その7 「神々の思惑」
村の近くへ戻る頃には、東の空が白み始めていた。
夜を支配していた闇は少しずつ薄れ、森の木々の隙間から朝日が顔を覗かせる。
「この辺で降ろしてくれない?」
エルバラは静かに地面へ降ろしてくれた。
私は土を踏みしめ、小さく息を吐く。
「……嫌なところを見せちゃったね」
自然とそんな言葉が漏れた。
心が壊れてしまった今でも、エルバラだけは違う。
この世界で初めてできた友達だった。
だからこそ、あんな姿を見せてしまったことだけは少しだけ後悔していた。
エルバラは首を横に振る。
「いや、大丈夫だ。少し驚いただけだ」
「本当に?」
「もちろんだ」
彼女は真っ直ぐ私を見る。
「リサが強いのは最初から知っていた。それに――」
少し照れくさそうに笑った。
「私は命を助けてもらった身だ。あの時、お前は私が魔族だからって見捨てなかった。だから私は、リサを信じる」
その言葉は、不思議なくらい胸に染みた。
「エルバラ……ありがとう」
自然と笑みがこぼれる。
「それに」
エルバラは肩をすくめる。
「魔族から見ても、あのエルフどもはどうしようもなかった」
「……やっぱりそうよね」
少しだけ救われた気がした。
エルバラは人族ではない。
だから価値観も違う。
それでも私を受け入れてくれる。
その事実だけで十分だった。
「それで、これからどうするんだ?」
「どうするって?」
「養父母も子供たちもいなくなった。あの村に残る理由は、もうないだろ?」
私は少しだけ考えた。
「……うーん。今度話すわ」
本当は決まっている。
勇者が来るまでは、この村を離れるわけにはいかない。
女神アルカナとの約束があるから。
でも、それは誰にも話せない。
「それともう一つ」
「まだあるの?」
「今の話し方の方が、リサらしくて好きだぞ」
「え?」
「そっちの方がリサらしい」
思わず吹き出した。
「ふふっ」
「魔族に言葉遣いが好きなんて言われると思わなかった」
「好きなものは好きなんだから、仕方ないだろう」
二人で笑った。
ほんの少しだけ。
昨夜の出来事が嘘だったかのような穏やかな時間だった。
「じゃあ、また明日の夜」
「うん。また明日」
エルバラは大きな翼を広げ、朝焼けの空へと飛び去っていく。
その姿が見えなくなるまで、私は静かに見送っていた。
村へ戻ると、多くの村人が外へ出ていた。
「おお!リサ!」
「聖女様がお戻りになったぞ!」
「よかった……本当に心配したんだ」
夜通し私を心配してくれていたのだろう。
村長は駆け寄ると、安心したように私の両手を握った。
「戻って来ないから皆で探そうとしていたんだ」
「心配かけてごめんなさい」
私は穏やかに微笑む。
「少し一人になりたかっただけ」
「そうか……」
村長は何も聞かなかった。
きっと聞けなかったのだろう。
私は村人たちへ頭を下げると、自宅へ戻った。
静まり返った家。
留守中に勝手に部屋に入る子供達の声がしない。
養母が作ってくれた料理も。
養父が作った野菜も。
何もない。
それなのに、私は涙一つ流さなかった。
思い出して苦しむこともなかった。
心が壊れた人間とは、こういうものなのだろう。
私はもう、光の聖女ではない。
あれだけの人族を簡単に殺した。
ただ復讐だけを望む、一人の人殺しだ。
それでも、この村にはあと数か月残る。
勇者となり、この世界で好き勝手に生きている元夫と再会する、その日まで。
お風呂にも入らず、そのまま服を脱ぎ散らかし、私はベッドへ倒れ込んだ。
疲れていたのだろう。
瞼はあっという間に重くなり、意識は深い闇へ沈んでいった。
――だが。
次に目を開けた時、私は見慣れた真っ白な空間に立っていた。
「……またか」
思わず溜め息が漏れ頭を抱える。
あの女は、本当に人の都合を考えない。
「私、疲れてるんだけど」
