第4話 「ノートの余白」
「一ノ瀬くん、今日の放課後、空いてる?」
翌日の朝、教室の入口ですれ違いざま、エリサは完璧な笑顔でそう言った。周りには三人の女子。誰が見ても、いつもの優しい人気者だ。
「あ、うん。空いてるけど」
「じゃあ、図書室で待ってるね♪」
ひらりと手を振って、エリサは行ってしまった。
「一ノ瀬、お前、白石さんと仲いいの?」
後ろの席の男子が、目を丸くして聞いてくる。
「いや、そんなことは」
「ええー、羨ましい! あの白石さんだぞ?」
(羨ましがられても、俺、たぶん今、観察対象なんだが)
そう思ったが、口には出さなかった。
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放課後の図書室は、人がまばらだった。
奥の閲覧席で、エリサはすでに待っていた。俺の姿を見た途端、顔から表情がすっと抜ける。
「……遅い」
「ホームルーム終わってすぐ来たぞ」
「待った」
「何分」
「三分」
「短いな」
「長い」
(三分でも長いのか、この子は)
エリサは、鞄から例の白いノートを取り出して、ぱたんと机に置いた。
「一ノ瀬くんの項目を作る」
「俺の?」
「だって、あなた、まだ載ってないもの」
そう言って、新しいページを開く。真ん中に丸い字で『一ノ瀬くん』と書かれた。
その下は、まっさらだった。
「嫌いなものは?」
「え、ピーマンとか」
「それ、普通すぎる。他は?」
「高いところは苦手かな。あと、虫」
「ふうん」
エリサが、さらさらと書き込んでいく。真剣な顔だった。
「コンプレックス」
「これ、言わなきゃだめか」
「だめ」
「……えっと」
少し迷った。でも、取引の日に弱点を突かれて「事実だし」と返したのは俺だ。今さら隠してもしょうがない。
「便利なやつで終わりそうなところ、かな」
「それは知ってる」
「あと、中学のとき、頼まれごとを全部引き受けすぎて、倒れたことがある」
エリサの手が、止まった。
「……倒れた?」
「うん。三日くらい入院した。先生にも親にも怒られて、でも誰も悪くなくて、俺が断らなかっただけで。それ以来、何かを断れない自分が、ちょっと情けない」
言い終えてから、自分でも驚いた。
こんなこと、誰にも話したことがなかった。
エリサは、ペンを持ったまま、じっと俺を見ていた。
「それ、弱点だよ」
「うん」
「私が、使うかもしれないよ」
「うん。でも、握られても、別に困らないし」
「……なんで?」
「だって、もう知ってるから」
エリサが、ぱちり、と瞬きをした。
「自分の弱いところを、自分が知ってたら、人に言われても、びっくりしないだろ。ただの事実だ」
「…………」
「だから、握られても揺れない。たぶん」
そう言うと、エリサは少しだけ、困ったような顔をした。
笑顔でも、無表情でもない。眉が下がって、口がきゅっと結ばれた、初めて見る顔。
(あ、困ってる)
「……つまんない」
「え」
「弱みを渡されても、全然、楽しくない」
エリサは、ペンを置いた。
「普通はね、弱いところを突かれたら、顔が変わるの。怒ったり、泣いたり、焦ったり。それを見るのが、楽しいのに」
「ああ」
「一ノ瀬くんは、変わらない」
「変わってるだろ。今、ちょっと恥ずかしい」
「それは変わったうちに入らない」
「厳しいな」
ふたりして、少し黙った。
図書室の隅の時計が、かちかちと音を立てている。
エリサは、書き込んだ『一ノ瀬くん』のページを、指でなぞった。
「好きな人の欄」
「え」
「空けておく?」
「……」
「それとも、書く?」
ペンを持ち上げて、俺の顔を覗き込む。
その目が、いつもより、ほんの少しだけ近かった。
心臓が、変な音を立てた。
「か、書くことが、ない」
「ほんとに?」
「ほんと」
「ふうん」
エリサは、小さく笑った。
「……空けておくね」
声が、ちょっとだけ、低かった。
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その日の帰り道、俺は昇降口で靴を履きながら、ひとり考えていた。
(俺、なんでこんなことしてるんだろう)
