その1 「絶望へ」
真白な装飾が施された長い廊下を、私は静かに歩いていた。
壁も柱も、磨き上げられた白い石で造られている。
天井には青白い魔光石が等間隔に埋め込まれ、冷たい光を落としていた。
足元には深い青色のマット。
靴音すら吸い込む静寂。
……私の好みではないが、まぁいい。
この静けさは、余計な雑音を消してくれる。
私の城には、これくらいの静寂が相応しい。
廊下の先、大広間へ入る。
玉座に腰掛けた私の前で、エルバラ が深く跪いた。
「リサ様、勇者一行が魔界へ入ったそうです」
私は頬杖をついたまま、長い黒髪を指先で弄ぶ。
「そう」
口元が少しだけ緩んだ。
とうとう来たのね、エレナ。
「あの単純馬鹿は、魔界の一般人の生活を見て、どう思うかしらね」
エルバラが困ったように顔を上げかける。
「その……私には……」
「そんなに悩まなくていいわ」
私は小さく笑った。
「単純よ」
断言できる。
「あいつはきっとこう考えるわ。地上も魔界も平和にするために、私は戦う――ってね」
エルバラが目を丸くする。
「はぁ……そんなに単純なのですか?」
「ええ」
即答した。
「私には、あの勇者がどう考えるかよく分かるの」
そう……嫌になるほどに。
エルバラの表情が恍惚に染まる。
「流石です、リサ様……」
またその顔。
忠誠、敬愛、崇拝。
全部混ざった目。
慣れているけれど、別に好きではない。
暇だわ。
心の中で呟く。
エレナ。早く私のところまで来なさい。
その時だった。
ふっと視界が歪む。
ああ、また。
意識が沈んだ。
ーーーーー。
気がつくと、私は真っ白な空間に立っていた。
果てが見えない白。
上下左右すら曖昧になる、気味の悪い空間。
「……またここか」
自分の姿を見下ろす。
ボサボサの黒髪。
地味な服。
荒れた指先。
やつれた頬。
冴えない女。
前世の私だった。
……最悪。
『そんなにがっかりしないでもらえるかしら?』
声。
振り向く。
そこには、白銀の髪と瞳を持つ女が立っていた。
相変わらず腹が立つほど美しい。
そして腹が立つほど傲慢だ。
まるで世界がこの女を中心に回っているみたいな顔をしている。
実際、そうなのかもしれないけど。
「ここでは昔の姿になるから憂鬱なのよ」
私が吐き捨てると、女は笑った。
『たしかに、野暮ったい感じね』
ぴきりと額に青筋が浮きそうになる。
「……相変わらず腹立つわね」
『ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ』
本当にムカつく。
「で?また私に何か用?」
『少しは嬉しそうにしなさいよ?私に会えるのは光栄なことよ』
「分かってるわ」
即答。
「それより用件」
白銀の女の笑みが深くなる。
『貴方、私がお願いしたこと――早くやってくれないかしら?』
空気が重くなる。
またそれか。
『約束、覚えているわよね?』
「もちろん」
女は満足そうに頷いた。
『そう。なら早くやりなさい』
「大丈夫よ」
私は肩をすくめた。
「緩やかにだけど、作戦は進行中。あとは私に任せて』」
『ふん』
鼻を鳴らす。
『緩やかになんてやらなくてよかったのよ』
「もう八割終わってる」
私は睨み返した。
「大丈夫」
しばらく沈黙。
やがて女は踵を返した。
『……まあいいわ』
そして最後に一言。
『あと少し、頑張理なさい』
世界が歪む。
白が砕けた。
ーーーーー。
「リサ様!リサ様!」
「……ん」
瞼を開ける。
大広間だった。
目の前には心配そうなエルバラ。
「大丈夫よ、エルバラ」
軽く手を振る。
「またあの女の世界に引き摺られただけ」
エルバラの顔が険しくなる。
「またですか……!あの女、よくも……!」
「気にしなくていいわ」
玉座から立ち上がる。
裾がさらりと揺れた。
「それより、少し出掛けてくる」
「私もお供――」
「だめ」
ぴしゃりと遮る。
「一人でいいわ」
エルバラは即座に姿勢を正した。
「……はっ!」
歩きながら振り返る。
「例の件、みんな上手くやれてるかしら?」
「はい。滞りなく進行しております」
「そう」
「他の三人にも伝えて。抜かりなくよろしく、と」
「承知しました」
私は大広間を後にした。
ーーーーー。
歩きながら思い出していた。
初めて、あの白い世界へ引きずり込まれた時のことを。
何も知らない私に、あの傲慢な女は平然と言ったのだ。
『貴方は死んでいるわよ』
最初、意味が分からなかった。
だが、女は容赦なく続けた。
前世の私は、ある日突然倒れたらしい。
病気だったそうだ。
そのまま病院へ運ばれ、二度と目を覚ますことなく死んだ。
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
死んだ?
