底の底、さよなら僕の過去
「おいアルト、お前ここで囮な」
湿り気を帯びた深層の冷気のなか、リーダーの豪島が無造作に言い放った。
「え……? お、囮って……豪島さん、何を言って――」
「聞こえなかったのか? あのでかい変異種を足止めしろって言ってんだよ」
僕――一ノ瀬アルトは、背中に背負わされた巨大な荷物リュックのベルトを握りしめたまま硬直した。
目の前には、世界樹ダンジョン第28層『嘆きの樹洞』の主と呼ばれる、樹皮のような外殻を纏った巨大な異形熊が立ち塞がっている。地面を軋ませるほどの濃密な瘴気と魔力圧。僕たち探索者学園の学生クラン『剛腕の鉄血隊』が束になっても敵わない、明らかな格上だ。
「で、でも、僕には攻撃スキルなんてないし、足止めなんて無理だよ……!」
「うるせえな! 男のくせにガタガタ震えてんじゃねえよ!」
前衛の陣内が、僕の背中を乱暴に小突く。
「お前、今まで誰のおかげでこのクランにいられたと思ってんだ? 攻撃魔法も撃てねえ、派手な回復もできねえお荷物を、情けで置いてやってたんだぞ。たまには役に立てよ」
「そ、それは……っ」
反論の言葉が喉でつっかえる。
確かに、僕の固有スキル『魔力調律』は地味だ。
味方が魔法を撃つときに魔力の波長を合わせて威力を安定させたり、回復魔法を受けるときの拒絶反応を消して効率を上げたり……。自分単体では攻撃力なんて皆無の、ただの潤滑油みたいなスキル。
僕はお荷物だから。
クランのみんなに迷惑をかけないように、言われた荷物持ちも、雑用も、夜の見張りも、全部言いなりになってこなしてきた。
たまに男子学生らしく「僕だってこれくらいできる」と強がってみせても、彼らにとっては都合のいいパシリでしかなかったのだ。
「大丈夫だからさ。男だろ? ちょっとくらい強気で見栄張ってみせろよな」
豪島は嘲るような笑みを浮かべると、僕の胸元を力任せに突き飛ばした。
足がもつれ、視界が反転する。
僕は、異形熊の分厚い足元へと転がり落ちた。
「じゃあな、アルト。お前の犠牲は無駄にしねえよ!」
「待って……豪島さん! みんな――っ!」
ドクン、と空気が破裂するような重圧。
振り向いた瞬間、巨熊の丸太のような剛腕が視界を覆い尽くした。
――あ、死ぬ。
激痛。骨が軋み、折れる鈍い音。
吹き飛ばされた身体は、ダンジョンの亀裂の底――底知れぬ暗黒の裂け目へと真っ逆さまに落ちていく。
遠ざかる仲間たちの背中を見上げながら、僕の意識は急速に冷たい闇へと沈んでいった。
◇
(……寒いな。僕、ここで死ぬのかな)
底の底。ダンジョンの最深部、誰も足を踏み入れたことのない大地の亀裂。
全身の血が抜けていくような感覚のなか、胸のあたりに淡い温もりを感じた。
『……くる、しい……だれ、か……』
か細い、消え入りそうな声が頭の中に響く。
視線を落とすと、僕の胸の上に、透き通るような淡い翡翠色の光を放つ小さな宝玉が転がっていた。
いや、違う。あれは――生きている。
宝玉の鼓動のように流れてくる記憶の断片。
かつて地上を守るために力を使い果たし、眠りについていたという、風の精霊の幼生体の核。
僕と同じように、今にも消えかけている命。
(君も……苦しいの……?)
僕はお荷物だった。誰の役にも立てなくて、最後は使い捨てられた。
でも、この小さな光を見捨てることだけは、どうしてもできなかった。
痛む右手を震わせながら、僕はそっとその光に触れる。
――僕の魔力でよければ、全部使って。
僕の固有スキル『魔力調律』が、途切れそうな意識の奥底で、限界を超えて駆動した。
他人の魔力に自分の波長を合わせるだけの、情けない僕の力。
けれど、その瞬間。
『――あたた、かい……?』
『――魂ノ同調率、100%ヲ検知。宿主トノ完全融合・生体再構築ヲ開始シマス』
カッと視界が白銀と翡翠の光で染まった。
僕の魂と、風の精霊の核が、境目もなく溶け合っていく。
(熱い……身体が、溶けていく……!?)