秘密を知って、取引をして、それで毎日一緒にいる。本来なら、先生にでも相談したほうがいいのかもしれない。それか、全力で距離を置くとか。
でも、俺はそのどちらもしていない。
(これって、お人好しの延長なのかな)
頼まれたから、断れなかっただけなのか。
それとも、もっと違う理由があるのか。
自分でも、答えが出なかった。
答えが出ないまま、靴紐を結び直していると、後ろから声がした。
「あれ、一ノ瀬くん?」
振り返ると、美咲さんが立っていた。
あの日の放課後泣いていた、小柄な女子。目元はまだ少し赤い。けれど、あの日よりずっと落ち着いた顔をしていた。
「あ、美咲さん」
「ちょっと、聞いてもいい?」
「うん」
「最近、エリサちゃんと、よく一緒にいるよね」
どきりとした。
「あ、まあ。ちょっと、文化祭の件で」
「そっか」
美咲さんは、少しだけ視線を落とした。
「エリサちゃん、優しいよね」
「……」
「私、この前、すごく落ち込んでたとき、ずっと隣にいてくれて。でもね」
美咲さんは、ぎゅっと鞄の紐を握った。
「あとで、ふと思ったの。あの子たちが私の悪口を言ってた、って、誰から聞いたんだっけって」
心臓が、止まりそうになった。
「エリサちゃんは、悪くないんだよ。うっかり言っちゃっただけで。でも、なんか、最近、ずっと分からなくて」
美咲さんの声が、震えていた。
「あの子たちが、本当にそう言ったのかな、とか。それとも、私が、ただ聞き方を間違えただけなのかな、とか」
(……これが)
胸の奥が、冷たくなった。
(これが、「操られた側の混乱」なんだ)
誰も悪者にならない。誰も責められない。だから、傷ついた本人だけが、「自分が悪かったのかも」と、ずっと考え続ける。
「……美咲さん」
「うん」
「それ、ちゃんと本人たちに、確かめてみたら?」
「えっ」
「直接。『あのとき、本当にそう言ったの?』って。もしかしたら、何かの誤解かもしれないし」
「でも、そんなこと聞いたら、嫌われないかな」
「嫌われても、聞いたほうがいいと思う」
美咲さんは、目を見開いた。
「俺も、聞かなくてモヤモヤしたまま過ごしたこと、あるから」
嘘ではなかった。
美咲さんは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん。聞いてみる。ありがとう、一ノ瀬くん」
「いや、俺は何も」
「ううん。話せて、ちょっと楽になった」
そう言って、美咲さんは笑った。
まだ弱々しい。でも、初めて見る、自分の意志で出した笑顔だった。
(……よかった)
そう思ったのと同時に、別の感情が、腹の底に沈んだ。
(俺は、エリサの味方なのか、美咲さんの味方なのか)
どっちなんだろう。
どちらも、ちゃんとやれていない気がした。
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その夜、エリサからメッセージが届いた。
『今日の、ありがとう』
それだけの短い文面。
絵文字もなければ、ハートもない。素のエリサの文章だ。
俺は、スマホを持ったまま、しばらく画面を見つめた。
返信を打つ。
『こちらこそ』
少しして、また着信が鳴った。
『ノート、書こうとしたの』
『何を?』
『一ノ瀬くんのページ』
『書けた?』
既読がついた。
けれど、返事は、なかなか来なかった。
数分後。
『書けなかった』
『なんで?』
『手が止まった』
『なんで止まったのか、自分でも分からない』
画面の向こうで、いつも笑っている彼女が、何も分からない顔で首をかしげている気がした。
『それ、なんでだろうな』
そう返信したあと、俺は、ベッドの上でひとつ息を吐いた。
(この子、今、ちゃんと「人の心が分からない」って、自分で言ったんだ)
笑っているときよりも。
優しくしているときよりも。
その一言のほうが、ずっと、人間らしかった。
(……俺、どうしたいんだろう)
天井を見つめながら、俺は思った。
エリサを、助けたいのか。
エリサに、巻き込まれたいのか。
それとも。
その先を考えようとして、やめた。
多分、まだ、考えちゃいけない気がした。




