その10 「氷炎の魔法使い⑤」
二年ほど前からだろうか。
エレナ様は、領内の孤児院へ頻繁に足を運ぶようになった。
最初は視察のようなものかと思っていた。
だが違った。
本当に、子供たちと遊ぶために行っているのだ。
私は当然同行する。
最初の頃は護衛の意味合いが強かったが、今では完全に見守り役になっていた。
「エレナ姉ちゃん!」
「今日は剣ごっこしよう!」
「魔法見せてー!」
子供たちに囲まれ、エレナ様はいつも楽しそうに笑っていた。
泥だらけになって走り回り。
泣き出した子をあやし。
転んだ子の膝に治癒魔法をかけ。
時には、一緒になって悪戯までしている。
驚いたのは、その手慣れ具合だった。
末子であるはずなのに。
まるで、自分に弟妹が何人もいたかのように自然なのだ。
食事の分け方。
喧嘩の止め方。
泣いている子への接し方。
どれも妙に慣れている。
私は不思議に思った。
だが、深く聞くことはしなかった。
エレナ様には時折、別の誰かを感じる瞬間がある。
五歳の、あの日から。
けれど、それを問いただそうとは思わなかった。
私にとっては、全てエレナ様なのだから。
エレナ様は、このブレイジング領で非常に人気がある。
当然だろう。
強い。
正しい。
優しい。
悪事を見れば怒り。
弱い者を放っておけない。
しかも、貴族でありながら民を見下さない。
領民たちは、エレナ様を誇りに思っていた。
騎士たちは憧れ。
子供たちは慕い。
女性たちは噂する。
「いつか王妃になるんじゃないかしら」
そんな声まで聞こえてくるほどだった。
……本人が聞けば、全力で嫌がるだろうが、王妃となったエレナ様を見てみたいと気持ちもある。
そんなエレナ様も、明日で十五歳。
成人の日が近づいていた。
「はぁ……」
最近、ため息が増えた。
食事中。
訓練後。
本を読んでいる時。
ふとした瞬間に、深いため息を吐く。
「エレナ様、ため息が多いですよ」
そう言うと、
「もう幸せがいっぱい逃げたよ」
真顔で返されたが、よく意味がわからなかった。
怪訝な顔をした私に説明してくれた。
「ため息をつくたび、幸せが一つ逃げるんだって」
「……そのような言い伝え、初めて聞きました」
どこで覚えてくるのだろうか。
エレナ様は時折、妙に不思議な言い回しやことわざを口にする。
異国の言葉のようでもあり。
古い伝承のようでもある。
私は毎回首を傾げていた。
そして、翌日となった。
十五歳の誕生日。
つまり――女神の啓示の日。
街は数日前から妙な熱気に包まれていた。
領民たちはもちろん。
王都から来た貴族。
王家の側近。
商人。
冒険者。
誰もが、ブレイジング家三女の啓示に注目していた。
それだけ、エレナ様は有名になっていた。
旦那様と奥様と昨年話した通り。
啓示の内容次第では、私と共に旅へ出る。
ほぼ決まっている。
だが私は、別の確信を抱いていた。
エレナ様の啓示は――普通では終わらない。
きっと。
誰も見たことのないものになる。
そんな予感が私にはあった。
翌日。
私はエレナ様の部屋で、身支度を整えていた。
化粧台の前に座るエレナ様は、珍しく静かだった。
緊張しているのだろう。
私は少しでも和らげようと、穏やかに話しかける。
「今日は特別ですから、少し華やかに仕上げますね」
淡い香水。
薄桃色のルージュ。
金糸の刺繍が施された白銀のドレス。
髪も丁寧に結い上げる。
完成した姿を見て、私は思わず息を呑んだ。
美しい。
どこへ出しても恥ずかしくない。
まさに、名門貴族の令嬢だった。
「……なんか、緊張してきた」
「大丈夫ですよ」
私は微笑む。
「エレナ様なら、どのような啓示でも乗り越えられます」
