その1 「地下の世界へ」
大穴の縁に立ち、私は深く息を吸った。
底は見えない。
黒い闇が、口を開けて待っている。
だが、その途中にある、空中に静止している岩群。
レーナが名付けた場所。
ゼロ地点。
「あそこを突き抜ければ、あちらの世界にいけるわ」
レーナが真剣な顔で言う。
今日はアホ毛も大人しい。完全に蒼天の魔法使いの顔だ。
「落下の力が打ち消し合う境界。ここから普通に落ちれば、あそこで止まる可能性が高いわ。でも――」
一拍。
「この大穴の上層から助走をつけて落ちる。そして魔法で加速を重ねる」
「初速をつければ慣性で突破できる、だろ?」
私が言うと、レーナは静かに頷いた。
「理屈はね。でも失敗すれば、あそこで永久に浮遊よ。救出不能。だから――ロープを使う」
さらっと恐ろしいことを言う。
ランがぎゅっとロープを握る。
それはドワーフ王国製、魔力繊維入りの特注品。
斬撃耐性、熱耐性、伸縮性あり。しかも金属のように硬質な不思議な素材。
以前、「念のために」とヒルダさんが持たせてくれたものだ。
「まさか、こんな使い方になるとはな」
私は苦笑しながらロープを手に取る。
アイが静かに頭を下げた。
「勇者様、お気をつけて」
「エレナでいいって言ったろ」
「……エレナ様」
少しだけ柔らかくなった声。
「まぁ、それでいいよ」
レーナが杖を構える。
「止まりそうになったら私の風魔法で押す。エレナは向こうの岩場に意識を集中して」
「タイミングは任せた」
「私に任せなさい」
私は膂力変換魔法を発動させ、いったん元来た斜面を駆け上がる。
谷の上層へ。
足に魔力を集中。
筋繊維一本一本に力を流す。
「行くぞ!」
岩壁を蹴り、走る。跳ぶ。走る。
肺が焼ける。
心臓が爆ぜそうだ。
時間にして三十分くらいだろうか。
「はぁ、はぁ……着いた……!」
上層に到達。
「…っレーナに合図だな……」
疲れていたが、私は火炎弾を下へ放った。
赤い光が闇を裂いて落ちていく。
「エレナの合図よ!」
レーナの声が響く。
「さすが、エレナさん!速い!」
ランが関心していた。
それを知る由もなく、私はロープを身体に巻き付け、深く息を吸った。
「まるで、命綱の切れたバンジーだな」
そして――
「仲間を信じよう」
谷底へダイブ。
身体が宙へ躍る。
風が唸る。
闇が迫る。
「くぅぅぅぅ、怖い!」
この大穴は高さにすれば数百メートルはある。
「見えた!」
浮遊岩群が近づく。
三人の姿が一瞬見えた。
そして、すっと身体が軽くなる。
落下感が消える。
音が消える。
世界が、無音になる。
浮いている。
完全停止。
血流まで止まりそうな、異様な静寂。
「止まっちゃいましたよ!」
ランの声が遠く聞こえる。
その瞬間――
「ウインドアタック!!」
レーナの叫び。
私は歯を食いしばる。
「ふんんんんん!!」
レーナの風魔法が私の靴に炸裂する。
「ついでに!」
私は加速のために、火炎弾を連発する。
ゼロ地点で魔力が弾けた。
ビリ、と空間が裂ける感覚。
透明な膜を破るような衝撃が走った。
「…くっ!!」
そして――
世界が、反転した。
上下が入れ替わる感覚。
胃が浮く。
耳鳴り。
視界が歪む。
ふと向こうを見ると、レーナ達が逆さまに見えた。
「突破した!!」
岩壁が迫る。
私は炎帝を顕現させ、全力で岩へ突き立てる。
ガギィィィン!!