後ろを振り返る。
そこには足を組み、椅子もない空間に当然のように腰掛けている女神アルカナがいた。
「あら?随分とご機嫌斜めね」
「見てたんでしょ?」
私は睨みつける。
女神アルカナは肩をすくめた。
「エルフ達が村に来たところから部分的に見てたわ」
「養父母と子供たちのことは……残念だったわね」
珍しく神妙な表情だった。
だからこそ、少し違和感を覚えた。
「……女神の力で助けられなかったの?」
私が低い声で尋ねると、アルカナは少しだけ目を伏せた。
「難しいわ」
「私には制約があるの。地上への直接的な干渉は、ほとんど許されていない。私にできるのは、啓示を与えたり、ほんの少し流れを変えたりする程度」
「……そう」
納得できる答えではなかった。
「あの子たちや養父母は……私のように生まれ変わるとかあるの?」
少しだけ沈黙が流れる。
アルカナは静かに答えた。
「魂は回収される」
「この世界の理が、次の器へ導くの」
私は小さく息を吐く。
「じゃあ……また生きられるのね」
「ええ」
アルカナは頷いた。
「ただし」
その一言で空気が変わる。
「貴方と違うのは、記憶は残らない」
「次の人生が幸せかどうかは保証できない」
「……」
「貧しい家に生まれるかもしれない」
「病弱かもしれない」
「あるいは、生まれてすぐ死ぬこともある」
淡々と語るその姿は、まるで天気予報でも話しているようだった。
私は思わず拳を握る。
「そう……」
女神アルカナは不思議そうに首を傾げる。
「事実を話しただけよ」
「命は循環するもの。一つ終われば、また一つ始まる。私にとっては、それが自然なの」
私はその言葉を聞いて理解した。
この女は、実はヒューマンを愛してるわけでも、命を愛しているわけではない。
ただ管理しているだけなのだ。
自分の都合のいいように。
「……教えてくれてありがとう」
短く答える。
もう何も聞く気にはなれなかった。
でも前の世界に戻るために、この女のご機嫌は損ねないようにする。
そんな私を見て、アルカナはふっと微笑む。
「今日、貴方を呼んだのは慰めるためじゃないの」
「そうでしょうね」
女神アルカナはゆっくり立ち上がる。
その笑みは、いつものように底知れなく美しかったと同時に、この女への違和感が強く感じられた時でもある。
「それで、どういうこと?」
「勇者を殺したあと、もう一つお願いしたいことがあるって話したでしょう?」
「覚えてるわ」
忘れるはずがない。
それを成し遂げなければ、私は子供たちの待つ世界へ帰れないのだから。
アルカナは満足そうに微笑んだ。
「今の貴方は、光の聖女と呼ばれながらも、その心は真っ黒」
「騎士を殺した」
「エルフも殺した」
「それでも何も感じなかったでしょう?」
「それがどうしたの?」
私は冷たく言い返した。
「それが好都合なのよ」
「どういう意味?」
「エルバラを襲った騎士を殺した時も」
「エルフたちを惨殺した時も」
「貴方は罪悪感より先に『もっと殺したい』と思った」
私は黙った。
否定できなかった。
「心当たりがあるでしょう?」
「……」
「前世でも、ご主人を恨んだ。殺してしまいたいと思った」
「違う?」
私は答えない。
答えられない。
「でも貴方は優しい人間でいようとした」
「母親として」
「大人として」
「善人として」
「だから、その感情を心の奥底へ押し込め続けた」
アルカナは私の胸を、人差し指で軽く突いた。
「でも、この世界が蓋を壊し、抑えていたものが、全部あふれ出した」
「だから今の貴方は、私にとって好都合」
私はアルカナを睨む。
「それのどこが好都合なの?」
その瞬間。
アルカナの笑みが深くなった。
「勇者を殺したあと」
「貴方に頼みたい最後の仕事があるの」
そう言って語られた内容は――
