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その11 「氷炎の魔法使い⑥」

エレナ様が勇者に選ばれた日からの一ヶ月は、まるで嵐のようだった。


約二百年ぶりに現れた勇者。

それが、エレナ様だった。


旦那様が王都へ正式な報告を上げると、噂は瞬く間に広がった。

ブレイジング家の三女が勇者に選ばれた。

その一文だけで、人も金も情報も、この領地へ雪崩れ込む。


王都からの使者。

周辺領地の貴族。

教会関係者。

騎士団の幹部。

果ては、これまで一度も交流のなかった貴族まで、祝辞を述べに訪れるようになった。


屋敷は連日のように晩餐会と面会で埋まり、私たち使用人も慌ただしく駆け回っている。


だが、その中心にいるエレナ様は――。


「……疲れた」


面会や晩餐会から戻られるたび、そう呟いてソファへ倒れ込んでいた。


無理もない。


貴族たちは口では祝福を述べながら、その実、皆それぞれの思惑を抱えている。


勇者との繋がり。

ブレイジング家との縁。

将来的な利益。

名誉。


そして何より、エレナ様は、美しかった。


元より整った容姿だったが、勇者として覚醒して以降、その美貌にはどこか神秘性すら宿っていた。


古き時代に、この世界を創造された女神アルカナの生まれ変わりではないかとも言われ出した。


周辺貴族の男たちからすれば、興味を抱かぬ方が難しいのだろう。


中には、露骨に縁談を匂わせる者までいる。


エレナ様は元々性的な目で見られるのが苦手な方。

私は、笑う男たちを見ながら、何度、氷魔法で凍らせてやろうと思ったかわからない。


もちろん、表情には出さないが。


エレナ様も、表向きは笑顔で応対していた。


だが、部屋へ戻ると、ぐったりとベッドへ倒れ込む。


「なんでこんな毎日……」


そう呟きながら、枕に顔を埋める姿は、まだ十五歳の少女そのものだった。


エレナ様の周囲はすっかり変わってしまっていた。


だが、エレナ様自身は、まだその変化に心が追いついていなかった。


ご両親やご兄弟との時間が減り、自分の知らないところで予定が決まり、王都行きの日程が定められる。

そして、自身の自由時間すら減っていた。


エレナ様は、戸惑いとストレスを感じているようだった。


だから、私から旦那様に申し出て、エレナ様の側にいるようにした。


護衛の意味もある。


だが、それ以上にエレナ様が、一人で抱え込まないように。


その結果、同じ部屋で寝泊まりするようになった。


「リリサが一緒なら安心する」


そう言って笑われた時、私は胸の奥が少しだけ熱くなった。


「子供達に会えてないから、大丈夫か心配だ」


子供達のことを心配するエレナ様。


「えぇ、大丈夫ですよ。エルナ様の代わりにエドワード様が子供達のところへ回られておられます」


どれだけ強くなっても。

どれだけ立場が変わっても。


「エドワード兄様が?それなら安心だね」


根っこの優しさだけは、何一つ変わらなかった。


そして、明日。


エレナ様は、この地を旅立つ。


生まれ育ったブレイジング領を離れ、勇者としての人生を歩み始めるのだ。


「旅に出て、どこかの街を奪還するとか、魔族の基地を潰すとか……色々聞かされたけど、いまいち実感ないんだよね」


寝巻きへ着替えたエレナ様は、ベッドの上で膝を抱えながら、小さく呟いた。


化粧を落とした顔は、いつもの年相応の少女だった。


でも、難しい顔で考え込む。


私はその横顔を静かに見つめた。


戸惑い。

緊張。

寂しさ。


そして、ほんの少しだけ混じる、冒険への期待。


その全てが、エレナ様の胸の中で揺れているのが伝わってきた。


明日から、この方の人生は大きく変わる。


勇者として、多くの人々に期待され。

多くのものを背負い。

時には、誰にも弱音を吐けなくなる日も来るだろう。


――私は、同行できない。


それでも、ずっと、エレナ様の味方でいよう。


それだけは、何があっても変わらない。


「エレナ様、まだお休みになっていなかったのですね」


部屋の灯りは落としてある。

窓から差し込む月明かりだけが、白銀の髪を淡く照らしていた。


「うん……なんか、眠れなくて」


ベッドの上で膝を抱えながら、エレナ様は小さく笑った。


その笑顔には、不安が滲んでいる。


