その17 「魔界の住人」
何が何だか分からないまま、私は建物の外へ出た。
ひんやりとした風が頬を撫でる。
空気は澄んでいた。
深く息を吸う。
肺の奥まで流れ込む空気に、思わず眉をひそめた。
「……魔素が濃い」
人差し指に魔力を集める。
確認だ。
ボッ。
小さな火が灯った。
魔法は使える。
だが――。
「っ!?」
火が予想以上の勢いで燃え上がった。
慌てて消したが、前髪の先が少し焦げる。
「あちちっ……」
思わず声が漏れた。
その瞬間だった。
「あっ!」
背後から声がした。
私は反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、小さな少女だった。
年齢は五歳か六歳ほど。
頭には小さな角。
灰色の肌。
赤い瞳。
縦に裂けた瞳孔。
間違いない。
魔族だった。
私は即座に距離を取り、構える。
「っ魔族……!」
だが少女は首を傾げただけだった。
「?」
不思議そうな顔。
敵意も警戒もない。
ただ純粋に不思議そうにしている。
「ダメだよ?」
少女はにこりと笑った。
「疲れて寝てたんでしょ?」
「……え?」
思わず間の抜けた声が出た。
あまりにも予想外だった。
魔族の子供。
なのに、どこか懐かしい。
昔のエレナ様を見ているような。
そんな雰囲気があった。
「お姉さん、お名前は?」
少女は目を輝かせながら聞いてくる。
私は少しだけ答えるのを躊躇った。
だが黙っていても仕方がない。
「……リリサよ」
「へぇー!」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「いい名前!」
胸を張る。
「私はマイ!」
「マイ……ちゃん?」
「うん!」
満面の笑みだった。
「マイでいいよ!」
魔族の子供。
だがその笑顔は、人族の子供と何一つ変わらなかった。
「……マイ」
私は周囲を見渡した。
見知らぬ景色。
見知らぬ建物。
見知らぬ空。
「ここはどこなの?」
「ここ?」
マイは当たり前のように答えた。
「リホーン村だよ!」
「リホーン村……」
聞いたことがない。
私は慎重に尋ねた。
「アルファスト大陸のどこにあるの?」
マイはきょとんとした。
「アルファスト大陸?」
首を傾げる。
「そんなの知らないよ?」
「え?」
「ここは魔界だよ?」
私は固まった。
マイは何でもないことのように続ける。
「みんなそう呼んでるもん」
魔界。
その言葉が頭の中で反響する。
魔王。
魔族。
黒炎。
そして、世界が歪んだ瞬間。
「……魔界」
呆然と呟く。
だが、だからこそ納得できる部分もあった。
空気。
魔素。
景色。
何もかもが違う。
ここは本当に別世界なのかもしれない。
「ここが……魔界……?」
だからといって信用できるわけではない。
私は指先に魔力を集めた。
マイは首を傾げている。
無防備だった。
あまりにも無防備だった。
本当に魔族なのか。
疑念が勝る。
私は確かめるために、魔法を放った。
「氷槍――アイスランス」
氷の槍が生まれる。
マイへ向かう。
だが、飛ばした瞬間。
マイの顔が見えた。
一瞬だけ。
五歳の頃のエレナ様と重なった。
「っ……!」
私は慌てて軌道を逸らした。
ズドォン!