火花。
腕に激痛。
だが――止まった。
「成功した!」
私は叫び、炎帝を強く握った。
あちらでは、レーナが魔法でロープを手繰り寄せる。
「捕まえて!」
ロープがランとアイの目の前へ。
ランが飛びつく。
だが勢い余って体が崖外へ傾く。
「ラン様!」
アイが後ろから掴む。
三人で必死に支える。
ロープが軋む。
摩擦で煙が上がる。
「耐えてぇぇぇ!!」
レーナの絶叫。
三人でロープを捕まえ、ロープが安定した。
「やりましたよ!」
ランが手を叩いて喜んでいる。
「さすが、エレナ様です」
アイは少し涙目だ。
「さぁ、ここからよ!」
三人はロープを自分の腰に巻いている。
レーナが私の方を見て、何やら叫んでいた。
「エレナ!引いて!」
声が聞こえなくても、何を言いたいのかすぐにわかった。
私は足場を確保し、膂力変換を最大に。
「こぉのぉぉぉ!!」
全力で引く。
ゼロ地点に飛び降りた三人。
ゼロ地点で一瞬、止まる。
異様な静止。
そして。
ぐん、と。
釣り上げられるように三人がこちらへ徐々に引き寄せられる。
「くぅおのぉぉぉぉ!」
最大の力で引っ張り上げた。
私の横に、アイが着地。
ランがその手を取る。
最後にレーナが私の手を掴む。
ぐい、レーナを引き上げた。
四人とも――こちら側へ。
静寂。
誰も言葉を発さない。
やがて、レーナがふっと笑った。
「……やったわね」
「私のバカ力のおかげって言いたいんだろ?」
「ふふ、私の知恵のおかげよ」
ふと足元を見る。
大穴の中空に浮いていた岩群。
レーナが作った足場も、完全に反転している。
あちらと、こちらの足元の岩盤の色は違う。
空気が重い。
魔素が濃い。
肌がひりつく。
アイが小さく呟く。
「……ここが」
ランが震える声で続ける。
「地下世界……」
私は闇の奥を見据える。
冷たい風が吹く。
鉄と硫黄、そして甘く腐った匂い。
「その入り口だな」
レーナが息を吐く。
「かなり無茶な作戦だったけど」
「これしか方法なかったよな?」
「頑丈なエレナのおかげね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
そして、四人で、未知の大地へ足を踏み入れた。
魔界へ続く、世界の裏側への入り口にたどり着いた。
ここから、レーナが土魔法で足場を作りながら、私たちは慎重に岩壁を登っていった。
こちら側の岩は、地上のものと似ているようで、どこか違う。
叩くと鈍い音が返る。内部が詰まっていない感触。
ところどころ、わずかに柔らかい層が混じっている。
レーナはそれを避け、硬質な部分だけを選んで足場を形成していく。
「柔らかい部分、固めるのに集中力がいる」
「無理するなよ」
「大丈夫よ。崩れる前に固めればいいだけ」
そう言って、さらりと岩肌を平坦に変えていく。
頼もしい限りだ。
私たちは途中で小さな棚状の岩場を見つけ、そこで一泊した。
岩に囲まれた狭い空間。風は通るが、視界は限られる。
そして、むわっとした空気。
時間の流れは、どうやら地上とほぼ同じらしい。
腹も減るし、眠くもなる。
だが――夜は違った。
暗闇が“黒”ではない。
紫がかった深い闇が、じわりと空間を満たしていく。
闇そのものが淡く光っているような、不思議な感覚。
遠くで、低く唸る音が響いた。
獣の咆哮とも、風が洞窟を抜ける音ともつかない、不気味な共鳴。
ランが耳を伏せる。
「……何か、います。かなり遠いですが」
「近づいてくる気配は?」
「今のところは問題なさそうです。でも……地上の獣とは違います」
アイは無言で周囲を見渡す。
私たちは焚き火を最小限にし、光が外へ漏れないように岩で囲った。
交代で見張りを立てる。
「すまないが、疲れたから先に寝るぞ」
膂力変換魔法を最大に使った余波か、体が疲れていた。
