その2 「暇つぶしの侵攻」
転移門に足を踏み入れた瞬間、景色が歪んだ。
空間が捻じれ、色が溶ける。
次の瞬間――私は、深い森の中に立っていた。
頭上を覆うのは、空を隠すほど巨大な樹々。
幹は十人が手を繋いでも囲めぬほど太く、枝葉は幾重にも重なり、昼間だというのに森の中は薄暗い。
湿った土の匂い。
古い木々の香り。
耳を澄ませば、微かな精霊の囁きすら感じる。
ここは――古代樹の森。
古代エルフの都の近郊。
私は周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「アガレス、そこにいるんでしょう?」
声を発した直後。
私の前方の空間が揺らいだ。
黒い霧。
それが渦を巻き、人の形を作っていく。
やがて、一人の男が姿を現した。
漆黒の外套。
端正だが冷酷な顔立ち。
瞳には、人ならざる狡猾さが宿っている。
悪魔族の王――アル=アガレス。
「失礼」
アガレスは胸に手を当て、優雅に一礼した。
「様子を伺っておりました」
私は肩をすくめる。
「相変わらず気配を消すのが上手いわね」
「お褒めに預かり光栄です」
エレナの馬鹿な姉が、魔界から地上へ呼んだ悪魔。
地上と魔界を含め、残っている最後の悪魔族。
それがこの男だ。
「久しぶりね」
「我が主人は、何故このような場所へ?」
アガレスが静かに尋ねる。
私は口元に笑みを浮かべた。
「ちょっとね」
森の奥――エルフの都がある方向へ視線を向ける。
「私、暇なの」
赤い瞳が細まる。
「だから、エルフ達と遊んであげようと思って」
アガレスの口角がゆっくり吊り上がった。
「なるほど……」
その声には、明らかな愉悦が滲んでいた。
「まずはエルフから、というわけですか」
「そういうこと」
私は淡々と答える。
「それより、首尾はどうかしら?」
アガレスは即答した。
「いつでも」
「そう」
準備は整っている。
あとは、落とすだけ。
「エルフと遊ぶといっても、リサ様お一人で?」
「そうね」
私は少し考え、彼を見た。
「貴方にもついてきてもらいましょうか?」
アガレスは跪いた。
「畏まりました」
私は再び森の奥を見る。
エルフ。
人族の中でも、最古の歴史を持つ種族。
ヒューマンを見下し、ドワーフを嫌い、
自らを最も高貴な存在と信じている者たち。
だが、実力は本物だ。
精霊術。
それは魔法とは別系統の力。
精霊と契約し、その力を借りる術。
精霊はエルフにしか見えない。
人族からすれば、羽の生えた小人にしか聞こえない御伽話だ。
だが実際には違う。
精霊は厄介だ。
非常に厄介。
私は静かに呟く。
「正直、人族の中で脅威になるのは、エルフとAランク冒険者……そして勇者くらいね」
「ええ」
アガレスも同意した。
「特に上位精霊と契約した者は厄介です」
彼は低く笑った。
「ですが、所詮は羽虫ども」
口元が歪む。
「目にもの見せてやれますね」
私は鼻で笑った。
女神アルカナ。
エルフに精霊の加護を与えた張本人。
あの傲慢な女は、本当に余計なことしかしない。
力を与えるだけ与えて、世界の歪みには知らぬ顔。
実に腹立たしい。
「そうね」
私は森の奥にある都を見据える。
赤い瞳が、冷たく細まる。
「今日が――エルフ達の最後の日かしら」
その瞬間、森の奥から、強烈な魔力の波が走った。
精霊たちがざわめく。
風が止まり、
鳥が飛び立ち、
森全体が警鐘を鳴らす。
アガレスが笑う。
「歓迎されておりますね」
私は一歩、前へ出た。
「ええ」
薄く笑う。
「さあ、絶望を始めましょう」
ーーーーー。
古代樹の森の朝は静かだった。
幾千年も生きる巨大な樹々が、空を覆い隠すように枝葉を広げている。
その枝の合間から差し込む柔らかな光が、エルフの都を優しく照らしていた。
森と共に生きる都――エルディア。
エルフの都の首都だ。
木々を傷つけることなく築かれた家々は、幹や枝に寄り添うように建てられ、橋が空中を繋いでいる。
地上の種族が見れば、まるで幻想の都だと思うだろう。
その一角。
一人の若いエルフの女性が、朝露に濡れた葉を眺めていた。
フローライト。
百年を生きた、若きエルフだった。
長い翡翠色の髪。
透き通るような白い肌。
森の緑を映したような瞳。
エルフ基準では、まだ若者だ。
彼女は小さく息を吐いた。
「……またか」
視線の先では、数人の老人エルフたちが若者へ説教していた。
「古き掟を軽んじるな」
「他種族と深く関わるな」
「森の外に出る必要などない」
いつもの光景だった。
フローライトはうんざりしていた。
この都は、あまりにも変化を嫌う。
政治を担うのは、五百年以上生きた長老たち。
彼らは自分たちこそ最上位種族だと信じて疑わない。
ヒューマンは短命で愚か。
ドワーフは粗野で騒がしい。
獣人は野蛮。
そんな価値観が、何百年も変わらず支配していた。
その結果。
人口は減り続けている。
