その5 「魔界で出会ったヒューマンの女」
――見つかった。
木の陰。
風下。
呼吸も殺していた。
だが、転倒しそうな子供を見て、声を出してしまった。
逃げることは可能だ。
だが、それはエレナ様たちの存在を匂わせる。
影は状況を最小の波で収めるべき存在。
どうする。
どうすれば――。
「お姉さんもヒューマン?」
「え!?」
思考が止まる。
「やっぱり、ヒューマンだ!」
灰色の肌の少女が、ぱっと顔を輝かせた。
「お姉さんも連れてこられたの?」
……連れてこられた?
その言葉の意味を理解するまで、一瞬かかった。
私は、ゆっくりと木の陰から姿を現す。
敵意は見せない。
武器も抜かない。
声を低く、穏やかに。
「……あなたたちは、ヒューマンがわかるのですか?」
私はコミュニケーションを取ることを選択した。
これが、エレナ様の役に立てると思ったからだ。
「そうだよ?」
「村の人はみんな知ってるよ?」
二人は同時に首をかしげた。
短い角。
縦に裂けた瞳孔。
灰色の肌。
間違いなく、魔界の住人。
だが、その仕草は、あまりにも普通の子供だった。
「この村はね、地上人族は大歓迎なんだよ!」
地上人族……人族をそう呼んでいるのだろうか。
「怖く…ないの?」
私は思わず問い返す。
「え?」
「どうして?」
本気で不思議そうな顔。
私は慎重に言葉を選ぶ。
「……私たちはこんなに外見も違うし、地上人族と魔族は、戦争をしていると聞いています」
「魔族も外見はみんな違うよ?」
その言葉に一瞬、私はたじろいだ。
こんな澄んだ瞳で、この言葉な強烈だ。
「それでも、戦争してるのよ?」
少年がぽんと手を打つ。
「知ってるよ!大人たちが言ってた!」
「でもねー、うちの村はちがうよ?」
違う?
何が?
胸の奥が、わずかにざわつく。
問いかけようとしたその時だった。
「マイ!」
「シン!」
鋭い声。
森の奥から、空気を裂くように届く。
――大人。
私は反射的に後退する。
だが、遅かった。
空気が凍った。
「氷縛」
視界の端で、青白い魔法が閃く。
速い。
速すぎる。
油断はしていなかった。
レーナよりも、明らかに速い魔法だ。
「し――」
言い切る前に、足元から氷が這い上がる。
冷気が爆ぜ、脚を拘束する。
氷の鎖が絡みつき、動きを奪う。
「っく……!」
振りほどけない。
魔力の圧が、段違いだ。
息が白くなる。
次の瞬間、森を掻き分けて現れた影。
長い栗色の髪。
蒼い瞳。
非常に綺麗な整った顔立ち。
……どう見ても、人族の女性。
「……二人とも無事!?」
必死の形相で駆け寄る。
「あ、リリサお姉ちゃん」
「リリ姉!」
子供たちは無邪気に駆け寄る。
彼女――リリサと呼ばれた女性は、二人を強く抱き寄せた。
「もう!子供だけで森に入ったらだめって、あれだけ言われてるでしょ!?」
涙目で叱る声。
「うわぁぁぁん、ごめんなさい」
「すごい音がしてたから見たかったんだもん!」
「はいはい……村へ帰るわよ」
その声は、完全に姉のものだった。
魔族の村。
魔族の子供。
それを叱る人族の女性。
理解が追いつかない。
「あのお姉さんは……」
「大丈夫です、私が対応しますから」
子供たちは村の魔族に手を引かれ、森の奥へ戻っていく。
足音が遠ざかる。
残るのは、私と彼女。
氷は解かれない。
魔法の精度。
制御。
持続。
どれも一級。
「で?」
彼女がゆっくりと振り向く。
蒼い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「あなたは何者ですか?」
冷たい声。
「見たところ、ヒュマーンのようですが」
だが、殺気はない。
観察している。
測っている。
値踏みしている。
この人――強い。
戦ったら負ける。
本能が告げる。
そして、もう一つ。
この人は、どう見ても人族だ。
「キナ村のスパイ――では無さそうですね」
静かに、だが確信を含んだ声だった。
キナ村。
聞いたことのない単語。
頭の中で素早く反芻する。
村の名か。勢力か。敵対関係にある集落の可能性が高い。
……情報源。
私はわずかに視線を揺らし、戸惑いを装った。
「私は、最近この魔界にやってきました……あなた、ヒューマンですよね!?」
少し声を上ずらせる。
焦りを滲ませる。
何も知らない外来者の演技。
やりすぎただろうか、と一瞬だけ冷静な自分が囁く。
だが、引くわけにはいかない。
リリサは私をまっすぐ見据えた。
冷たいが、どこか人の温度を残した瞳。
「ええ、私はヒューマンです」
その言葉は、迷いなく。
「あなたは、どうやってここに来たのですか?」
問いは穏やか。
しかし、刃のように鋭い。
試されている。
私は一拍だけ呼吸を置き、視線を伏せた。
「……何者かに、連れて来られました」
半分は真実。
だが、核心は伏せる。
その瞬間、空気が変わった。
「!」
殺気。
反射的に身体が動く。
氷縛を内側から魔力で圧をかけて破壊する。
砕け散る氷片。
私はその反動を利用し、後方の木の枝へ跳躍した。
着地と同時に、彼女の声が森に響く。
「それは嘘ね……」
低い。
先ほどまでとは明らかに違う声音。
「新しい魔王……血も涙もない大魔王は、人族を魔界には連れて来ない」
――しまった。
魔王。
大魔王。
方針の違い?
