その8 「氷炎の魔法使い③」
ブレイジング伯爵家のメイドとして雇われて、三ヶ月が経過した。
雇われたあの日、旦那様と三つの約束を交わした。
一、私の過去は隠すこと。
二、側付きメイド兼ボディガードとして仕えること。
三、エレナのために尽くすこと。
私は迷わずすべて承諾した。
「問題ありません。お任せください」
エレナ様を見た時の自分の直感を信じたからだ。
それからすぐに、侍女訓練が始まった。
メイド長のもとで礼儀作法、所作、配膳、洗濯、裁縫、帳簿の読み方まで叩き込まれたが――
「……あなた、本当に元冒険者?」
メイド長が目を丸くした。
私は一週間で一通りを覚えてしまったのだ。
粗野な冒険者だから、時間がかかるとでも思われていたのだろう。
だが、物心つく前の施設での生活。
そして、九十五歳の師匠との暮らし。
あれに比べれば、屋敷の仕事は整いすぎていた。
掃除は戦場より楽だし、礼儀は師匠の機嫌より単純だ。
旦那様も奥様も、メイド長も驚いていた。
「これなら、エレナを任せられるわね」
ニコニコした奥様が肩を抱いてきた。
奥様とは何故か気が合うのだが、それは奥様が元騎士で、戦いの最前線にいたことがあるからだと、後からわかった。
そして、正式にエレナ様の側付きとなった。
「本日より、エレナ様のお側に仕えます、リリサと申します。未熟者ではございますが、どうかよろしくお願い申し上げます」
おとなしいと聞いていたが――
半分だけ正しく、半分は違った。
エレナ様は、確かに人見知りでおとなしい。
だが私がいると違う。
好奇心の塊だった。
屋敷の廊下を走る。
庭を駆ける。
知らない花を見つければ近づき、虫を見つければしゃがみ込む。
「リリサ、これあげる」
初めてもらったプレゼントは、ダンゴムシだった。
「リリサ、あっちにいこう」
そう私に伝えると、サササッと走っていく。
子供の体力は底なしだ。
Aランク冒険者の私が本気で追わねば見失う。
子供の面倒は、魔物と戦うより体力がいる。
そして目を離すと、すぐにいなくなる。
ボディガードとしては冷や汗ものだ。
「エレナ様、お待ち下さい!」
子供からは目を離せない。
そう実感する日々が続いていた。
そして、半年が経過した。
この半年間は、穏やかな日々が続いた。
昨日、エレナ様は五歳になられた。
今日は領内の丘へ出かける。
緑豊かなその場所は、子供を走らせるにはちょうどいい。
エレナ様は走り回るのが好きだ。
「昼食後は、外へお出掛けしましょう」
屋敷での昼食後、馬車で外出した。
エレナ様は外出の日はいつも機嫌がいい。
綺麗な景色や街並みを見るのが好きなようだ。
今日は特にご機嫌で、自作の鼻歌まで歌っている。
音楽が好きなのだろうか。
丘へ到着すると、待ちきれないように駆け出した。
「リリサ、いくよ!」
御者を休ませ、私はその後を追う。
色とりどりの花が咲き誇り、領民たちも多く訪れている。
領主家の三女と知っているのだろう。
皆、微笑みながら声をかける。
「ごきげんよう!」
「ごきげんよう!」
「ごきげんよう!」
エレナ様は元気よく返し、また走る。
この半年で克服したのか、人との会話ができるようになっていた。
人見知りとおとなしいとは何だったのか。
だが、そのとき。
突然、足を止めた。
丘の上。
空を見上げている。
今日は二陽日。
数年に一度あるかないか、太陽が二つ並ぶ日。
青空に、並ぶ淡い光。
エレナ様にとっては初めて外で見る二つの太陽かもしれない。
見惚れているのだろうか。
だが、私はその横顔を見た。
いつもと違う。
無邪気さが、消えていた。
まるで、何かを思い出したような。
「エレナ様、如何なさいましたか?」
声をかける。
「……ん」
返事はある。
だが、どこか遠い。
その後から様子がおかしくなった。
落ち着かない。
視線が忙しない。
周囲を警戒するように見る。
……トイレに行きたいのだろうか?
「ほら……早く帰ろう」
「えっ!?」
エレナ様から、帰ることを提案してきた。
私から帰りますよと伝えると、普段なら「まだ遊ぶ!」と駄々をこねる。
初めて自分から帰ると言い出した。
それが、不安だった。
そして、自分を落ち着かせるために、私の名前を聞いてきた。
変な感じだが、私はそれに優しく答える。
「私の名はリリサ。半年前より、エレナ様にお仕えしております」
それを聞いたエレナ様は、何か少しだけ安心したようだった。
なんだ?