現在、都の人口はおよそ八千。
昔は数万いたと聞く。
だが長老たちは危機感がない。
「エルフは滅びぬ」
「我らは選ばれし種族」
そう信じているからだ。
だが実際は、魔族、魔物に殺され、冒険者として出ていた者にも死者は多くいる。
老人達が思っているほど万能な種族ではない。
若者もまた、どこか他人事だった。
未来を考えない。
種族の繁栄も考えない。
恋愛にも、生殖にも驚くほど淡白。
長命ゆえの停滞。
それがエルフだった。
「このままでいいわけないのに……」
フローライトは呟く。
彼女は珍しかった。
他種族に興味を持っていたからだ。
森の外へ出てみたい。
ヒューマンと話してみたい。
ドワーフの技術を見たい。
獣人の文化を知りたい。
彼女にとって、世界は広いほど魅力的だった。
だが、そんな考えは異端だった。
「また外のこと考えてるの?」
友人が呆れ顔で近づく。
「うん」
「変わってるね、フローライト」
「そうかな?」
「そうよ。外なんて危険なだけ」
友人は肩をすくめた。
「長老様たちが何とかしてくれるでしょ」
フローライトは苦笑する。
その言葉こそ、この都の病そのものだった。
誰かが何とかしてくれる。
自分は考えなくていい。
そんな空気。
だから、何も変わらない。
嫌気が刺して、フローライトが空を見上げた、その時だった。
――違和感。
森が静かすぎた。
鳥の声が止まった。
風も止んだ。
「……え?」
次の瞬間。
轟音。
ドォォォォォォォン!!!!
都全体を揺るがす大爆発。
「きゃああああっ!?」
地面が跳ねた。
木造の通路が軋み、家々が激しく揺れる。
衝撃波が吹き抜け、窓ガラスが砕け散った。
フローライトは吹き飛ばされ、地面に転がる。
「っ……何!?」
立ち上がる。
都の中央。
議事堂付近から、巨大な黒煙が上がっていた。
「議事堂が……!?」
悲鳴。
怒号。
混乱。
エルフたちが一斉に逃げ惑う。
「敵襲!?」
「魔物か!?」
「結界は!?」
結界は破られていた。
あり得ない。
都を守る大精霊の結界が、破られるなど。
その時。
空に黒い霧が集まった。
霧は渦を巻き、一つの形を作る。
巨大な悪魔。
黒い翼。
鋭い爪。
黄金の瞳。
あれは、古の物語に出てくる悪魔族の王アル=アガレス。
その姿を見た瞬間、長老たちの顔色が変わる。
「ば、馬鹿な……」
「悪魔族だと!?」
「絶滅したはずでは……!」
アガレスは愉快そうに笑った。
「ククク……エルフども、よく聞け」
その声は都全体に響いた。
「我が主人のお言葉だ」
さらに上空。
議事堂の真上に、一人の女が現れた。
黒髪。
漆黒のドレス。
ヒューマンの姿。
圧倒的な魔力が、空気そのものを支配していた。
フローライトは息を呑む。
(……何、この人)
本能が警鐘を鳴らしていた。
絶対に勝てない。
リサは冷たい目で都を見下ろした。
「古き習慣に囚われる哀れなエルフ共」
長老の一人が叫ぶ。
「何者だ貴様!」
リサは鼻で笑った。
「これから死ぬ者共に名乗る価値はないわ」
赤い瞳が細まる。
「我が前に跪くことすら許さない」
静かに。
淡々と。
死刑宣告のように告げた。
「消えろ」
右手が上がる。
空が歪む。
魔力が集束する。
フローライトの全身から血の気が引いた。
(止めないと――)
だが、身体が動かない。
恐怖と圧で。
存在そのものに押し潰されていた。
リサが呟く。
「――穢れの流星」
空が黒く染まった。
「……え?」
フローライトは目を見開く。
上空。
そこにあったのは。
無数の隕石だった。
巨大な黒い流星群。
数十。
いや、百は超える。
「う、嘘……」
「逃げろおおお!!」
「精霊魔法を!!」
「間に合わない!!」
阿鼻叫喚。
精霊術師たちが詠唱する。
だが遅い。
遅すぎた。
流星が都へ落ちる。
ドォォォォォォォン!!!!
大地が裂けた。
炎が吹き上がる。
家々が砕ける。
悲鳴が消える。
また一つ。
また一つ。
流星が都を飲み込む。
爆炎。
衝撃。
崩壊。
フローライトは震えていた。
目の前の友人が吹き飛んだことにすら気が付かず。
「いや……」
議事堂が崩れる。
長老たちの悲鳴が聞こえる。
「いやあああああ!!」
空の上。
リサは笑っていた。
アガレスも笑っていた。
「クククク…さすがだ!」
「ふふ…綺麗に片付いわ…」
フローライトは理解した。
これは戦争ではない。
虐殺だ。
絶望への序曲。
「あははははははははは」
フローライトが狂ったように笑う。
その幕が、今、エルフの都から上がったのだ。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は6/18木曜日22時に公開予定です。
引き続き宜しくお願い申し上げます。
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