「ねぇ、リリサ」
「はい?」
「リリサは十五歳の時、どんな啓示を受けたの?」
私は少しだけ苦笑した。
「私ですか?」
「ブレイジング家三女付きのメイドになれ、と女神様から」
「最初は驚いて、叫びました」
「……暴れた記憶もあります」
「リリサが暴れた?」
エレナ様は吹き出した。
「はははっ! 見たかったな!」
「今思えば、若気の至りです」
私もつられて笑ってしまう。
しばらく笑った後。
エレナ様はふと、鏡越しにこちらを見た。
「そういえば、リリサがうちに来る前のことって、聞いたことなかったね」
「……そうですね」
私は一瞬、言葉に詰まる。
「私は――」
そこへ。
コンコン、と扉が鳴った。
「エレナ、準備はできたかしら?」
奥様だった。
私は小さく安堵する。
……助かった。
過去については、旦那様との約束で話していない。
今さら語る必要もないだろう。
扉が開き、奥様が入って来られる。
私は思わず見惚れてしまった。
並ぶ二人は、本当によく似ている。
違うのは髪色くらいだ。
奥様は明るい金髪。
エレナ様は少し落ち着いた色合い。
それ以外は、顔立ちも、雰囲気も、驚くほど似ている。
親子なのだと、改めて実感した。
「リリサ、ありがとう」
私は少しだけ涙が出そうになった。
そして、旦那様や兄様方との会話を終えたエレナ様は、ご家族と共に教会へ向かわれた。
「リリサも来なさい」
私も同席を許される。
街道には人々が溢れていた。
「エレナ様だ!」
「お綺麗……」
「啓示はどうなるんだ?」
歓声。
期待。
熱気。
全てが渦巻いている。
だが、その中心にいるエレナ様だけが、妙に静かだった。
やがて。
巨大な教会の扉が開く。
白い光が、静かに差し込んだ。
そして――。
運命の時間が、訪れる。
祭壇の前まで、エレナ様はゆっくりと歩いていく。
白銀の礼装。
磨かれた靴音。
静まり返った大聖堂の中で、その足音だけがやけに大きく響いていた。
私は少し後ろを歩きながら、周囲へ視線を向ける。
来賓席には、王国の名だたる貴族たち。
騎士団幹部。
神殿関係者。
そして王都から派遣された王家直属の者たちまで並んでいた。
女神の啓示。
それは、この世界の未来を左右する神聖な儀式。
だからこそ、これほど多くの人々が見守っている。
期待。
欲望。
打算。
祈り。
様々な感情が、教会内に満ちていた。
その中心にいるのが――エレナ様だ。
家族と並び、私は指定された中央の位置へ立つ。
そして、静かに手を組んで、目を閉じた。
(女神アルカナ様……)
私は祈った。
(祈ったことがない私が、初めて祈ります…)
(どうか、エレナ様に自由をお与えください……)
ただ、あの子が望む人生を。
そう願わずにはいられなかった。
やがて、神父が祭壇の前へ進み出る。
高齢の神父だった。
だが、その声音には長年神に仕えてきた威厳がある。
「エレナ・フォン・ブレイジング」
教会全体へ響き渡る声。
「女神アルカナ様の導きにより、汝の未来を定めよう」
エレナ様が、一歩前へ出る。
静かに祈りの姿勢をとり。
そして――。
祭壇中央に置かれた巨大な水晶へ、そっと手を伸ばした。
その瞬間だった。
眩い光が爆発するように広がった。
「っ!?」
教会内が白く染まる。
誰もが目を覆った。
空気が震える。
魔力の奔流が、大聖堂そのものを揺らしていた。
私は息を呑む。
こんな反応、見たことがない。
そして――。
光の中で。
エレナ様の髪が、ゆっくりと色を変えていった。
金色だった髪が、まるで雪のような、白銀へ。
神聖さすら感じるほど、美しく。
幻想的だった。
「……っ、あ……!」
エレナ様が苦しそうに膝をつく。
同時に。