私はベッドのそばまで歩み寄り、いつものように穏やかな声で問いかけた。


「ご不安ですか?」


エレナ様は少しだけ迷うように目を伏せ、ふっと柔らかく笑う。


「リリサは、私の事をよくわかってるね」


「エレナ様とは、もう長いお付き合いとなりますから」


私はそう返しながら、静かに枕元へ腰を下ろした。


この距離も。

こうして二人で話す時間も。

明日から無くなってしまう。


「この部屋で二人で過ごすのも、今夜が最後になりますね」


「……そうだね」


エレナ様は小さく息を吐いた。


その横顔は、勇者ではなく。

旅立ちを前にした、一人の少女のものだった。


「私、本当に勇者としてやっていけるのかな……」


ぽつりと漏れる声。


「まだ、勇者としての使命とか、よくわからなくて……」


私はその言葉を静かに受け止める。


不安になるのは当然だ。

十五歳の少女が、突然世界を救えと言われたのだから。


だからこそ、私ははっきりと伝えた。


「エレナ様が選ばれたのは、力だけではありません」


エレナ様がこちらを見る。


「きっと女神様は、エレナ様の心の強さをご覧になったのです」


「……心の強さ?」


「ええ」


私はゆっくり頷いた。


「たとえ今、不安でも。怖くても。それでも明日、一歩を踏み出そうとしている」


「その勇気こそが、エレナ様の強さです」


「初めて魔族と戦った時も、そうだったではありませんか」


あの時もエレナ様は、逃げなかった。


「実は、戦うのが好きなのも、エレナ様の特徴ですよね」


あの時から、この子はずっと変わっていない。


「戦うのは好きだけど、世界のためとか考えたことなかったよ」


エレナ様は、静かに目を閉じて小さく笑う。


「ありがとう、リリサ」


「小さい頃からずっとそばにいてくれて……」


「本当に、リリサは本当のお姉様達より、お姉さんって感じだなぁ」


その言葉に、胸の奥が熱くなる。


「そんな、恐れ多いことです」


私は少しだけ苦笑した。


「ですが……エレナ様とのこの十年は、私にとって一番幸福な時間でした」


本心だった。


あのような施設で、番号だけの存在として生きていた私が、誰かの帰る場所になれた。


誰かの成長を、こんなにも近くで見守れた。


それだけで、十分すぎるほど幸せだった。


「できる事なら、ずっとお側についていきたいのですが……私はここに残らなければなりません」


「気にしないで」


エレナ様は優しく笑った。


「不安だけど……なんとかやってみるよ」


その言葉を聞いて、私は思う。


ああ、本当に強くなられたのだと。


あのお転婆だったエレナ様が、今では、自分の不安を抱えたまま、それでも前へ進もうとしている。


私に妹がいたら、こんな感じなのだろうか。


そんなことを、一人でよく考えていた。


「では、最後の夜ですし……」


私はそっと微笑んだ。


「今夜は、一緒に眠りましょうか」


「うん!」


その返事だけは、昔と変わらない。


二人で同じベッドへ入り、毛布を被る。


静かな夜だった。


窓の外では虫の音が聞こえ、遠くで風が木々を揺らしている。


私はふと、小さく口を開いた。


「先日、お話しそびれてしまいましたが……」


私のここに来るまでの冒険譚を話そう。

エレナ様の心が軽くなればと思った。


その夜。


私たちは遅くまで、たくさんの話をした。


昔のこと。

旅のこと。

好きな食べ物の話。

くだらない失敗談。


笑って。

少し泣いて。

また笑って。


私はきっと、この夜のことを一生忘れない。





翌朝――。


空はどこまでも澄みわたり、柔らかな陽の光がブレイジング伯爵家の屋敷を優しく照らしていた。


旅立ちの日にしては、あまりにも穏やかな朝だった。


私は静かにエレナ様の部屋へ入り、身支度を手伝う。


白銀の髪を丁寧に梳かし、勇者として仕立てられた外套を整える。


鏡の前に座るエレナ様は、昨日より少しだけ大人びて見えた。


けれど、その横顔にはまだ不安が残っている。


「髪、絡まってませんか?」


「うん、大丈夫」


そう返す声も、どこか緊張していた。


私は最後に襟元を整え、小さく微笑む。


「本日も、とてもお綺麗です」


「……ありがとう、リリサ」