成人男性の骨格が、筋肉が、精霊の純粋な魔力に耐えきれず一度ほどかれ、魔力抵抗値ゼロの「純粋な器」へと急速に縮小・再構築されていく。
短かった黒髪が、淡い翡翠色の燐光を帯びた白銀の長い髪へと変わり、傷だらけだった肌が陶器のように透き通っていく。
『肉体ノ再構築完了。固有スキル【大気統律】ヲ獲得シマシタ』
◇
「……ん……っ」
どれくらい時間が経っただろうか。
目を開けた僕は、恐る恐る体を起こした。
「え……?」
口から零れ出たのは、自分でも耳を疑うほど高くて澄んだ、鈴を転がすような声だった。
視界に入る自分の手は、驚くほど小さく、華奢で、指先がかすかに桜色をしている。
肩からこぼれ落ちる髪は、淡い翡翠の光を放つ綺麗な白銀色。
胸元を触る。……ぺたんこだし、何より全体的に小さすぎる。
破れた男子用の制服はブカブカで、まるで大人の服を着せられた子どものようになっていた。
「な、なんで……!? 僕、女の子になってる……!?」
パニックになって固まる僕の前に、ふわりと淡い光の粒子が集まり、いくつもの姿が浮かび上がった。
人間の目には決して映らない、高次元の霊体。
けれど精霊と同化した僕の瞳には、彼らの姿がはっきりと見えていた。
「まあまあ……無事に目を覚ましたのですね。おかえりなさい、私の愛しい風の子。……ずっと心配していましたよ」
目の前にいたのは、新緑のヴェールを纏い、黄金の瞳で僕を優しく見つめる大精霊マグナ・マテル様だった。世界樹そのものの化身であり、すべてを包み込むようなあたたかい微笑みを浮かべている。
「ひゃあっ!? あ、あの……!?」
「ふふ、怖がらなくても大丈夫ですよ。……あなたの魂は、十数年前に世界を救って眠りについていた風の精霊と完全に一つになりました。これからはあなたが、世界樹の風を導く『ノア』なのです」
大精霊様の後ろから、さらに賑やかな面々が姿を現す。
それと同時に風精霊の記憶が、次々とよみがえってくる。
「おーいノアっち起きたー!? 良かったー! つかマジでちっちゃい美少女になってんじゃん! 超ウケるんだけど!」
金髪ツインテールの放電を散らしながら、空中でくるくると飛び跳ねているのは雷の精霊フルグル。
「……おいフルグル、騒ぐな。ノア、身体の軋みはないか。……無理はするなよ」
頑丈な岩の鎧のような巨躯をゆったりと屈め、心配そうに覗き込んできたのは地の精霊テラ。
「あらあらテラちゃんたら心配性ねぇ。ノアちゃん、喉は渇いてないかしら? 美味しい湧き水、届けてあげましょうか〜?」
透き通る水色の髪を揺らし、たゆんとした胸元に手を当てておっとり微笑むのは水の精霊アクアリア。
「けっ! 生きてんならさっさと起きろノア! 第35層のダクトが魔物のカスで詰まって熱が逃げねえんだよ! 換気しに来やがれ!」
赤髪のツンツン頭に八重歯をのぞかせ、腕組みをしてそっぽを向くのは火の精霊イグニス。
「これ、イグニス。目覚めたばかりのノアを急かしてはいけませんよ」
「ぐっ……大精霊様、そりゃそうだけどよぉ……」
本来、高次元の精霊たちは人間には知覚できない。
けれど風の精霊と同化した僕には、彼らの姿も表情もリアルに見え、テレパシーの声もダイレクトに届くのだ。
「……ノア。第20層、中層連絡路。……人間が魔物に追われている」
テラが指を差した瞬間、僕の脳裏にダンジョンの立体的な構造と、数キロ先で怯える探索者の心拍数が鮮明に視えた。
「人が、死んじゃう……! 行かなきゃ……!」
駆け出そうとした僕を、大精霊様がふわりと優しく引き留める。
「待ちなさい、ノア。……今のあなたは肉体を持って受肉したため、他の精霊たちと違って人間たちの目にもその姿がはっきりと見えてしまいます。精霊として活動するときに姿を覚えられてしまうと、今後地上で生活する際にも騒ぎになって不都合でしょう。……せめて顔を隠したらいかがですか?」
「正体を……?」
「あ、それならアタシに任せて! さっきダンジョン内で拾ったこの仮面使いなよノアっち!」
フルグルがパチッと火花を散らすと、手元から白い鉱石でできた無機質な仮面がぽすんと僕の手に手渡された。
「え、あ、うん……! わかった、これ被っておくね!」
ブカブカになった男子制服のローブを深く被り、白い仮面を装着する。
足元に意識を向けた瞬間、足裏の大気がふわりと凝縮し、僕の身体は重力を忘れたように宙へ浮かび上がった。
風が、僕の手足のように巡っている。
僕はお荷物の一ノ瀬アルトじゃない。
でも、困っている人を見捨てられない「僕」のまま、ダンジョンの気流を蹴って地上へと音もなく飛び出した。