氷槍は遥か後方の黒い木へ突き刺さる。
マイは数秒固まり。
そして、泣き出した。
「うわぁぁぁぁぁん!」
「ご、ごめんなさい!」
私は慌てた。
本当に慌てた。
「その……虫が!」
「虫ぃぃぃぃ!?」
「危なかったから!」
「怖かったぁぁぁ!」
完全に子供だった。
魔族とか関係なく。
ただの泣き虫な子供だった。
「ご、ごめんなさい!」
私は慌ててマイの前にしゃがみ込んだ。
魔王を前にした時より焦っている気がする。
「その……本当にごめんなさい」
「ぐすっ……」
「ほら、怪我はしてないでしょう?」
「びっくりしたもん……」
「ええ、そうね……」
完全に私が悪かった。
魔族だからと決めつけた。
目の前にいるのは、どう見ても幼い子供だった。
マイは涙を拭きながら私を見る。
「リリサ、お姉さん怖い」
「返す言葉もないわ……」
私が項垂れていると、マイは少しだけ笑った。
「でも大丈夫!」
立ち直りが早い。
本当にエレナ様を思い出す。
幼い頃のエレナ様も、深く考えない方だった。
「そう、ならよかったわ」
私は胸を撫で下ろした。
その時だった。
遠くから怒鳴り声が聞こえた。
「おい!マイ!」
小さな影が駆けてくる。
こちらへ一直線だった。
マイが振り返る。
「あ、シンだ!」
現れたのはマイと同じくらいの男の子だった。
こちらも頭に小さな角が生えている。
息を切らしながら走ってきた彼は、マイの顔を見るなり目を見開いた。
「マイ!」
「なにー?」
「なにーじゃない!」
シンはマイを指差した。
「お前、泣いてるじゃないか!」
「え?」
マイは自分の頬を触る。
まだ涙の跡が残っていた。
「本当だ」
「本当だじゃない!」
シンは私を睨み付けた。
その目には明確な敵意があった。
「お前!」
私は静かに彼を見る。
シンは私を指差した。
「今回連れてこられた奴だな!」
連れてこられた。
その言葉に反応する。
やはり私は魔王との戦いの後、この場所へ運ばれたらしい。
「だから何?」
私が答えると、シンは鼻を鳴らした。
「マイを泣かせたんだろ!」
「それは……」
事実だった。
反論できない。
だがシンはそれを認める気などないらしい。
「俺が倒してやる!」
そう叫びながら突進してきた。
私は思わず目を瞬かせる。
遅いというより、子供の全力疾走だった。
シンは拳を振るう。
私は半歩だけ横へずれた。
空振り。
「なっ!?」
再び拳。
避ける。
蹴り。
避ける。
体当たり。
避ける。
「くっ!」
私はほとんど動いていない。
シンだけが全力で空を殴っている。
「待ちなさい」
「待たない!」
「危ないから」
「危なくない!」
たしかにシンは、危なかった。
私は思わず額を押さえた。
マイは後ろで楽しそうに見ている。
「シン頑張れー」
「応援するな!」
どっちの味方なのだろう。
シンは息を切らしながら距離を取った。
「くそっ……」
悔しそうだ。
だが諦めない。
その瞳だけは真剣だった。
「やるじゃないか……」
「ありがとう?」
「褒めてない!」
シンは両手を前に突き出した。
魔力が集まる。
私は少しだけ驚いた。
(この年齢で魔法を?)
魔族だからだろうか。
魔力の扱いは悪くない。
「だが!」
シンが叫ぶ。
「これを食らえ!」
小さな火球が飛んできた。
勢いはある。
だが制御が甘い。
私の目の前まで来たところで。
ぽふっ。
消えた。
「………」
「………」
「………」
沈黙。
シンは固まった。
私は固まった。
マイは吹き出した。
「ぷっ」
「笑うな!」
「だって消えた!」
「消えてない!わざとだ!」
「へぇー」
「本当だ!いまから大爆発するぞ!」
シンは顔を真っ赤にした。
「爆発しないじゃない」
「くっーーー」
そして私を指差す。
「きょ、今日はこのくらいで勘弁してやる!」
そう言って勢いよく振り返る。
「シンの負けだよー」
「うるさい!」
「負けたー」
「負けてない!」
「負けたー」
「うるさいうるさい!」
私は二人のやり取りを見つめた。
さっきまで張り詰めていた心が、少しだけ緩む。
魔界。
魔族。
魔王。
恐ろしい言葉ばかりだ。