神が口にするには、あまりにも悍ましかった。
世界を救う話ではない。
世界を壊す話だった。
私は思い出す。
エルフたちが最後に吐いた言葉を。
『……悪魔か』
『化け物め』
『悪夢だ』
私はその時、心のどこかで笑っていた。
復讐だけではない。
殺すこと、そのものを楽しんでいた。
「……それをやらなければ、元の世界には帰れないのね」
「ええ」
アルカナは迷いなく頷く。
「貴方なら簡単でしょう?」
私は目を閉じた。
考える時間など必要なかった。
「……約束は守ってもらうわ」
そう答えた瞬間だった。
アルカナの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
――ニタァ。
その笑みは、神のものではなかった。
まるで人を堕とすことを心から楽しむ悪魔。
私は確信した。
この女は神ではない。
神を名乗る悪魔だと。
そして、そんな悪魔と契約を交わした私は、きっともう人ではないのだろう。
そこで女神アルカナとの会話は終わった。
目が覚めた私は、額に嫌な汗を浮かべていた。
「……最悪」
小さく呟き、服を脱いで浴室へ向かう。
湯を浴びると、ようやく重苦しい気分が少しだけ薄れた。
窓の外を見る。
もう三つ鐘はとっくに鳴り終えている。
西日は赤く傾き、人通りもまばらだった。
「……少し食べて、また寝よう」
女神との会話は、それだけで心が削られる。
そして今日の話で、一つだけ確信したことがあった。
あの女は信用できない。
何を企んでいるのかは分からない。
でも、私を利用している。
それだけは間違いなかった。
私はベッドへ身体を沈め、ゆっくりと瞼を閉じた。
これからどう動くべきか。
眠りながら考えることにした。
その頃――。
リサが現実世界へ戻ったあとも、神々の世界には静寂が広がっていた。
「……いいのか、あれで」
低く響く男の声。
虚空が揺らぎ、一人の男が姿を現す。
漆黒の長髪と大きな四本角。
全身を黒衣で包み、その瞳だけが妖しく紅く輝いていた。
アルカナは肩を竦める。
「ええ。問題ないわ」
「必ず、あの子は最後までやってくれる」
男は腕を組み、リサが消えた場所を見つめた。
「我の術は最後の一押しに過ぎん」
「元々壊れかけていた心へ、小さな亀裂を加えただけだ」
「あとは自ら憎しみを育て、ここまで来た」
アルカナは満足そうに微笑む。
「だから扱いやすいのよ」
「目的さえ与えれば、自分から前へ進む」
魔神は小さく息を吐いた。
「あの女、頭は悪くない」
「薄々、貴様の企みに気付き始めているぞ」
「構わないわ」
アルカナは笑う。
「気付いたところで、もう戻れないもの」
「子供たちへ会いたいという、その願いを捨てられない限り、あの子は止まれない」
「目的のためなら、人だって神だって殺す」
男はしばらく沈黙したあと、小さく頷いた。
「……ならばいい」
「だが忘れるな」
「この計画が失敗すれば、我らも終わる」
アルカナの笑みが僅かに消える。
「分かってるわ」
「いちいち念を押さないで」
「魔神のくせに心配性なのね」
「慎重と言え」
魔神と呼ばれた男は鼻で笑う。
「計画完遂まで、残るは数年」
「そうね」
アルカナも静かに頷く。
「もう少しで終わる」
二柱の神は、不気味な笑みを交わしてた。
まだ誰も知らない。
この世界を裏から操る神々の計画を。
そして、その計画の中心に、自分がいることを。
私やエレナがその真実を知るのは、数年後のことである。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は8/1土曜日22時に公開予定です。
引き続き宜しくお願い申し上げます。
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