その2 「魔界の森」
魔界の森。
地上の森とはまるで違う。
木々の葉はすべて紫と深紅。
光を吸い込むような濃さで、揺れているのに艶がない。
幹は墨を塗ったように黒く、ところどころ亀裂の奥で赤い光が微かに瞬いている。
枝は鋭くねじれ、空へではなく、斜めに絡み合うように伸びている。
まるで森全体が互いを締めつけ合っているかのようだ。
土は赤茶色。
踏みしめると、ぬめりがある。
粘土のようで、しかし指で触れるとさらりと崩れる。
「……滑りそうだな」
足裏の感触を確かめながら、私は小声で言った。
「さて、魔物や動物はともかく、魔族に出くわさないように進もうと思う。レーナ、あの魔法いいか?」
レーナはすでに杖を軽く振っている。
「わかってるわよ。ていうかエレナ、あなたも使えるでしょ?」
「昨日の膂力変換魔法の疲れのせいか、体の調子が悪いんだよ」
全身の奥に、まだ鈍い痺れが残っている。
ゼロ地点突破の反動は思ったより重かったらしい。
レーナは一瞬だけ私を見て、すぐに表情を切り替えた。
「わかったわ、四人分の霧の魔法をかけるわね」
彼女は杖を掲げる。
空気がわずかに震え、周囲の光が歪む。
「はい!」
霧が、ふわりと立ち上った。
白というより、淡い灰色の膜。
それが私たちの身体にまとわりつく。
視界がわずかに揺れる。
森の色彩が、ほんの少しだけ滲んだ。
だが、不思議なことに仲間の姿ははっきりと見える。
瞳に同時にかけられた補助魔法が、互いの輪郭を保ってくれているのだ。
自分の手を見下ろす。
輪郭が曖昧になっている。
完全に消えているわけではない。
だが、少し離れれば、森の色に溶け込むだろう。
「……やっぱり便利だな」
「でしょ?」
レーナが得意げに胸を張る。
「魔法使いはこんなことができるんですね?」
アイが素直に感心したように呟く。
「ふふん、そうよ。私がいないとエレナの旅はここまで上手くいってないわ」
たしかにそうだ。
だが改めて言われると、少しだけ腹が立つ。
「エレナさんなら、レーナさんがいなくても上手くやってそうですけどね」
ランがくすりと笑いながら茶化す。
「はぁ!? じゃあランだけ魔法解いちゃうわよ!」
「いえいえ、大魔法使い様、すみませんでした」
ランが芝居がかった仕草で頭を下げる。
二人は小声で笑い合う。
森の異様な色彩の中、そのやり取りは妙に安心感をくれた。
アイはその様子を、少しだけ目を丸くして見つめている。
里長として、里の掟に縛られて育った彼女には、こういう軽口の応酬は新鮮なのだろう。
私はアイの肩を軽く叩いた。
「そのうち慣れるよ」
「……はい」
小さく頷く。
その声は、さっきより少し柔らかい。
私は森の奥を見つめた。
木々の間は薄暗い。
紫の葉が光を吸収し、赤い幹が不気味に沈んでいる。
遠くで、また低い唸り声。
空気が重い。
魔素が濃い。
だが――恐怖だけではない。
胸の奥に、奇妙な高揚がある。
未知だ。
誰も見たことのない世界。
「じゃあ、行こうか。未知の探検だ」
小声だが、意図的に明るく言う。
「おー!」
レーナとランが小さく拳を掲げた。
アイも、ほんの少しだけ手を握る。
私たちは隊列を組む。
先頭はラン。
嗅覚と聴覚で索敵。
その後ろに私。
レーナは中央で魔法の維持。
最後尾をアイが気配を遮断して歩いている。
一歩。
ぬめる土がわずかに沈む。
紫と赤の枝が揺れる。
魔界の森へ――
私たちは静かに、しかし確実に踏み込んでいった。
魔界の森の葉は、地上のそれとは明らかに違っていた。
指先でそっと触れる。
硬い。
革のようで、しかし刃物のような縁を持っている。
風に揺れているだけなのに、擦れ合う音が金属のように微かに響く。
「……これ、普通に当たったら切れるな」
「気をつけて、毒があるかもしれないわ」
「そうだな。ラン頼んだぞ」
私は枝を押さえながら呟く。
葉の縁は細かく鋭い。
