私の神様
第10層の転移門前は、避難してきた生徒たちの喧騒と怒号で騒然となっていた。
「全員、怪我はありませんね!? 落ち着いて指示に従いなさい!」
クラリスの的確な引率により、生徒たちは無事にダンジョン入り口のセーフティエリアまで退避を完了していた。
鳴り響く警報。騒ぎを聞きつけたギルドの救助隊や学園の教官たちが、重厚な装備を整えて次々とダンジョン内へ突入していく。
その混乱のさなか、リノが周囲をキョロキョロと見回し、青ざめた。
「あ、あれ……!? ノアちゃんは……!? ノアちゃんがいないっすよ!?」
「えっ……!? せ、先輩……!?」
夜々が大盾を抱えながら血相を変える。
つい先ほどまで後ろを走っていたはずのノアの姿が、どこにも見当たらなかった。
◇
生徒たちの避難の波をすり抜け、僕は全速力で来た道を引き返していた。
『ノアっち、持ってきたよ〜! はいっ!』
フルグルがパチパチと小さな紫電を散らしながら宙を舞い、仮面を抱えて届けてくれた。
「あ、ありがとう!」
僕は走りながら顔に仮面を装着する。
その時、大精霊マグナ・マテル様の声が脳裏に響いた。
『気をつけなさい、ノア。あれは、通常の個体ではありません』
「大精霊様……!」
『わたくしたち精霊の統理すら届かぬ最深部の底から漏れ出た、極めて凶悪な瘴気に当てられています。細胞そのものが異常活性化し、その生命力も尋常ではありません。……油断は禁物ですよ』
「はい……! 氷華さんは、絶対に死なせはしません!」
僕は大気の流れに乗り、音を置き去りにして加速した。
◇
第10層、木立の広場。
(しまっ……!?)
氷華の背後から振り下ろされる、黒骸竜の凶悪な尾の棘。
回避も防御も間に合わない至近距離。迫り来る死の予感に、氷華が強く目を閉じた――次の刹那。
――切り裂け。
不可視の神速。
大気そのものが巨大な刃と化し、空間ごと世界を両断する鋭い風切り音が鳴り響いた。
ズバァァァァァンッ……!!
「グ、ギャ……ッ!?」
振り下ろされかけていた黒骸竜の太い尾、そして強固な外殻に覆われたその巨大な胴体が、紙切れのように斜め一文字に両断されていた。
断ち切られた巨体がどす黒い体液を撒き散らしながら、轟音とともに左右へと崩れ落ちる。
「……え?」
予想された衝撃が訪れず、氷華がそっと目を開けた。
目の前に広がっていたのは、粉砕された怪物の残骸――そして。
顔を覆う、優美な翠光の仮面。
風の精霊の魔力をその身に宿し、ふわりと大気に揺れながら、淡い薄緑色に幻想的な輝きを放つ美しい銀髪。
(あ…………)
息が止まった。
頭の中が真っ白になり、周囲の音も、自分が立っている地面の感覚すらも消え去る。
それは、画面越しに幾度となく見つめ、魂を奪われ、心の底から憧れ続けた――本物の『翠光様』の姿だった。
あまりの神々しさと美しさに、氷華はただただ呆然と見とれてしまう。
「あ……貴方、は……」
氷華が震える唇を開き、縋るように声をかけようと手を伸ばした。
けれど。
仮面の奥の瞳が、両断されて完全に光を失い沈んでいくモンスターを確認し、続けて氷華の身体を上から下へと素早く見下ろした。
目立った外傷がないことを確かめると――
シュッ。
言葉ひとつ残さず、仮面の人物は突風を巻き起こして真後ろへと跳躍した。
(よし、怪我はないね! 誰かに見つかる前に、そして僕がいないのを怪しまれる前に、急いで戻らなきゃ……っ!)
ノアは背を向けるや否や、疾風の如き速度で樹海の奥へと一目散に駆け去っていった。
あまりの引き際の良さと、一切の余韻を残さない逃走劇。
「えっ……? あ、待っ……!」
氷華が伸ばした手は空を切り、そこには清らかな風の残香だけが微かに漂っていた。
「神薙さんッ! ご無事ですか!!」
直後、木々を薙ぎ払って鳴神先生率いる討伐部隊と救助隊が広場へ雪崩れ込んできた。
すれ違いで到着した大人たちが、両断された黒骸竜の巨躯を見て目を見張り、慌てて氷華を取り囲む。
「おい、神薙! 怪我はないか!? 一体何が……この傷口は……!」
鳴神先生が驚愕の声を上げ、周囲が安堵と混乱で騒ぎ立てる中、氷華は隊員たちに応答することすらできなかった。
胸の奥が、かつてないほど熱く激しく脈打っている。
(……助けて、くださった……。私の……神様が……)
目の前に現れたあの圧倒的な強さ。
風に靡いていた、薄緑色に美しく透き通る銀髪。
心ここにあらずの状態で、氷華は網膜に焼き付いた最愛の推しの残影を、夢見るように何度も何度も反芻していた。