こちらには、その情報がない。
わずかな言葉の齟齬。
それが、決定打になった。
私は枝の上で体勢を整えながら、内心で歯を食いしばる。
情報不足。
不用意な設定。
影として、致命的。
「あなた……ここで倒させてもらう」
宣告だった。
次の瞬間、彼女の周囲の魔力が蒼く輝く。
速い。
詠唱がない。
空気が凍りつく。
リリサの魔法が、一直線に私へと放たれた。
――アイが単独行動に移って、数時間。
私たちは、レーナが即席で作った地下室の中で休んでいた。
地面をくり抜き、かまくら状に補強された空間。
壁面は魔力で圧縮され、外から見ればただの柔らかい土にしか見えない。
簡易とはいえ、さすがAランク魔法使いだ。
薄暗い室内。
赤茶色の土の匂いがわずかに漂う。
「暇ねぇー」
レーナがごろんと転がりながら天井を見上げる。
「最近、魔法使いすぎたから休んどけ」
私は腕を組み、壁にもたれて言った。
「でも昨日もゆっくり寝たから、もう眠くないのよ」
「目を瞑るだけでも違うぞ。魔力の巡りを落ち着かせるんだ」
「レーナさん、瞑想とか苦手ですもんね」
ランは目を閉じたまま、寝転んでいる。
呼吸が一定で深い。完全に休息モードだ。
「暇なんだもん……」
子供のように足をばたつかせるレーナ。
緊張と緩和。
魔界という異様な土地にいるというのに、この空気は不思議と穏やかだった。
――そのとき。
ドォォォォォン!
地面の奥から響くような重低音。
地下室の天井が震え、パラパラと土の欠片が舞い落ちる。
私は即座に立ち上がった。
「な、なんだ?」
ランも跳ね起きる。
「近いわね」
レーナの表情が一瞬で引き締まる。
さっきまでの退屈顔は消えていた。
「ここ、壊れたりしませんよね?」
「長時間はもたないかもね」
また――
ドォォォォォン!
今度は、さらに大きい。
空気が震える。
衝撃波が土壁を叩く。
私は判断した。
「すぐに出よう。レーナ!」
「はいよ!」
レーナが杖を掲げる。
土壁が円形に溶けるように開き、地上へと続く縦穴が現れる。
私たちは順に跳躍した。
外は、薄暗くなりつつある。
紫と深紅の葉が、暗く沈み始めている。
森の空気がざわついていた。
ドォォォォォン!
音の発生源は、そう遠くない。
私は顔を上げ、方向を定める。
「あっちだ!」
ランが鼻をひくつかせる。
「あの方向、たぶん……」
言葉を濁す。
「……あの子!」
レーナが顔をしかめた。
「隠密なのに目立って、何してんのよ!」
爆発音。
魔力の衝突。
あれは明らかに戦闘だ。
しかも、かなり高位魔法のぶつかり合い。
「私たちも向かおう」
躊躇はない。
仲間が単独で戦っている。
それだけで十分だ。
「了解!」
ランが地を蹴る。
「行くわよ!」
レーナも続く。
私は最後に空を見上げた。
嫌な予感が、胸の奥に沈んでいる。
「アイ、無事でいろ」
私たち三人は、爆音の響く方向へ全力で駆け出した。
「はぁ、はぁ、はぁ」
氷魔法の達人だ。
目の前の女――リリサ。
氷を操る技量が、異常。
いや、“上手い”などという言葉では足りない。
魔法を発動しているのではない。
氷が、彼女の意志そのものになっている。
時折混ぜられる火の魔法も強力だ。
だが――氷だけは、明らかに格が違う。
レーナの氷よりも、鋭く、速く、そして冷たい。
「氷槍舞」
静かな言葉。
その瞬間、空気が裂けた。
無数の氷槍が、四方八方から私を取り囲む。
一本一本が、透明度の高い刃。
森の紫の光を反射して、妖しく煌めく。
「くっ!」
跳ぶ。
捻る。
木の幹を蹴る。
だが、避けるのが精一杯だ。
氷槍は無作為に動いているわけではない。
全てが、計算されている。
一つ一つを、彼女が操作している。
私の退路を塞ぐように。
逃げ道を狭めるように。
――追い込まれている。
「火炎弾」
氷の間隙を縫うように、火の球が放たれる。
氷と火。
相反するはずの属性が、同時に私を殺しにくる。
「っ――!」
横へ跳躍。
次の瞬間。
ドォォォォォン!
