その3 「絶望の語り部」
フローライトの喉が震える。
声にならない。
故郷が。
種族が。
誇りが。
目の前で全て崩れていく。
その時、彼女は改めて理解した。
エルフは強くない。
エルフは上位種族ではない。
ただ、長く平和だっただけだ。
平和ボケしていただけだ。
何も知らなかっただけだ。
何も備えていなかっただけだ。
そして、滅ぶ。
フローライトの頬を涙が伝った。
「誰か……」
掠れた声。
「助けて……」
だが、答える者はいない。
都は燃え続けていた。
そして、フローライトの意識が沈んでいった。
ーーーーー。
どれほど気を失っていたのか分からない。
数秒か、数分か、あるいは数時間か。
フローライトはゆっくりと瞼を開いた。
「……ぅ……」
喉が焼けるように痛い。
肺に入ってくる空気が熱い。
身体を少し動かしただけで、全身に激痛が走った。
「っ……」
霞む視界の先。
最初に見えたのは、古代樹だった。
いや、古代樹だったもの、だ。
数千年。
エルフの歴史そのものだった巨大樹は、もはや原型を留めていない。
黒く焼け焦げ、幹は裂け、枝は崩れ落ちている。
かつて精霊たちが遊び、子供たちが駆け回り、長老たちが誇りの象徴として語っていた樹。
それが今は、巨大な炭の塊になっていた。
「……うそ……」
声が震える。
周囲を見渡す。
瓦礫。
灰。
焼け焦げた家々。
崩壊した回廊。
砕けた白木の柱。
そして、仲間たちの遺体。
あちこちに横たわっていた。
原型を留めている者もいれば、そうでない者もいる。
知っている顔。
昨日まで話していた者。
今朝すれ違った者。
さっきまで生きていた者。
その全てが、動かない。
「……あっ」
先程まで会話をしていた友人の姿は見えなかった。
「どこに…行ったの…?」
火の匂い。
血の匂い。
焼けた肉の匂い。
それらが混ざり合い、吐き気を催す悪臭となって漂っていた。
「……ぁ……」
フローライトは、その場から動けなかった。
足に力が入らない。
心が現実を拒絶していた。
耳を澄ませば、まだ微かに音が聞こえる。
「……た……す……」
か細い呻き声。
助けを求める声。
瓦礫が崩れる音。
パチ、パチ、と樹木が燃える音。
その全てが、都の終焉を告げていた。
数千年続いたエルフの国。
その首都が、たった一人の女によって終わった。
フローライトは、昔から思っていた。
いつかこうなるかもしれない。
長老たちは変わらない。
若者たちは無関心。
人口は減り続ける。
他種族を見下し続ける。
外の世界を知ろうとしない。
危機感がない。
このままでいいはずがない。
そう思っていた。
だが、こんな終わり方は想像していなかった。
急すぎた。
理不尽すぎた。
あまりにも、一方的だった。
真っ黒なドレスを纏った女。
赤い瞳。
冷たい声。
そして、たった一つの魔法。
隕石。
ただ、それだけだった。
それだけで、都が滅んだ。
「…あんなの…勝てるわけ……ない……」
唇が震える。
精霊術。
古の結界。
そんなもの、何の意味もなかった。
あの女にとって、まるで虫を踏み潰すようなものだった。
その時ーー。
ぐしゃっ。
何かを踏む音がした。
フローライトの身体が凍りつく。
誰かがいる。
まだ、生きている者が?