馬車の中でも外を見続ける。
まるで、知らない世界に放り込まれた者のように。
屋敷へ戻ると、執事とメイドたちが出迎えた。
エレナ様は、一瞬、彼らを観察した。
そして、どこかよそよそしく屋敷へ入っていく。
私は執事と目を合わせた。
勘の鋭い執事は何か察したようだ。
私は首を横に振った。
互いに、違和感を覚えている。
屋敷へ入ると、突然、私の腕を掴んだ。
「……リリサ」
甘えるように、しかしどこか必死に。
「疲れたから、抱っこして」
私は何も言わず抱き上げる。
その体は、わずかに震えていた。
「今日はたくさん歩かれましたものね」
部屋に連れていくまでの間も、屋敷を観察しているようだった。
それから、部屋に入っても落ち着かない。
歩く。
立ち止まる。
また歩く。
だが私は顔に出さない。
子供の頃から周りの変化には敏感だったが、そう言う時は黙って行動していた。
私は静かに問いかける。
「エレナ様。何かございましたか?」
そのとき。
エレナ様は、ゆっくりと私を見上げた。
その目は、五歳の子供の目ではなかった。
深い。
底がある。
そして――どこか諦めを含んでいる。
「いや、大丈夫だよ」
エレナ様は、ぎこちない笑みを浮かべた。
その“よ”の発音が、わずかに大人びている。
私は気づかないふりをした。
「では、少し温かい紅茶をお持ちしますね」
いつも通りの声音で告げ、私は湯を注ぐ。
茶葉が開き、甘い香りが立ちのぼる。
背後に気配を感じながら。
静かすぎる。
振り返らずともわかる。
エレナ様はソファに座り、難しい顔をしている。
あの顔は知っている。
何か企んでいるときの顔だ。
だが、これまでとは違う。
観察。
整理。
……まるで、盤面を読むような。
ここまでの出来事が、すべて彼女の中で整理されているようだった。
私はカップを差し出す。
「どうぞ、エレナ様」
「ありがとう」
――ありがとう?
いつもは「ありがと」だ。
小さな違い。
だが、私の胸に小さな棘が刺さる。
エレナ様は両手でカップを持ち、慎重に口をつけた。
一口。
二口。
そして、まぶたが落ちる。
疲れているのか。
だが、こくりと首が落ちかけた瞬間。
ぶん、と首を振った。
必死に目を開こうとする。
眠ることを拒むように。
私は何も言わない。
不安を見せない。
ただ、そっと隣に座った。
すると。
小さな手が、私の袖を掴んだ。
強く。
まるで、離れないでほしいと言わんばかりに。
この日を境に、エレナ様が少し変わっていく。
それから数日が経過した。
エレナ様は、以前よりも落ち着きがなくなった。
廊下を歩いても、角で一度立ち止まり、左右を確認する。
窓辺では、外を眺めるのではなく、距離を測るように見る。
食事中も、周囲の会話を拾っている。
五歳の子供がする視線ではない。
だが、不思議なことに私からは離れない。
以前は好奇心のままに走り回っていたのに。
今は、必ず私の手の届く範囲にいる。
夜も。
「リリサ、ここにいて」
そう言って、私の袖を掴んだまま眠る。
(……私が、安心材料なのか)
それならば、それでいい。
私は守ると決めた。
理由などいらない。
だが。
時折、彼女は私をじっと見る。
観察するように。
そして、小さく安堵した顔をする。
こんなところは、以前と変わらない。
ある夜。
灯りを落とした後。
寝息が安定するまで、私はいつも通り部屋の隅で控えていた。
窓から差す月明かりが、白いカーテンを淡く揺らしている。
その静寂の中で。
小さな声が聞こえた。
「……私は、どうしたらいいんだ」
エレナ様の声だ。
だが、エレナ様のものではなかった。
幼い喉から出ているはずなのに、響きが違う。
迷いと、焦燥と、責任を背負った声。
五歳の子供が持つはずのない重み。
私は、目を閉じたまま聞こえなかったふりをした。
だが、その言葉は胸に残った。
どうしたらいい。
それは、誰かに助けを求める言葉ではない。
自分で答えを出そうとする者の言葉だ。
あの日。
二陽の空の下。
太陽が二つ並ぶ、数年に一度しかない特別な日。
丘の上で空を見上げていたあの瞬間。
エレナ様の中で、何かが目覚めたのだろうか。
女神様が関わっているのか。
祝福か。
それとも――試練か。
私には何もわからない。
ただ。
変わったのは事実だ。
寝息が深くなった頃を見計らい、私は立ち上がった。
静かにベッドの傍へ歩み寄る。
「何を隠しているのですか、エレナ様」
額に、そっと手を当てる。
魔力の流れを読む。
魔法が使えぬ者であっても、体内に取り込んだ魔素は微弱ながら魔力へと変換される。
それが生命の循環。
だが――
エレナ様のそれは、微弱ではなかった。
深い。
静かな湖のように、澄んでいる。
だが底が見えない。
ゆらり、と奥で何かが揺れる。
「……これは」
逸材、などという言葉では足りない。
まだ微弱だが、磨けば輝くという類ではない。
これは、目覚めれば世界を揺るがす類の魔力だ。
私は息を整えた。
ただ、覚悟だけが生まれる。
私はまだ知らない。
この子が何者になるのか。
何を背負い、何を選ぶのか。
だが、一つだけ。
私はこの子を守る。
たとえ世界が敵になろうとも。
氷炎は、守るための魔法。
師匠が私に託した意味を、今なら少しだけ理解できる。
私は、エレナ様の手をそっと握った。
小さな指が、無意識に握り返してくる。
今は、それだけで十分だった。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は5/21木曜日22時に公開予定です。
引き続き宜しくお願い申し上げます。
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