だが、眠っているはずなのに、身体のどこかが緊張したままだった。
ここは、私たちの世界ではない。
翌日。
さらに登り続け、やがて岩壁の終わりが見えた。
光が差している。
「……あれが地上?」
「多分ね」
最後の段差を越え、私は慎重に顔を出した。
そして、息を呑む。
そこは、森だった。
だが、地上の森とはまったく違う様相。
木々の葉はすべて紫と深紅。
光を吸い込むような色合いで、ところどころ黒い斑が浮かんでいる。
揺れているはずなのに、影がほとんどできない。
幹は墨を塗ったように黒く、ひび割れの隙間から赤い光がかすかに滲む。
まるで内側に火を灯しているようだ。
枝は鋭くねじれ、空へではなく、斜めに絡み合うように伸びている。
互いを締め付け合うような形。
土は赤茶色。
湿っているのに乾いているような、不思議な質感。
踏みしめると、かすかにぬめりがある。
私はゆっくりと空を見上げた。
昼の空は灰色。
曇天のようだが、雲はない。
均一な色の天蓋が広がっている。
そして――その中心に、淡く光る大きな球体。
白とも金ともつかない、ぼんやりとした光。
太陽の代わりなのか。
あるいは、この地下世界そのものの光源なのか。
影は薄く、方向が曖昧だ。
私は森を見渡した。
「ラン、あれは森だよな?」
ランは目を細め、鼻をひくつかせる。
「……はい。樹木です。間違いなく植物です。ですが……」
眉を寄せる。
「匂いが違います。樹液の甘さがありますが、その奥に鉄臭さが混じっています。血に近い匂いです」
私は空気を吸い込む。
確かに。
甘い。だが、どこか腐敗したような、金属のような匂い。
肺に入る空気が、少し重い。
「色が不気味ね。魔界の森は全部こうなのかしら?」
レーナは顎に手を当て、じっと木々を観察する。
「魔素を多量に吸収している可能性があるわね。葉の色素が違うのかもしれない。光の質も地上とは別物だわ。少し調べてみたいわ」
「禍々しい雰囲気ですね……」
アイが小さく呟く。
普段感情を表に出さない彼女の声に、わずかな緊張が混じっている。
その時。
枝の上で何かが動いた。
カサリ、と乾いた音。
四人同時に身構える。
黒い影が、枝から枝へと跳んだ。
一瞬だけ見えた姿。
リスに似ている。
だが毛は紫。尾は長く、先端が黒く尖っている。
目は黄色ではなく、淡い青白い光を放っていた。
それは枝の上で止まり、こちらを見つめる。
好奇心。警戒。
そして――逃げた。
森の奥へと消える。
「……魔物か?」
「いえ、敵意は感じませんでした」
ランが首を振る。
「普通の獣じゃないかしら?ただ、生態はまったく別でしょうね」
レーナが頷く。
「つまりここは、ちゃんと生きている地下世界ってことだや」
私は深く息を吐いた。
荒廃した地獄ではない。
文明の痕跡はまだ見えないが、少なくとも生命は存在している。
それは少しだけ、救いだった。
「いきなり魔族と鉢合わせは避けたい」
「賛成ね。まずは情報収集よ」
「森の中を移動しつつ、高所を探しましょう」
ランが提案する。
私は足元を見る。
その瞬間。
赤茶色の土が、ほんのわずかに脈打ったように見えた。
気のせいかもしれない。
だが、この大地は、ただの地面ではない気がする。
「わからんことが多い。慎重に行くぞ」
三人が頷く。
ここは、間違いなく魔界。
だが、それは“悪”の象徴ではなく――
未知の世界だ。
私は炎帝に手をかけ、森の奥へと一歩踏み出した。
紫と赤の木々が揺れる。
冷たい風が吹く。
魔界――
その本当の姿を、私たちはこれから知ることになる。
読者の皆様、いつもありがとうございます。
次話は5/10日曜日22時に公開予定です。
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