独占の檻
世界樹の底よりも深く、地上のあらゆる汚濁から隔絶された原初の揺り籠。
私が紡ぎ上げた光の神殿は、どこまでも純白で、永遠の静寂に満ちていた。
柔らかな光を帯びて咲き誇る白百合の絨毯、天蓋から降り注ぐ金色の粒子。
その中央、泉のほとりに佇む姿を見つめるたび、私の胸の奥は甘い熱で満たされていく。
――ノア。
あの薄汚れた地上でボロボロになっていた泥をすべて洗い流し、私が丹精込めて仕立て直してあげた、世界でたった一つの宝物。
今のノアは、以前のように無骨な革の防具や、安っぽい学園の制服なんて着ていない。
純白の絹を幾重にも重ね、風の神気を閉じ込めた淡い翡翠色のレースで縁取った、至高のドレス。歩くたびに微かな燐光が舞い散り、白銀の長い髪には私が編み込んだ金糸のリボンが揺れている。
その姿は、絵本の中のどんな王女よりも可憐で、息を呑むほど美しい、完璧なお人形さんのようだった。
手枷も足枷も、首を絞める鎖も、ここには一つもない。
ノアはドレスの裾を揺らしながら、この美しい花園をどこまでも自由に歩き回ることができる。
けれど――。
「……っ、はぁ……っ」
ノアが白百合の小道で足を止め、華奢な胸元を押さえて小さく息を乱した。
その翡翠の瞳が、困惑に揺れている。
風を起こそうと細い指先を掲げても、生まれるのは足元をわずかに撫でるだけの、頼りないそよ風だけ。
(ふふ……無駄なのに、ノアったら可愛い)
私は優雅に歩み寄り、背後からその細い腰へと腕を回した。
ふわりと広がる、ノアの甘い風の匂い。
この箱庭そのものが、私の絶対神域――【光の檻】。
外壁や鉄格子なんて無粋なものは存在しない。けれど、空間を満たす私の光がノアの体内に浸透し、その強大すぎる風の神気を、赤子の吐息ほどにまで薄めて眠らせている。
術者である私以外の者は、指先ひとつからまともな魔力を紡ぐことすら許されない。
鎖で縛り上げるよりもずっと優しく、絶対に逃げられない、完璧な楽園だった。
「……ルシフェラ」
ノアが私の腕の中で振り返った。
その表情に、怯えや拒絶の色はなかった。
かつて世界樹の木陰でそうしてくれた時のように、ただ優しく、迷子を心配するように私の瞳を覗き込んでくる。
「どうして……こんなことをするの? ぼくたちはずっと、家族じゃなかったの?……君が苦しんでいるのなら、ちゃんと話してほしい。一体何が君をそうさせているの?」
ノアの小さく温かい手が、そっと私の頬に触れた。
気遣わしげに細められた翡翠の瞳。
その温もりはあまりにも純粋で、嘘偽りのない本心から、私の身を案じているのが痛いほど伝わってきた。
(ああ……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
嬉しい。狂おしいほどに愛おしい。
だってノアは今、誰よりも近くで私を見て、私のためだけにその優しい声を紡いでくれている。
けれど――。
その歓喜と同じだけの冷たい刃が、私の胸を鋭く貫いた。
(……分かっちゃうのよ、ノア)
私は知っている。
この手の温もりも、泣きそうになるほど優しい眼差しも、私“だけ”のものじゃない。
あの薄暗い影の底で蹲っていた、出来損ないのノワールにも。
地上の名もなき人間どもにも。
あの日、自らを殺そうとした出来損ないの泥人形にすら――ノアはこれとまったく同じ、すべてを包み込む慈愛を注いでいたのだ。
誰にでも分け与えられる優しさ。
世界中の誰も見捨てられない、博愛の風。
それが――耐えられない。
死ぬほど妬ましくて、狂おしいほど憎らしい。
『ノワール、影に隠れてないでおいで?』
『ルシフェラちゃんはお利口さんだね』
昔から、ずっとそうだった。
光である私は最初から完璧で、ノアに手を取ってもらわなくても一人で何でもできた。だからノアは、手のかかる愚図なノワールばかりを構っていた。
「ずるい」「私だけを見て」「あいつばかり抱きしめないで」――そんな小さな、子供じみた嫉妬の叫びを、至高の光たる私が口にできるはずもなかった。
ずっと胸の奥に押し殺して、いい子の仮面を貼り付けて、ノアが振り返ってくれるのを待ち続けていたのだ。
それなのに、地上で目覚めたノアは、あいつだけでなく、無数の羽虫どもにまでその愛をばら撒いていた。
ノアが他の誰かに向けて優しく微笑むたびに、私の世界は嫉妬の炎で焼き焦がされそうだった。
私の欲しいものは、世界に向けられる聖母の慈愛じゃない。
私“だけ”を特別にしてくれる、独占の愛なのだ。
「……ふふ。お姉ちゃん、か」
私はノアの頬に触れるその小さな手を両手で包み込み、引き離した。
自分の本心――醜い嫉妬や独占欲なんて、絶対に明かさない。
神々しい微笑みを浮かべたまま、冷たい光の粒子でノアの手を包み込む。
「ノア。貴方は優しすぎるのよ。……誰もが貴方のその温もりに群がり、利用し、傷つけてきた。あんな脆弱な人間たちも、貴方に甘えるだけのノワールも……みんな、貴方の光を奪うだけの害虫よ」
「そんなことない! みんな、僕のかけがえのない仲間なんだ! ノワールだって、不器用なだけで……!」
「ほらね。また他人の心配ばかり」
私はノアの言葉を遮るように、その華奢な身体を抱きしめた。
美しい白銀の髪に顔を埋め、深くその香りを吸い込む。
「もういいの、ノア。貴方が誰かを背負う必要なんて、どこにもないのよ。この鳥籠の中で、ただ愛されていればいい。……貴方のその優しい瞳には、私の光だけが映っていればいいんだから」
「ルシフェラ……!」
ノアが困惑と哀しみに瞳を揺らしながら、私の腕の中で身を固くする。
それでもノアは、私を激しく突き飛ばすことすらしない。
ただ悲しそうに、道を踏み外した幼い妹を宥めるように、私の背中にそっと手を回してくるのだ。
その手の温もりが、嬉しくて――そして、堪らなく息苦しかった。
(……どうして? どうしてそんな顔で、私を抱きしめるの?)
その優しさは、私を救うためのものじゃない。
貴方のその広すぎる愛で、私を「みんなの輪」へと引き戻そうとしているだけ。
そんな温もりなら、いっそ――。
「さあ、お茶を淹れてあげるわね、ノア。……美味しいお菓子もあるのよ」
私は溢れ出しそうになるドロドロとした感情を胸の底へ押し戻し、完璧な笑みでノアの手を取った。
世界で一番美しく仕立てた、至高のお人形。
誰にも触らせない。
誰の視線も交わらせない。
貴方のその広すぎる心が、いつか私ひとりのためだけに注がれるその日まで。
純白の花園の片隅で、歪んだ光の執着が、静かに、けれど深くノアの周囲を閉ざしていた。