その言葉だけで、胸の奥が少し苦しくなる。


寂しい。


けれど、昨日決めた。


今日は、笑顔で送り出そうと。


私は静かに息を吐き、エレナ様を伴って朝食の間へ向かった。


会場には、すでに全員が揃っていた。


今朝だけは、家族だけで過ごす。

旦那様が決められたことだ。


旦那様。

奥様。

兄君お二人。

姉君お二人。


執事や侍女たち、料理人、庭師、門番まで。


ブレイジング伯爵家に仕える者たちが皆、エレナ様の旅立ちを見送るために集まっていた。


長い食卓には豪華な朝食が並んでいる。

けれど、誰もいつものように明るくはなかった。


静かだった。


それでも皆、それぞれの言葉をエレナ様へ贈っていく。


気づけば。


エレナ様の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れていた。


「あれ……あれ、おかしいな……」


「泣かないって決めてたのに……」


声を震わせながら笑おうとする。


そんなエレナ様を、旦那様と奥様が優しく抱きしめた。


その光景を見た瞬間。


私は、ふと師匠――フリーダ様のことを思い出していた。


思えば。

私にとって家族と呼べる存在は、あの人だけだった。


だからだろうか。


この温かな別れが、少し羨ましくて。

少し懐かしくて。


そして何より。


エレナ様との別れが、苦しかった。


涙が出そうになる。


けれど私は堪えた。


今日の私は、最後まで側付きメイドなのだから。


朝食を終え、皆で屋敷の外へ出る。


すると、広場に集まっていた領民たちが、一斉に歓声を上げた。


「エレナ様、万歳!!」


「勇者様に栄光あれ!!」


「魔王、撃つべし!!」


大きな拍手と歓声が、朝の空へ響き渡る。


そんな中に、いつも遊んでいた子供達がいた。


「エレナお姉ちゃん!」


「がんばってね!」


「魔王たおしてね!」


エレナ様は涙を拭いながら、大きく手を振っていた。


――本当に、愛されている。


そう思った。


小さな荷物を抱えながら、エレナ様は馬車へ向かって歩いていく。


王都から派遣された冒険者たちが周囲を固めていた。


皆、緊張した面持ちだ。


勇者を護衛する。

それがどれほど重い任務か、理解しているのだろう。


荷物を積み終え。


エレナ様が馬車へ乗り込もうとした、その時だった。


「エレナ様」


私は静かに声をかけた。


エレナ様が振り返る。


その表情は、どこか寂しそうだった。


……きっと、私も同じ顔をしている。


旦那様やご家族を差し置いて、私が最後に話しかけるなど、本来なら無礼かもしれない。


けれど、誰も口を挟まなかった。


皆、待っていてくれた。


「旅立たれる前に、一つだけ……お尋ねしてもよろしいですか?」


「うん、なに?」


私は静かに問いかけた。


「……勇者とは、どんな存在だと思いますか?」


エレナ様は少しだけ驚いた顔をした。


そして、そのまま考え込む。


私は願っていた。


この問いが。

これから先、エレナ様が迷った時の道標になればいいと。


エレナ様は馬車へ乗り込む。


扉が閉まり、車輪が静かに動き出した。


見慣れた馬車が、少しずつ遠ざかっていく。


いつも二人で街へ出かけた時に使っていた、あの馬車。


それが今日は、世界へ旅立つ馬車に見えた。


この世界で唯一、妹のように思っていた存在との別れ。


「……エレナ、頑張ってね」


誰にも聞こえないよう、小さく呟く。


遠ざかる馬車の窓から、エレナ様がずっと手を振っていた。


私も最後まで、手を振り返した。


エレナ様には、感謝しかない。


根無し草の冒険者だった私に、帰る場所をくれた。


温かな時間をくれた。


家族というものを教えてくれた。


私は、エレナ様が新しい世界へ踏み出す、その最初の一歩を見送っていた。





エレナ様が旅立たれてから、数日が経過した。


屋敷は静かだった。


あまりにも静かで。

時折、胸の奥が空っぽになったような感覚に襲われる。


朝になれば自然とエレナ様の部屋へ向かいそうになる。

昼になれば、好物だった料理を思い出す。

夜になれば、「今日はもうお休みください」と声をかけそうになる。


十年。


人生の三分の一以上を、あの子の側で過ごしてきたのだ。


