その6 「氷炎の魔法使い①」
目の前にいる方は、私が十年仕えた貴族のお嬢様だった方。
あの頃の記憶が鮮明に思い出される。
笑って、怒って、泣いて、転んで。
魔法の制御に失敗して屋敷の中庭の木々を吹き飛ばし、涙目で私の裾を掴んでいた。
そして、勇者として旅立つエレナ様。
もう二度と会えない、そう思っていた――。
けれど今、こうして再びその姿を目にしている。
……私は、まだ震えている。
そして、私は思い出す。
すべての始まりを。
戦王歴1015年3月頃。
五歳の私に、名前はなかった。
呼ばれていたのは、番号。
113番。
それが私だった。
そこはホームと呼ばれていたけれど、実態は、魔力の高いコドモを集めるための檻だった。
高い石壁。
鉄格子の窓。
常に漂う薬品の匂い。
毎朝、決まった時間に配られる苦い液体。
飲まなければ殴られた。
「魔力増幅のためだ」と大人たちは言っていた。
けれど私は知っていた。
あれは身体を壊す薬だ。
ホームにはルームがあり、ルームには十人のコドモが一緒に過ごしていた。
翌日、同じ部屋のコドモがいなくなることがあった。
泣き声がして、
扉が開いて、
静かになって、
そして戻ってこない。
名前もなく、
墓もなく、
ただ「減る」。
そんな場所だった。
掃除も洗濯も料理も、自分でやった。
それは「自立心を育てるため」ではない。
管理コスト削減のためだ。
私は感情を捨てることを覚えた。
泣けば目を付けられる。
怒れば罰を受ける。
笑えば壊される。
だから、無表情でいることを選んだ。
113番は、ただ生きる人形だった。
ある暑い日。
あの日は、空気が違った。
慌ただしく、白い制服の大人たちが走り回っていた。
「騎士団だ」
その言葉の意味はわからなかったけれど、大人たちが焦っているのは理解できた。
三つ鐘が鳴る頃。
突然、叫び声が上がる。
扉が破られる音。
怒号。
金属のぶつかる音。
騎士団だった。
子供たちは次々と保護されていった。
泣きながら外へ走る子。
怯えて動けない子。
笑いながら倒れる大人。
世界が崩れていた。
私は、逃げ遅れた。
腕を掴まれ、裏口へ引きずられる。
「商品が一体残っていたか」
「こいつは1番のコドモだ。」
「国外に出せばまだ売れる」
そんな言葉が聞こえた。
私は抵抗しなかった。
どうせ死ぬ。
それだけのこと。
そう思っていた。
「おやおや、まだ生き残りがいるでねぇかい」
その声は、しわがれた老婆のものだった。
けれど、空気が変わった。
「フリーダ様、子供が人質となっております!」
騎士の焦った声。
「まぁ私に任せんさい」
杖が掲げられた瞬間。
――寒い。
空気が凍る音を、私は初めて聞いた。
パキ、パキ、と。
見えない何かがひび割れる。
私を抱えていた男の吐息が白くなる。
次の瞬間。
「氷炎」
それは、静かな宣告だった。
燃えながら凍った。
人間だけが。
施設の大人たちだけが、瞬時に氷像へと変わった。
だが、燃えていた。
氷なのに、外側は青色の炎。
矛盾した色と冷気。
「……きれい」
それが「氷炎」だった。
抱えていた腕が砕け、私は地面に落ちた。
私の下の地面だけ、温度が違った。
制御されている。
騎士の男が駆け寄り、
私を抱き上げる。
「フリーダ様!子供確保!」
「わかっとる!声が大きいわい」
「は、失礼――」
「だからうるさい」
「……失礼しました」
そのやり取りが、なぜかおかしくて。
私は、笑った。
何年ぶりだったか、覚えていない。
「嬢ちゃん、名前は?」
老婆が私を覗き込む。
深い皺。
けれど目は鋭い。
私は答えた。
「……113」
「番号か」
少しだけ、眉が動いた。
「113……113……」
彼女はしばらく考えてから、言った。
「あんたの名前は、リリサだ」
世界が止まった。
「今日からリリサと名乗りな!」
リリサ。
舌の上で転がす。
「……リリサ……リリサ……」
音が、あたたかい。
「うん、私はリリサ!」