爆発。
衝撃波が森を揺らし、赤い土が舞い上がる。
私は転がるように着地した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肺が焼けるように痛い。
ぎりぎりだ。
本当に、ぎりぎり。
「避けるのが上手いですね」
リリサは、涼しい顔で言う。
息一つ乱れていない。
そして、冷たい目。
氷の女という表現が似合う。
「これでも……速さには自信があります」
強がりではない。
だが。
速さだけでは、詰む。
「なら、これはどうでしょうか」
彼女の周囲の空気が、パキパキと音を立て始める。
霜が地面を這い、黒い幹を白く染めていく。
「氷炎」
世界が、止まった。
私の周囲の空気が凍りつく。
呼吸をするたび、肺の中まで冷気が刺さる。
そして、周囲の木々が、碧く燃え上がった。
炎。
だが、熱くない。
ゆらゆらと揺れる蒼白い炎が、温度を奪う。
触れれば凍る。
燃えているのに、凍結する。
「氷の炎……」
脳裏に、郷で子供の頃に見た紙芝居がよぎる。
幼い頃、村の噴水の前で見た物語。
伝説の冒険者。
確か、題名は――
「氷炎の魔導士……」
私の声に、リリサがわずかに目を細めた。
「よく知っていますね」
だが、目の前の彼女は二十代後半にしか見えない。
伝説と呼ばれるほどの存在が、こんな若さのはずがない。
氷炎が円を描くように広がる。
地面が凍り、空間が封鎖されていく。
退路が、完全に塞がれた。
「どうする? 逃げ場は無くなりましたよ」
静かな声。
追い詰められているのは、明らかに私だ。
冷気が肌を刺す。
魔力が削られていく。
「っ――!」
どうする。
どう切り抜ける。
判断を一つでも誤れば、終わる。
私は歯を食いしばった。
「――エレナ様、すみません」
そう呟いた瞬間だった。
死を覚悟したわけではない。
だが、ここで捕らえられれば、皆様に迷惑がかかる。
その悔しさが、喉を締めつけた。
その時――
「火炎弾!」
「火球!」
ドォォォン!!
轟音とともに、私の目の前へ二つの火球が叩き込まれた。
氷炎に衝突し、蒼い炎とぶつかり合う。
相反する魔力が激しく弾け、白い蒸気が爆ぜるように広がった。
視界が、一瞬で真っ白になる。
凍りついていた空気が、わずかに緩む。
そして。
蒸気の向こうに、一人の影が立っていた。
金髪が揺れ、構えた剣が赤く煌めく。
「アイ、大丈夫か?」
その声を聞いた瞬間。
胸の奥に溜まっていた緊張が、一気にほどけた。
「エレナ様!」
思わず、声が震える。
その背中は、迷いなく私の前に立っている。
守るように。
庇うように。
右側には、杖を構えたレーナ。
左には、双剣を抜いたラン。
三人が、自然な陣形で私を囲む。
「あんた、隠密得意とか言ってたのに!」
レーナが叫ぶ。だがその声は、どこか安心を含んでいた。
「す、すみません……」
「……あれが、敵ですか?」
ランは低く問う。
その瞳はすでに戦闘の色に染まっている。
答えなければ。
状況を説明しなければ。
そう思った、その瞬間。
違和感に気づいた。
視線の先。
リリサ。
彼女は――動いていなかった。
氷炎は揺らめいたまま、追撃が来ない。
その顔は、驚愕に染まっている。
信じられないものを見るように。
そして。
「……エレナ様」
私の前の背中が、かすかに震えた。
答えるように、エレナ様が呟く。
「リリサ……?」
その声は、戦闘中とは思えないほど弱かった。
次の瞬間。
二人の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
蒼い炎の光を反射して、雫が煌めく。
エレナ様の背中越しに伝わる、震え。
リリサの唇が、かすかに動く。
凍りついていた森の空気が、別の意味で張り詰めた。
私は、ただ見つめることしかできなかった。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は5/17日曜日22時に公開予定です。
引き続き宜しくお願い申し上げます。
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