合ったみたいだ』
頭上から降ってきたのは、鈴の音のように澄んだ、けれどどこかこの世ならざる超然とした少女の声だった。
ぴたり、と世界の音が止まった。
いや、違う。周囲の「大気」が、一瞬にして完璧な統制下に置かれたのだ。
肌を刺すような熱気も、魔物の放つ腐った瘴気も、すべてが清涼な風によって一瞬で洗い流される。
「え……?」
マリンが恐る恐る目を開ける。
そこにいたのは、宙にふわりと浮かぶ一体の影。
ぶかぶかの黒いローブを纏い、顔には感情を一切読ませない無機質な白い鉱石の仮面。
フードの隙間からこぼれ落ちる髪は、淡い翡翠の光を帯びた、息を呑むほど美しい白銀色。
宙に浮いた仮面の少女は、巨竜に向けて、ただそっと華奢な右手をかざした。
詠唱はない。
魔方陣の展開、予備動作の溜めすら存在しない。
少女がただ、世界樹の空気に「命じた」だけだった。
「――切り刻め」
不可視の神速。
第20層の大気そのものが数千、数万の極薄の刃へと変質し、空間ごと巨竜を包み込んだ。
音すらなかった。
次の瞬間、ガガガガガガッ!と遅れて爆発的な真空の破断音が鳴り響き、硬度ダイヤモンドを誇る変異竜の外殻が、まるで豆腐のように綺麗にサイコロ状へと解体されていく。
ドオオオオオオン……!
紫黒のブレスを放つ間もなく、巨竜は自重で崩壊し、光の粒子となって霧散した。
残ったのは、綺麗に切り揃えられた魔石と、そよぐ清涼な風だけ。
「う……そ……?」
マリンは腰を抜かしたまま、呆然と上空を見上げる。
仮面の少女は、マリンを一瞥することもなく、くるりと背を向けた。
「あ、あのっ……! 待って、あなたは――!?」
マリンが絞り出すように叫ぶ。
しかし少女は振り返らず、足元の気流を爆発させると、緑の残光だけを回廊に残して音もなく虚空へと消え去った。
沈黙。
そして、置き去りにされた配信ドローンが映し出すコメント欄が、信じられない速度で爆発した。
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『!?!?!?!?!?』
『は????? 何が起きた????』
『あれ、千層嵐刃じゃねーの……!? 無詠唱はあり得ねえだろ!!』
『一撃で変異種が消し飛んだぞ!?』
『白銀の髪……白い仮面……誰だあの子!?』
『神だ……世界樹の守護天使だ……!!』
『おい誰か今のクリップ保存したか!? 世界トレンド1位行ったぞ!!』
「す、翠光の……仮面……?」
マリンは茫然自失のまま、その消え去った緑の風を見つめ、胸を強く押さえていた。
その瞳には、すでに強烈な熱と、信仰にも似た光が宿り始めていた。
◇
「ふ、ふええええ……っ! 緊張したぁぁぁ……っ!」
数分後。第10層の安全地帯の木陰に転がり込んだ僕は、仮面をかなぐり捨てて地面にへたり込んでいた。
『あらあらノアちゃん、とってもかっこよかったわよ〜?』
『あはは! 見た見た!? 配信カメラにバッチリ映ってたじゃん! コメント欄マジでお祭り騒ぎなんだけど!』
アクアリアとフルグルが楽しそうに囃し立ててくる。
「も、もう絶対やらないからね……! あんな大勢に見られてたなんて聞いてないよ……!」
小さくなった自分の手を見つめながら、僕は小さく息を吐いた。
アルトだった頃の僕なら、絶対に助けられなかった。
でも、この力があれば――理不尽に命を落とす誰かを救えるのかもしれない。
ぐぅぅぅ……。
「……あ、お腹すいたな」
そういえば、女の子になってから何も食べていない。
まずは地上に戻って、ご飯を食べなきゃ。
僕はお腹を押さえながら、重力制御の風を纏い、地上へと続く階段をトコトコと登り始めた。
この時、自分がネット上でとんでもない「神」として崇められ始めていることなど、露ほども知らずに。