胸の奥が熱くなった。
私は、番号じゃない。
私は、人間だ。
それが、私の誕生日だった。
その日から私は、氷炎の魔導士――フリーダ様の弟子になった。
厳しくて、
口が悪くて、
でも誰より優しかった。
あの方に拾われなければ、私は魔法の道具で終わっていた。
フリーダ様に拾われて、五年が経過した。
私は十歳になっていた。
私は正式な弟子として、この屋敷で暮らしていた。
あの日、私を拾い上げたあの騎士は、今もフリーダ様の側付きとして仕えている。
朝は夜明け前に起きる。
薪を割り、水を汲み、食事を作る。
掃除、洗濯、買い出し。
たまに寄り道して、吟遊詩人や紙芝居を見ていた。
家のことはすべて私の役目だった。
フリーダ様はもう九十五歳。
国の重鎮でありながら、辺境の小さな屋敷で静かに暮らしている。
口は悪い。
生活も質素どころか荒れている。
けれど、魔法の修行だけは、手を抜かなかった。
目的はひとつ。
彼女の魔法――『氷炎』を継ぐため。
魔法はイメージだと、何度も言われた。
炎を思い描け。
氷を思い描け。
熱と冷の矛盾を、同時に抱け。
けれど、私に扱えるのは普通の火属性魔法だけだった。
火球。
氷魔法も使えないことはない。
だが、それはただの氷だ。
凍りつく炎。
言葉なら言える。
けれど。
凍る炎など、どうすれば想像できる?
「焦るな、リリサ」
しわだらけの手が、私の頭を小突く。
「魔法は力じゃない。心の在り方だ」
それでも。
私は早く恩を返したかった。
魔法の道具として売られかけた私に、名前と家族をくれた人。
生きる意味をくれた人。
氷炎の使い手になって、この人を喜ばせたかった。
十一歳になる頃だった。
あの日は、空気がやけに静かだった。
屋敷の裏庭で薪を割っていたとき、背後に立つ気配に気づくのが一瞬遅れた。
布で口を塞がれ、意識が遠のく。
鼻につく薬品の匂い。
――この匂いを、私は知っている。
目を覚ましたとき、冷たい石床の上だった。
湿った空気。
錆びた鉄格子。
かつての記憶が、胸の奥をひっかいた。
「久しぶりだな、最高傑作」
暗がりの中から現れた男は、十年前よりも老け、やつれ、目だけが異様に光っていた。
「たまたまお前を見つけてな」
あの施設の残党だった。
「お前は子ども達の中で一番出来のいい実験体だったからな。お前を売った金で俺は他国で同じことをやる」
ぶつぶつと呟く声は理屈を失い、ただ執着だけが残っている。
よくも、まだ生きていたものだ。
怒りより先に、冷たい嫌悪が込み上げる。
だがその直後、扉が吹き飛んだ。
鋼の音。
怒号。
フリーダ師匠付きの騎士たちが雪崩れ込んできた。
助かった――そう思った。
だが男は狂ったように笑った。
「見せてやる……俺の力をなぁ!」
建物の奥から、鉄鎖の軋む音が響いた。
現れたのは、角が異様に長い魔人。
どうやって捕らえたのかは分からない。
だが、長く拘束されていたのだろう。
怒りと飢えで正気を失っている。
咆哮。
空気が震えた。
騎士たちが斬りかかる。
だが、爪の一振りで吹き飛ばされる。
私は初めて魔族を見た。
あれは私たちと同じ生き物ではないと感じた。
恐怖が、全身を縛る。
そのとき、杖をつく足音が響いた。
「魔人の相手なんて、久々だねぇ」
フリーダ師匠だった。
背は曲がり、杖をつかないと歩けない。
でも、その目だけは、五年前に見た本気の光を宿していた。
「――氷炎」
青い火が、魔人にまとわりついた。
燃えているのに、凍りつく。
魔人が暴れるたび、炎は勢いを増す。
怒りを燃料にするかのように。
だが。
炎の回りが、わずかに鈍い。
師匠の呼吸が荒い。
胸を押さえている。
魔人が師匠へと突進する。
「っ…こんな時に」
「フリーダ様!」
騎士の男が身を投げ出す。
だが衝撃に耐えきれず、二人とも壁へ叩きつけられた。
動かない。
「フリーダ様!」
叫んだ瞬間、魔人の目が私を捉えた。
獲物を見る目。
