夕暮れと紅茶
放課後の旧校舎裏、特別隔離寮。
夕暮れの茜色が斜めに差し込む談話室には、カチリ、カチリと壁掛け時計が秒を刻む音だけが静かに響いていた。
パイプ椅子に浅く腰掛け、窓の外の木々をぼんやりと見つめていたクロちゃんは、廊下から近づいてくる規則正しい足音に、ピクリと肩を揺らした。
隙のない、定規で測ったかのように均等な歩幅。
コン、コン、と硬質なノックが二回。
「――入りますよ、07番」
開かれた扉から入ってきたのは、生徒会長・神薙氷華だった。
腕には生徒会腕章、手には書類が挟まれた分厚いバインダー。青銀の髪を揺らし、その涼やかな双眸が室内のクロちゃんを捉える。
「……なによ。今日はあのうるさい眼鏡もデカ女もいないわよ」
クロちゃんはツンと顎をそらし、首元の鈍色に光る『監視の首輪』を爪先でカリリと引っ掻いた。
「ええ、存じています。今日は生徒会長として、特例被検体の生活環境および拘束術式の定期視察に伺いました。……三人での立ち会いは義務付けられていませんので」
氷華は淡々と告げると、手元に下げていた小ぶりなバスケットをテーブルの端に置いた。
中から取り出されたのは、湯気を立てる耐熱ガラスのポットと、二つの陶器のカップ。
ふわりと、柑橘に似た爽やかなハーブの香りが室内に広がる。
「……なによこれ。毒味でもさせに来たわけ?」
「精神安定作用のあるカモミールとレモングラスの調合茶です。……首輪による魔力抑制は、神経系に少なからず負荷をかけますから」
氷華は手際よく琥珀色の湯をカップへ注ぎ、一つをクロちゃんの前に押し出した。
「ふん。相変わらず偽善者ぶるのが上手いこと」
クロちゃんは鼻を鳴らしつつも、漂ってくる香りの良さに抗えず、カップを両手で包み込んだ。
おそるおそる唇をつける。
「…………っ、にが」
思わず眉根を寄せるクロちゃんに、氷華の口元が微かに緩む。
「最初はそう感じるかもしれませんね。ですが、後味はすっきりしているはずです」
「草の汁よこんなの。あの眼鏡が持ってくるプリンのほうが百倍マシね」
悪態をつきながらも、クロちゃんはちびちびと喉を潤していく。
温かな液体が胃の腑へ落ちるたび、首輪の締め付けで強張っていた首筋の筋が、解れていくのが分かってしまった。
しばらくの間、二人の間には湯気の揺れる静けさだけが流れた。
クロちゃんの赤い瞳が、ポットの向こうで静かに書類へ目を落とす氷華を観察するように眇められる。
「……ねえ。アンタ、アタシの顔を見るの、嫌じゃないわけ?」
ぽつりと落とされた問いに、氷華の手が止まった。
クロちゃんは自嘲気味に口角を歪め、自分の黒髪を指先で弄ぶ。
「アタシはあいつ……ノアの肉体データから作られた複製よ。顔も背丈も、魔力の波長だってあいつの紛い物。……アンタたちの大事な神様を奪った元凶の、成れの果てよ」
吐き捨てる言葉には、かつてのような狂気も、世界を壊してやろうという傲慢さもない。
ただ、自分という存在の薄っぺらさに辟易しているような、底の知れない虚無感が滲んでいた。
「アタシから『憎悪』と『薬』を抜いたら、何も残らなかった。アタシはあいつを殺すためだけに培養槽から引っ張り出された泥人形よ。……そんな偽物がのうのうと生きてて、目障りでしょうがないんじゃないの?」
鋭い棘を含んだ言葉。
だが、氷華はその青銀の瞳を伏せることも、怒りを滲ませることもなかった。
静かにカップをソーサーに戻すと、氷華はクロちゃんの赤い瞳を、真正面から見つめ返した。
「……ええ。最初は、複雑でした」
「ほら見なさいよ」
「ですが、それは貴女を憎んでいるからではありません」
氷華は淡々と、けれど芯の通った声で言葉を継いだ。
「貴女を見ていると……かつての自分を思い出すからです」
「……は? アンタが? 優等生の生徒会長サマが、アタシと同じなわけないでしょ」
クロちゃんが馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「同じでしたよ」
氷華は小さく首を横に振った。
「神薙の家に生まれ、周囲の期待に応えることだけを己の存在理由とし……『完璧な後継者』という役割を演じるための人形でした。自分の意志などなく、敷かれたレールの上で誰かの理想をなぞるだけ。……それを奪われ、敗者として泥に塗れた時、私の心の中にも、今の貴女と同じような暗い穴が空いていました」
九重蓮夜に憧れ、背中を追い、そして打ちのめされた過去。
「何者でもなくなってしまった自分」の無力さに打ち震えていたあの日々。
「何かの代わりとして作られ、その役割を失って立ち尽くす痛みを……私は、知っています」
氷華は穏やかな眼差しで、クロちゃんの小さな両手を見つめた。
「ですが07番。……いえ、クロちゃん」
「……クロちゃんでいいわよ、もう」
不貞腐れたように呟く少女に、氷華はふっと柔らかく微笑んだ。
「貴女は、ノアさんの偽物ではありません。あの子の優しさに借りを返したいと足掻き、首輪の痛みに耐え、こうして不味そうにお茶を飲んでいる……それは間違いなく、貴女自身の命です」
「っ……」
「空っぽなら、これから満たせばいい。誰かに与えられた役割ではなく……貴女自身の意志で、選び取っていけばいいのです」
真っ直ぐで、一片の濁りもない言葉。
かつてノアから受け取った光を、今度は自分が目の前の不器用な少女へと手渡すように、氷華は言った。
クロちゃんは息を呑み、それからカッと顔を真っ赤にしてカップを両手で持ち上げた。
「……な、何よそれ! 生徒会長みたいな、クサいセリフばっかり並べ立てて! 説教なら聞き飽きてんのよ!」
「ふふ、説教ではありませんよ。ただの……先輩からの、お節介です」
氷華がクスクスと喉を鳴らすと、クロちゃんはますます顔を茹で上がらせ、勢いよくハーブティーを呷った。
苦味の奥にあった微かな甘みが、じんわりと胸の奥の冷たい空洞に染み渡っていく。
「……アンタたち、どいつもこいつもノアに毒されすぎよ」
ぷいと横を向きながら、クロちゃんは小さく呟いた。
「ええ、否定はしません」
氷華は立ち上がり、空になったカップとポットを片付けながら、窓の外――茜色の夕空を見上げた。
「あの子は、私たちの世界を鮮やかに塗り替えてくれた人ですから。……必ず、連れ戻さなければなりません」
その横顔には、もう迷いも翳りもなかった。
凛とした立ち姿の奥にある、強靭な覚悟。
クロちゃんは首元のチョーカーにそっと触れ、ぎゅっと唇を噛み締めた。
(……人形、ね)
かつて誰かに作られた器の底に、ほんの少しだけ、自分自身の意志の熱が灯ったような気がしていた。
「……次回来るときは、もっと甘い菓子でも持ってきなさいよね」
背を向けたまま投げやりそうに呟いたクロちゃんに、氷華はドアの前で振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ、善処しましょう。リノさんに美味しいケーキ屋を聞いておきますね」
パタンと扉が閉まり、再び静寂が戻ってきた談話室。
テーブルの上に残されたハーブの残り香が、冷え切っていた部屋を、かすかに温め続けていた。