違う。
この足音は、ゆっくりで、余裕があった。
恐怖が背骨を這い上がる。
フローライトは、震えながら顔を上げた。
そこにいた。
黒いドレス。
赤い瞳。
長い黒髪。
絶望そのものが、そこに立っていた。
「汚いわーー」
女は燃え盛る都を見回しながら、静かに歩いていた。
まるで散歩でもしているかのように。
そして、赤い瞳がフローライトを捉えた。
「……あら」
女が小さく笑う。
「生き残り…いたのね」
フローライトの呼吸が止まる。
声が出ない。
逃げられない。
身体が動かない。
冷や汗が止まらない。
本能が叫ぶ。
死ぬーー。
女は私にゆっくり近づく。
一歩。
また一歩。
足音がやけに大きく聞こえた。
「ねぇ、エルフ」
優しい声だった。
だからこそ恐ろしい。
「楽しんでもらえたかしら?」
フローライトの瞳から涙が溢れた。
「や……」
声にならない。
「や、やめ……」
女は、にこりと笑った。
その笑顔には温度がなかった。
「いい顔」
赤い瞳が細まる。
「その顔が見たかったの」
フローライトの全身が震える。
呼吸が浅い。
「エルフって傲慢で愚かで馬鹿みたいな種族よね」
逃げたい。
「でも私の絶望はこんなもんじゃないの」
だが、身体が言うことを聞かない。
「や……やめて……」
涙が止まらない。
プライドも誇りも何もかも、どうでもよかった。
生きたい。
死にたくない。
ただ、それだけだった。
女はフローライトの目の前でしゃがみ込んだ。
視線の高さが合う。
逃げ場はない。
「殺してほしい?」
優しい声だった。
母が子に語りかけるような、柔らかい声。
だからこそ恐ろしい。
フローライトは何も答えられない。
答えられるはずもなく、震えていた。
女は少し考えるように首を傾げた。
「残念だけど、貴方は殺さないわ」
「……え?」
思わず声が漏れた。
殺さない?
なぜ?
どうして?
理解できない。
女は微笑んだまま、フローライトの顎を指先で持ち上げた。
冷たい指だった。
「貴方には役目があるもの」
「や、役目……?」
「そう」
女は立ち上がる。
焼け落ちた都を見渡しながら、静かに告げた。
「伝えなさい」
フローライトの瞳が揺れる。
「今日、この都で何が起きたのか」
女はゆっくりと振り返った。
黒いドレスが灰の中で揺れる。
「これが、これからの世界の姿だと」
ぞくり、と背筋が凍る。
女は頬を赤らめて、両手を広げた。
「地上も」
「魔界も」
「全て、絶望に染まる」
その声には怒りも憎しみもなかった。
ただ、確信だけがあった。
「恐怖を伝えなさい」
一歩、また一歩。
女が離れていく。
「愚かな者がどうなるか」
「逆らう者がどう終わるか」
「希望がどれほど無意味か」
フローライトは震えながら、その背を見つめる。
女は最後に少しだけ顔を向けた。
赤い瞳が、フローライトを射抜く。
「貴方は語り部」
「絶望と恐怖を伝えるの」
「絶望を伝える語り部」
フローライトは、その瞬間理解した。
この女は、私を殺す気などなかったのだ。
生かすために。
伝えさせるために。
恐怖を広めるために。
フローライトはたまたま選ばれてしまった。
絶望の証人として。
「あ……」
声が漏れる。
「ぁ……あ……」
喉が震える。
涙が止まらない。
女は、私を絶望と恐怖を伝える役にしたのだ。
フローライトは震える身体を抱きしめることしかできなかった。
涙で滲む視界の先。
漆黒の女は、ゆっくりと空へ浮かび上がっていく。
「あ、私はこの世界を滅ぼす者……リサよ」
焼け落ちた都。
崩れた古代樹。
無数の亡骸。
その全てを見下ろしながら、彼女は恍惚とした表情を浮かべていた。
まるで、ずっと待ち望んでいた舞台が整ったかのように。
「あぁ、エレナ……」
その声は甘く、どこまでも歪んでいた。
「楽しんでもらえるかしら」
赤い瞳が細まる。
口元が、嬉しそうに吊り上がる。
「貴方の絶望した顔が――」
「悲しみに歪む顔が――」
「はやく見たいわ」
ぞくり、と全身が粟立つ。
フローライトは理解した。
この女は世界を滅ぼしたいのではない。
この女が本当に見たいものは、たった一つ。
エレナという人の絶望。
そのためだけに、都を滅ぼし。
命を奪い。
恐怖を撒き散らしている。
狂っている。
あまりにも。
リサは、くすくすと笑った。
「ふふ……あはは……」
その笑い声には喜びが満ちていた。
純粋で、無垢で。
だからこそ、狂気だった。
やがて彼女の姿は闇の中へ消えていく。
それでも。
姿が見えなくなってなお。
あの気味の悪い笑い声だけが、いつまでも、いつまでも響いていた。
「あははははははは――」
まるで呪いのように、滅んだ都に、絶望だけを残して響いていた。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は6/20土曜日22時に公開予定です。
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