第3話 「火種を消す係」
翌朝、俺は校門の前で足を止めた。
(……どういう顔で挨拶すればいいんだ)
昨日の今日である。「素でいてくれ」と頼んだのは俺だが、頼んだからといって、素のエリサがどんなものか、俺はまだ知らない。
「おはよう、一ノ瀬くん♪」
背後から、あの完璧な声がした。
振り返ると、周りに三、四人の女子を引き連れたエリサが、花が咲くように笑っていた。
「あ、おはよう」
「昨日はありがとうね。日直、大変だったでしょ?」
「いや、全然」
(あ、素じゃないんだ)
そりゃそうか、と思い直した。人前で素になられても、それはそれで困る。
エリサは取り巻きの子たちと一緒に先に行ってしまった。すれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で、ぼそりと言った。
「……昼休み、階段の踊り場」
声のトーンは低くて平らだった。さっきまでの甘い響きは、跡形もない。
(切り替え、はやっ)
振り返っても、そこにはいつも通り、友達と談笑するエリサの姿があるだけだった。
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昼休み、北校舎の階段の踊り場。ここは誰も来ない。
エリサは、手すりにもたれて、パックのいちごオレを飲んでいた。
無表情で、ストローをくわえて、ぼんやりと窓の外を見ている。
「……素って、これでいいの?」
「え、うん。いいと思う」
「つまんなくない?」
「いや、全然」
本心だった。いつもの笑顔の彼女が「花」だとしたら、今の彼女は「猫」だ。毛づくろいしているところを偶然見てしまったときの、あの感じ。
エリサは、ストローを噛みながら、ちらっとこちらを見た。
窓から入る昼の光が、彼女の睫毛を白く縁取っていた。
ストローをくわえた唇の端に、いちごオレの色がほんの少しだけ移っている。
教室では絶対に見せない、気の抜けた横顔。
人前で完璧に整えられた「美しさ」より、こっちのほうが、ずっと目が離せなかった。
「今日の放課後、結衣ちゃんに種をまくの」
「ぶっ」
飲んでいた麦茶を吹きかけた。
「ま、まく?」
「言ったでしょ。素でいてって」
「いや、確かに言ったけど、そんな、計画まで素にならなくても」
「だって、隠すの、疲れる」
エリサは、淡々と続けた。
「結衣ちゃん、茜ちゃんがクラスの看板イラストの担当に選ばれたの、気にしてるの。だから、茜ちゃんが『結衣ちゃんの絵、ちょっと子供っぽいよね』って言ってた、って」
「それ、茜さんは本当に言ったのか」
「言ってない」
即答だった。
「でも、茜ちゃんって、前に別の子の絵を見て、『ちょっと子供っぽいね』って言ってたことがあるの。だから、ありえなくは、ない」
(切り取りだ)
昨日の美咲さんと同じだ。実際に言ったことの、一部だけを借りてくる。嘘じゃない。でも本当でもない。
「……なんで俺に言うんだ?」
「止めるか、見るか、知りたい」
エリサは、いちごオレの紙パックを両手で包んで、じっと俺を見た。
「一ノ瀬くんは、どっち?」
試されている、と思った。
ここで「やめろ」と怒れば、彼女は「ほら、やっぱり面倒な人」と判断するだろう。黙って見ていれば、俺は共犯者だ。
どっちも、ちょっと違う気がした。
「じゃあ、俺も勝手にやることにする」
「……え?」
「止めない。でも、俺は俺で、動く」
「どういう意味?」
「見てて」
俺は残りのパンを口に押し込んで、階段を降りた。
後ろから、エリサの「は?」という声が聞こえた。
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俺にできることは、少ない。
腹黒でもなければ、頭が切れるわけでもない。口が上手いわけでもない。
あるのは、「頼まれごとを断れない」という体質と、その裏返しの特技だけだ。
つまり、「頼むのが、ちょっとだけ上手い」。
断られない人間は、頼みごとの重さが分かっている。どう頼めば相手が嫌な気持ちにならないか、嫌というほど知っている。