私が?
そんなはずない。
だって、あの日だって普通だった。
いつも通り朝起きて。
いつも通り家事をして。
子供たちにいってらっしゃいと言って。
それなのに。
終わった?
私の人生が?
「嘘よ……」
そう否定することしかできなかった。
『――本当よ』
その一言が、私を絶望の底へ突き落とした。
私が死んだことよりも。
私が耐えられなかったのは、家族を残してしまったことだった。
特に子供たち。
私がいなくなった後、あの子たちはどうなる?
ちゃんとご飯を食べられている?
泣いていない?
苦しんでいない?
怖くて、怖くてたまらなかった。
胸が張り裂けそうだった。
「子供たちに……会いたい……」
震える声でそう呟いた私に、女は静かに言った。
『なら、取引をしましょう』
その女は、この世界のことを話した。
地上世界と魔界。
魔界。
魔王。
そして――勇者エレナとその真実。
それを聞いた時だった。
私の中で何かが、壊れた。
どうして?
私の苦労も知らずに、のうのうと。
怒りが湧いた。
絶望が湧いた。
そして、醜い感情が、心の底から湧き上がった。
復讐心。
私は思ってしまった。
勇者エレナを私以上の絶望に落としてやる、と。
家族を失う苦しみ。
希望を奪われる痛み。
生きる意味をなくす虚無。
全部、味わわせてやる。
その時、あの傲慢な女は笑った。
まるで、それを待っていたかのように。
『――いいわ』
『――貴方が私の望みを叶えたら』
『――世界を再び渡らせてあげる』
『――家族にも会わせてあげるわ』
私はあの女を信用していない。
傲慢で。
底が見えなくて。
何を考えているのか分からない。
怪しい女だ。
それでも、信じるしかなかった。
家族に、もう一度会うために。
ーーーーー。
静かな足音が廊下に溶ける。
私の赤い瞳には、僅かな絶望が宿っていた。
エレナ――。
口には出さない。
心の中でだけ、その名を呼ぶ。
あなたはきっと、ここまで来る。
私は薄く笑った。
期待。
諦め。
憎悪。
その全部が混ざった笑み。
「楽しみね……」
長い回廊を抜けた先。
巨大な円形の部屋。
床一面に複雑怪奇な魔法陣。
紫と黒の光が脈打ち、空間そのものが軋んでいる。
転移門。
新生魔王軍の切り札。
これのおかげで、私たちの動きを人族は掴めない。
勇者エレナが捕縛後に転移して逃げた――あの失態をきっかけに作られたもの。
……いや、正確には違う。
あの傲慢女の手助けがあって完成した。
あの傲慢女の力を借りるのは癪だ。
でも借りて良かったとは思う。
エレナを逃したのは、私たちの失態だった。
本来なら牢から出す必要なんてなかった。
封じておけばよかった。
なのに、私が、話したかった。
そう。
全部、私のせい。
会って確かめたかった。
何を思うのか。
何を選ぶのか。
どんな顔をするのか。
でも――。
あの顔。
あの声。
それを見た瞬間、私の中に湧いたのは興味じゃなかった。
嫌悪。
拒絶。
そして、殺意。
本当に嫌になる。
話す気すら失せた。
これ以上見ていたら、私はきっと――
「キシシ、大魔王様。お出かけでございますか?」
耳障りな笑い声。
転移門の脇に、ヒヒ爺が立っていた。
小柄で、腰が曲がり、長い鼻と尖った耳を持つ異形の猿人。
濁った黄色い目がぎょろりと動く。
「ヒヒ爺、そう。少し出かけるわ」
私は門を見上げた。
「門を開いて」
「キシシ……畏まりました」
杖が床を打つ。
ゴォォォ……
魔法陣が回転する。
ギイイイイ――
不快な音と共に空間が裂けた。
黒い裂け目。
奥では無数の光が流れている。
この転移門は特殊だ。
一度でも訪れた場所を明確に思い描けば、その地点へ転移できる。
私の前世知識を基に傲慢女が作った、理外の産物。
向かう先は決まっている。
赤い瞳が細まる。
「暇つぶしね」
そう呟いた私の表情は、自分でも分からなかった。
楽しみなのか。
怖いのか。
会いたいのか。
殺したいのか。
自分でも分からない。
だからこそ、私は迷いなく転移門へ足を踏み入れた。
この先にある"絶望"へ歩むために。
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次話は6/16火曜日22時に公開予定です。
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