「ひ……っ」
情けない声が喉から漏れる。
足が動かない。
頭が真っ白になる。
「リリサ!逃げるな!」
師匠の声。
だが、体は凍りついたままだ。
「魔法を使いな!」
その一喝で、意識が戻る。
私は震える手で魔力を練った。
火球――
氷槍――
叩き込む。
爆炎。
氷の破片。
だが、魔人の皮膚をわずかに焦がすだけ。
絶望が迫る。
「っ……リリサ」
師匠が、最後の力を振り絞るように杖を掲げた。
再び氷炎が灯る。
だがその軌道は――魔人ではない。
私の、束ねた髪の一房。
青い火が、触れた。
熱くない。
冷たい。
けれど、燃えている。
矛盾した感覚が、頭ではなく――胸の奥に響いた。
「感じろ!私もそうだった」
その声は、命の叫びだった。
怒りではない。
憎しみでもない。
フリーダ師匠を守りたいという想いが、凍るほど研ぎ澄まされたとき。
炎は、青くなる。
私は怖かった。
でも、師匠を守りたい。
あの人に、笑ってほしい。
その一心だけを握り締める。
胸の奥が、凍りつくほど静かになる。
その中心で、青い火が灯った。
「――氷炎!」
魔人に向けて、私は魔法を放った。
青い炎が、一直線に駆け魔人を包み込んだ。
それが魔人を包み込んだ。
青い炎が、静かに――しかし確実に広がっていく。
轟々と燃え上がるわけではない。
むしろ、音が吸い込まれていくようだった。
魔人は咆哮をあげる。
だがその声は、凍てついた空気に閉じ込められ、霜となって砕け散った。
皮膚が焼ける。
しかし同時に凍りつく。
炎に包まれているのに、白い霧が立ち昇る。
存在そのものを静かに封じ、崩し、終わらせる魔法。
誘拐した男も巻き込まれていた。
「や、やめ……!」
彼の腕が凍り、そこから火が灯る。
苦悶の声が、やがて凍りつき、そして燃え尽きた。
氷炎は暴れない。
ただ、包み込み、終わらせる。
やがて魔人の巨体は、氷の像のように固まり――
そのまま青い光の粒となって、崩れ落ちた。
凍てつき、燃え尽くした。
跡形もなく。
静寂が訪れる。
私は、膝から崩れ落ちた。
そして、魔人を倒した。
でも。
「フリーダ師匠……!」
私は駆け寄った。
倒れている騎士の男は気絶しているだけのようだった。
けれど師匠は、血が吐いて倒れていた。
呼吸は、浅い。
「師匠……」
視界が滲む。
私は子供みたいに泣いていた。
「リリサ……」
その声は、かすれているのに、優しかった。
「よく……やったわね」
「師匠……!」
「あれが……氷炎の魔法」
彼女はうっすらと笑う。
「守るための魔法だよ」
その言葉は、私の胸に深く沈んだ。
「感じ取れただろう?」
「……はい」
涙で前が見えない。
「師匠のおかげです」
「……あんたには才能があった」
息が、ひどく荒い。
「だから……使えるようになると思った」
私は必死に首を振る。
「師匠、誰か呼んできま――」
「私はもう助からん」
その声は、不思議なくらい穏やかだった。
「最近、体がみるみる弱ってね」
「大事な時に……魔力が、うまく練れなかった」
だから、さっきの氷炎は弱かった。
あれは本来の力じゃなかった。
それでも、あんなにも美しかった。
「リリサ」
師匠の手が、震えながら私の頬に触れる。
冷たい。
けれど温かい。
「氷炎の魔法は……確かに渡した」
「これからは……あんたが、氷炎の魔導士さね」
「師匠……死なないで……」
子供のように縋る私に、
師匠は、ほんの少しだけ強い目を向けた。
「あんたは……生きな」
「長生きするんだよ」
守るための魔法。
それが氷炎の魔法。
「……師匠……?」
返事はなかった。
手が、静かに落ちる。
青い炎の残滓が、ふわりと舞い上がり――
そして消えた。
私は泣き叫び続けた。
この日、私は弟子ではなく、氷炎の魔法使いになった。
そして同時に――
大事な家族を失った。
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