だが、目の前にいる二人は、どこにでもいる子供だった。
私は知らず知らずのうちに小さく息を吐いた。
そして思う。
本当に魔界なのだろうか。
そんな疑問が胸に浮かぶほど、この光景は平和だった。
「シンは負けたよー」
「負けてない!」
「負けたー」
「負けてない!」
二人の言い争いが続いていると、不意に別の声が聞こえた。
「こら、お前たち」
落ち着いた男の声だった。
私が振り向く。
そこには角を持つ中年の男性が立っていた。
灰色の肌。
頭には短い角。
穏やかな顔をしている。
その隣に立つ人物を見た瞬間、私は目を見開いた。
「ヒューマン……?」
男もまた驚いた顔をした。
「おお、目を覚ましたのか」
四十代ほどの男性だった。
日に焼けた肌。
質素な服。
だが間違いない。
人族だ。
「あなたは……」
「俺は農夫のガルドだ」
男は苦笑した。
「見ての通り人族のヒューマンだよ」
私は咄嗟に周囲を警戒する。
だがガルドは肩をすくめた。
「そんな顔しなくていい」
「……」
「俺も最初は同じ顔をした」
そう言って隣にいるリホーン人の男を見る。
「村長、この人だろ?」
村長と呼ばれた男は頷いた。
「そうじゃな」
そして私を見る。
「まずは名を聞いてもよいかな?」
「……リリサです」
「うむ。わしはバルグ」
村長は穏やかに微笑んだ。
「このリホーン村の村長をやっておる」
私は黙ったまま観察する。
敵意は感じない。
だが信用もできない。
ここは魔界なのだ。
警戒するなという方が無理だった。
するとガルドが苦笑する。
「本当に俺と同じ反応だな」
「……どういう意味ですか?」
「俺もここへ来た時、警戒した」
「ガルドさんも?」
マイが驚く。
村長は笑っていた。
「懐かしい話じゃな」
「いやいや笑い事じゃないだろ。突然魔界にいたんだからよ」
ガルドが頭を掻く。
「俺も魔族に捕まったと思ってたからな」
私は目を細めた。
「では、違うのですか?」
「ああ」
ガルドは頷く。
「俺はアルファスト大陸南の商業都市グランセルの出身だ」
聞いたことのある街だった。
ブレイジング領からかなり離れている。
「農業してる時にな」
ガルドは遠くを見るような顔になる。
「気がついたらここにいた」
私と同じだ。
「それで?」
「最初は逃げようとした」
「……」
「でも無理だった」
私は身構える。
やはり監禁されているのか。
だが次の言葉は予想外だった。
「逃げようとしたけど、外が危険すぎて戻ってきた」
「え?」
「ここら辺の魔物は地上より遥かに強い」
ガルドは苦笑した。
「泣きながら帰ってきたぞ」
村長が頷く。
「死なれたら困るからのう」
「……」
私は混乱していた。
話が噛み合わない。
魔族。
魔界。
人族。
同じ村。
同じ生活。
理解できない。
すると村長が静かに言った。
「リリサ殿」
私は顔を上げる。
「混乱しておるじゃろう」
「……はい」
「ならば話をしよう」
村長はゆっくりと踵を返した。
「まずは村へ来なさい」
そして少しだけ振り返る。
「安心せい」
その表情は不思議なほど穏やかだった。
「少なくとも、この村で人族を食った者は一人もおらん」
マイが元気よく手を挙げる。
「食べたことない!」
「食べられたらたまらんわ」
ガルドが突っ込む。
シンも頷く。
「人族って美味いのか?」
「やめなさい!」
「知らないから聞いてるだけだ!」
再び言い争いが始まった。
私はその光景を見ていた。
どう見ても、地上の村と変わらない。
魔界にいるはずなのに。
魔族の村にいるはずなのに。
それでも、少なくとも今すぐ命を奪われる場所ではない。
それだけは理解できた。
私は小さく息を吐いた。
「……わかりました」
警戒は解かない。
だが話は聞こう。
そう思いながら、私は村長の後を追った。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は6/7日曜日22時に公開予定です。
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