油断して進めば、腕も頬も簡単に裂けるだろう。
できるだけ葉に触れないよう、体を低くして進む。
「できるだけ通りやすい道を進みますね」
ランが慎重に枝の間を選び、私たちはその軌道をなぞる。
「今のところは順調だな」
「そうね。魔物もいないし」
今のところ、魔物の襲撃はない。
だが、生き物はいる。
最初に見た紫毛のリス。
素早く幹を駆け上がり、青白い目でこちらを観察していた。
顔も体も黒く、尻尾のない猿のような生き物。
枝にぶら下がったまま、静かにこちらを睨み、音もなく森の奥へ消えた。
カラスのような鳥。
羽は濃い赤。
鳴き声は甲高く、三音で区切られた奇妙なリズムだった。
そして虫。
トンボのような透明な羽。
だが胴体は金属光沢の紫。
カブトムシに似た甲虫は、深紅の殻に黒い紋様を浮かべている。
派手だ。
だが、どこかで見た“形”だ。
「……完全に別物って感じでもないな」
私が呟くと、レーナが小さく頷いた。
「骨格や構造は似てる。生態系はわからないけど、基本の型は同じね」
ランも周囲を警戒しながら言う。
「獣としての動きは、地上のものと大差ありませんね」
つまり、まったく異質な生命ではない。
地上と似た進化の形態。
ただし、色と魔素の影響が濃い。
私はふと空を見上げた。
灰色の空。
中央に淡く輝く球体。
この世界にも、何かしらの秩序があるのを感じる。
食う者と食われる者。
森と土と水。
循環がある。
「進化……」
口に出してみる。
だが、すぐに首を振った。
我々人族は、女神アルカナが創造した存在だと伝承にある。
世界は神が作った。
生き物も神が作った。
そう教えられてきた。
ならば魔界も、誰かが作ったのか?
赤龍イグレイズが言っていた。
魔神の存在。
女神アルカナと同等の存在。
もしそれが事実なら。
この森も、この空も、この生き物も、その魔神が創造した世界なのではないか?
「エレナ、何考えてるの?」
レーナの声に我に返る。
「いや……この世界にも、創造主がいるのかなって思ってな」
「前に赤龍が話してた魔神のこと?」
「かもしれない」
レーナは少し考え込む。
「もしそうなら、地上と構造が似てるのも納得できるわね。同格の神が作ったなら、似た理が働いてもおかしくない」
アイが静かに口を開いた。
「魔神なんて者が存在する世界…」
彼女の声はどこか遠い。
ランは周囲を警戒しながら言う。
「でも、別世界ですが、どちらが上とか下とかない気がしますね」
その言葉に、私は少し救われた。
地上が正しくて、魔界が悪。
そう単純な話ではないのかもしれない。
ただ、理が違うだけ。
空気が重いのも。
葉が鋭いのも。
色が禍々しいのも。
それがこの世界の自然なのだ。
「こっちに来られてよかったのかも」
そう呟いた、そのとき。
森の奥で、地面がわずかに揺れた。
ズン、と低い振動。
四人同時に足を止める。
「……何か大きいのが動いた」
ランの声が低くなる。
近い。
だが、確実に存在する。
この森の何か。
私は静かに全員にストップをかけた。
「神が作った世界だろうが、進化した世界だろうが――」
小さく笑う。
「冒険者がやることは同じだ」
全員が頷く。
未知を見て、調べて、生きて帰る。
紫と深紅の森の奥。
そこにはまだ、未知が眠っている。
「進むぞ」
私たちは、その何か大きなものを調べることにした。
ズン、と再び低い振動が森を震わせた。
葉が擦れ合い、紫と深紅の波がゆらりと揺れる。
「あっちですね」
ランが鼻先を風上に向け、静かに指を差す。
「慎重に進もう。魔族か、上位の魔物か、まだわからない」
私が小声で言うと、
「ついに私の魔法が魔界で初めて火を吹く記念の日ね!」
レーナが杖を握りしめた。
アホ毛がぴょこん、と元気に跳ねる。
緊張感があるのかないのか。
「私も気になります」
アイはいつも通り静かだが、その目は好奇心に光っていた。