その存在が急にいなくなれば、静けさがこんなにも寂しいものになるとは思わなかった。


だからだろうか、私は以前から胸の奥で考えていたことを、ようやく旦那様へ伝える決心をした。


執務室。


窓から差し込む夕陽が部屋を赤く染める中、私は静かに頭を下げた。


「リリサ! 考え直さないか?」


旦那様は珍しく感情を露わにしていた。


奥様もまた、どこか寂しそうな表情を浮かべている。


「はい、旦那様」


私はまっすぐ顔を上げた。


「勝手ではございますが……十年に渡り、大変お世話になりました」


「貴方、リリサは冒険者なのよ」


奥様が静かに言う。


「旅に出たい気持ちは、わかるでしょう?」


「……わかっている」


旦那様は苦々しく息を吐いた。


「だが、エレナをあそこまで育ててくれた者だ。恩を返させてほしい」


その言葉に、胸が熱くなる。


恩を返したいのは、私の方だった。


「それなら貴方」


奥様が優しく微笑む。


「リリサを送り出すことも、恩ではなくて?」


「う、うむ……」


旦那様は腕を組み、しばらく唸っていた。


そして、諦めたように笑う。


私は小さく笑みを浮かべた。


そう。


私は、このブレイジング伯爵家のメイドを退職することを申し出ていた。


理由は一つ。


私も、旅に出ようと思ったからだ。


以前のように世界を見たいだけではない。


エレナ様のように、困っている人を助けたい。


この力を、多くの誰かのために使いたい。


気づけば、そんな風に考えるようになっていた。


きっと、エレナ様の影響なのだろう。


「うむ、わかった」


旦那様はゆっくりと頷いた。


「リリサよ。これまで、よくエレナに仕えてくれた」


「はい」


私は深く頭を下げる。


「旦那様、奥様。本当に、お世話になりました」


声が少しだけ震えた。


「お二人のおかげで、この十年、幸せな生活を送ることができました」


「こんな冒険者上がりの女に、エレナ様をお任せくださり……本当に、ありがとうございました」


奥様は目元を押さえていた。


旦那様はそんな奥様を見ながら、小さく笑う。


「……エレナはこういうだろう。リリサは家族だ!とな」


「旅の途中、疲れたら帰ってきなさい。ここは、リリサの家でもある」


その言葉に、胸が締め付けられた。


数日後。


私は屋敷の皆へ別れの挨拶を済ませた。


執事長とメイド長は最後まで背筋を崩さず、「お元気で」とだけ告げたが、目は赤かった。


メイド仲間たちは泣きながら抱きついてきた。


料理長は大量の保存食を持たせようとして、皆に止められていた。


庭師は無言で花束を渡してくれた。


エレナ様の兄君お二人は王都へ出ており、会うことはできなかった。


だが、手紙だけは預かっている。


姉君お二人とも、最後に簡単な挨拶を交わした。


昔のような棘は、少しだけ薄れていた気がする。


そして、私は、ブレイジング伯爵家の門の前に立っている。


十年間、帰る場所だった屋敷。


初めて訪れた時は、場違いなほど豪華に見えた建物も、今では懐かしい我が家のように感じる。


エレナ様との大切な思い出がたくさんある。


私は静かに、深く一礼した。


「……ありがとうございました」


ここでは、本当に多くを学ばせてもらった。


人との繋がり。


家族。


笑うこと。


誰かの成長を見守る喜び。


そして――家族。


旦那様と奥様が用意してくださった旅装束は、動きやすく、それでいて品が良かった。


「ここに来た時より、いい装備になりましたね」


この十年敬語しか使ってこなかった。

このままでいこう。

そう決めた。


新しい鞄には、愛用している小さな杖、保存食や旅費、それに奥様がこっそり入れたぬいぐるみまで入っている。


「これは、小さい頃のエレナ様…」


私は小さく笑った。


そして、背を向ける。


もう振り返らない。


私は再び、氷炎の魔法使いとして歩き出した。

読者の皆様、いつもありがとうございます。

次話は5/28木曜日22時に公開予定です。

引き続き宜しくお願い申し上げます。

少しでも「面白い」と思って頂けましたら、ブックマークをよろしくお願いします。

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