神父の震える声が、大聖堂へ響き渡った。
「か、か……彼女は……!」
神父の顔が蒼白になっている。
そして次の瞬間、叫ぶように告げた。
「勇者だ!!」
――静寂。
一瞬だけ。
世界そのものが止まったようだった。
そして次の瞬間。
教会内が、一気にざわめきに包まれる。
「勇者……!?」
「本物か!?」
「白銀の髪だ……!」
「女神の加護……!」
驚愕。
歓声。
悲鳴。
祈り。
誰もが立ち上がり、エレナ様を見ていた。
神殿騎士たちですら、動揺を隠せていない。
仕方のないことだ。
勇者が現れたのは約二百年ぶり。
その勇者が一度は魔王を撃退して、いっときの平和を勝ち取った人だからだ。
この騒ぎの中心で、エレナ様はゆっくり立ち上がった。
白銀の髪を揺らしながら。
呆然と、自分の手を見つめていた。
私は理解した。
……やはり。
私の予感は、当たっていた。
だが、勇者。
それは、自由とは最も遠い存在だった。
胸の奥には、確かに熱があった。
誇らしさ。
嬉しさ。
エレナ様が選ばれたことへの感動。
けれど同時に。
冷たい不安が、ゆっくりと心を締め付けていた。
勇者は、世界に求められる。
つまり。
世界に縛られる。
十五歳の少女が背負うには、あまりにも重すぎる運命だった。
帰宅後。
その夜の食事会は、異様なほど静かだった。
広い食卓。
豪華な料理。
だが、誰もほとんど手をつけていない。
重い沈黙だけが流れていた。
最初に口を開いたのは、旦那様だった。
低く絞り出すような声。
「エレナ」
「……はい」
「私は、お前が貴族と結婚できなくなることを悲しんでいるのではない」
エレナ様が顔を上げる。
旦那様は続けた。
「危険な旅へ出さねばならぬことが……辛いのだ」
その言葉に、奥様がそっと俯いた。
扇で口元を隠している。
だが、その肩は小さく震えていた。
「勇者なんて……」
奥様の声は掠れている。
「想像もしなかったわ……」
母として。
娘を誇らしく思う気持ちと。
失うかもしれない恐怖。
その両方が滲んでいた。
ギルバート様が、無理に笑みを作る。
「まぁ、俺は何となく分かってたけどな」
「兄様……」
「お前、昔から異常に強かったし」
その言葉に、エドワード様も苦笑しながら頷く。
「確かに。普通じゃなかった」
だが二人とも、目は赤かった。
姉君たちは相変わらず無言。
だが、その表情には複雑な感情が浮かんでいた。
食事の後、エレナ様は自室へ戻られた。
私は当然、その後ろをついていく。
部屋へ入ると。
エレナ様はゆっくり姿見の前へ立った。
白銀の髪。
見慣れた顔。
だが、まるで別人のようにも見える。
エレナ様は鏡へ触れるように、そっと髪を掴んだ。
「……変な感じ」
小さく呟く。
私は何と声をかければいいのか分からなかった。
勇者。
その言葉の重さを、知っている。
だから軽々しい励ましは言えない。
沈黙。
静かな部屋。
窓の外では、祝福の鐘がまだ鳴っていた。
街は盛り上がっているのだろう。
だが、この部屋だけは違った。
すると。
エレナ様が、小さな声で言った。
「……リリサ」
「はい」
「私……勇者として、生きていけるのかな……」
私は答えられなかった。
答えなど、持っていなかった。
十五歳の誕生日。
それは本来、祝福の日のはずだった。
だがその日。
ブレイジング家にあったのは――。
喜びよりも。
未来への不安だった。
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今回は2話同時更新です。
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