霧の魔法を維持したまま、私たちは音のした方へと進む。
やがて、木々の間がわずかに開けた。
そこには――小川が流れていた。
さらさらと音を立てる、水の流れ。
だが。
「水の色が……」
ランの声が止まる。
川は、赤い。
陽光を受けて、まるでワインのような深い赤色に輝いている。
「うげぇ、水が赤いわ」
レーナが顔をしかめる。
「まるで血のようですね」
アイが小さく呟く。
私は膝をつき、そっと手のひらを水に浸した。
ぬるり、とした感触はない。
さらりとしている。
手にすくい、匂いを嗅ぐ。
無臭。
鉄臭さもない。
「これ、飲めるのか?」
赤い液体が手のひらで揺れる。
レーナが腕を組む。
「水は探索の生命線よ。補給できるかどうかで生存率が変わる。……飲んでみるしかないわね」
「……お前、飲めよ」
「いやよ。万一毒でも、解毒魔法で治すから。お願い」
「自分で飲めよ」
「勇者なんだから耐性あるでしょ?」
「理屈が雑だぞ」
「……」
「……」
「……あ、何か飛んでるぞ」
「え?どこに――」
その隙を逃さず、私は素早くレーナの顎を軽く支え、手の水を流し込んだ。
「っ!飲ませたわね!?」
「さっき言われたことへのお返しだ」
レーナが目を見開く。
ごくり。
喉が鳴る。
そして。
「うっ……うっ……」
ふらり、と膝をつく。
「レ、レーナ!?」
「やばいです!解毒を――!」
ランとアイが慌てて駆け寄る。
数秒の沈黙。
レーナは顔を伏せたまま、肩を震わせる。
そして。
「……この水、めちゃくちゃ美味しいわ」
一瞬、森が静まり返った。
「なんだよ!!」
「うるさいわね!飲んでみればわかるわよ!」
半信半疑で、私も口に含む。
さらり、とした舌触り。
だが。
「……これは」
思わず目を見開いた。
まろやかだ。
ほんのり甘みがあり、香ばしい後味がある。
「水というより……麦茶だな」
「麦茶?はわからないけど、暑さに効く味ね」
ランも目を丸くする。
「……飲みやすいです」
よく見ると、真紅というより赤茶色。
光の屈折で濃く見えていただけらしい。
「魔素が溶け込んでるのかもしれないわね。鉄分とかじゃなくて、別の成分」
レーナが真面目に分析する。
「いけるなら補給しよう」
私は背負い袋から水筒を取り出す。
ドワーフ王国でヒルダさんに頼んで作ってもらった特注品。
軽量で、保温・保冷の魔法刻印入り。
「まさか魔界で最初に補給する水が赤茶色とはな」
苦笑しながら、水筒に注ぐ。
「レーナ、氷ちょっと」
「はいはい」
ぱきり、と小さな氷片が生成され、水筒の中に落ちる。
しゃらり、と心地よい音。
一口飲む。
「……冷やすとさらにうまい」
「何よそれ、ずるい」
ランも真似をする。
アイが少し遠慮がちに見ていた。
「それ……私もほしいです」
「あ、これあげるよ」
私は予備の水筒を差し出す。
「え、いいんですか?」
「探索は装備が命だ。仲間なら平等」
アイは一瞬戸惑い、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます、エレナ様」
少しだけ、声が柔らかい。
四人分の水筒が満たされる。
赤茶色の水が、内部で静かに揺れる。
魔界の水。
毒ではない。
むしろ、滋養があるような感覚すらある。
私は川の流れを見つめた。
「……つまりだ」
「なに?」
「魔界は、全部が敵ってわけじゃない」
森も、水も、生き物も。
異質だが、機能している。
ここは滅びの世界ではない。
“もう一つの世界”だ。
そのとき――
再び、ズン、と地面が揺れた。
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次話は5/12火曜日22時に公開予定です。
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