「あのさ、結衣さん、ちょっと頼みたいことがあって」
教室で、結衣さんの席の横に立った。
結衣さんは、不安そうに顔を上げた。茜さんが看板担当に決まってから、少し元気がない。
「なに? 一ノ瀬くん」
「文化祭の看板の下に貼る、クラスの出し物の説明ポスター、俺が担当になったんだけど、絵が壊滅的で」
これは嘘ではない。実際、さっき先生に押しつけられた。
「それで、イラスト得意な人に手伝ってほしくて。結衣さん、前にノートの隅に描いてたの、すごく上手かったから」
「えっ……見てたの?」
「うん。あれ、いいなと思って」
結衣さんの顔が、ぱっと赤くなった。
「そ、そんなこと、ないけど……」
「あとさ、茜さんにも手伝いを頼みたくて。看板と並べるから、雰囲気そろえたいんだよね。二人にお願いしていい?」
「え、茜ちゃんも?」
「うん。看板描いてる本人が、一番分かってると思うから」
結衣さんは、少し迷った。
それから、小さく頷いた。
「……いいよ。やる」
(よし)
次は茜さんだ。同じように頼んで、同じように「いいよ」をもらう。
これで、二人は、放課後に同じ机を囲むことになる。
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放課後、教室。
窓際の机に、画用紙と絵の具と筆が並んでいた。結衣さんと茜さんは、向かい合って座っている。
最初は気まずそうだったが、十分もすると、手を動かしながらぽつぽつと喋り始めていた。
「看板の色、緑にするつもりなんだけど、結衣ちゃんはどう思う?」
「えっ、うーん……私、青のほうが好きだけど、緑のほうが目立つかも」
「そっか。じゃあ両方入れよっか!」
よしよし、と俺は教室の後ろの席から、こっそり頷いていた。
そこへ、エリサが入ってきた。
「あれ、みんな何してるの?」
いつもの優しい声。いつもの笑顔。けれど、俺にだけは分かる。
(来たな)
エリサは、結衣さんの横にそっと座った。
「結衣ちゃん、絵、すごく上手だね」
「え、そんな」
「ねぇ、結衣ちゃん。あのね、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど……」
エリサが声を落として、顔を寄せた。
ここだ、と俺は思った。
俺は立ち上がりかけて、やめた。止めない、と決めたのだ。
代わりに、結衣さんの様子を見ていた。
「茜ちゃんがね、前に……」
エリサの口から、茜さんの名前が出た瞬間。
結衣さんの表情が、一瞬、動いた。
不安。疑い。そして、ほんの一瞬だけ、暗い色。
(……あ)
その顔を見て、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
昨日の美咲さんもこんな顔をしていたんだろう。誰かの何気ない言葉を、一番悪い形で受け取ってしまう、あの顔。
エリサの目が、また輝いているのが見えた。
でも、結衣さんは、そこで首をかしげた。
「茜ちゃんが、なに?」
「あ、えっとね……」
「ねぇ茜ちゃん」
結衣さんが、くるりと茜さんのほうを向いた。
「エリサちゃんが、茜ちゃんが私の絵のこと、何か言ってたって」
「え? 私?」
茜さんが、ぱちくりと目を瞬かせた。
「結衣ちゃんの絵? めっちゃ上手いって思ってるよ。だから、一緒にやれて嬉しいって、さっき一ノ瀬くんにも言ったんだけど」
「え」
「えっ」
「…………」
結衣さんが、エリサを見た。
「エリサちゃん、なんて言おうとしてたの?」
エリサの笑顔が、止まった。
ほんの一瞬。でも俺には、はっきり見えた。
「あ、えっと……ううん、なんでもないの。私の聞き間違いだったみたい」
「そっか」
結衣さんが、ほっとしたように笑った。
「でも、聞いてよかった。ずっと気にしてたから」
そう言って、茜さんと顔を見合わせて笑った。
種は、芽を出す前に、土ごとひっくり返された。
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「……邪魔しないでって、言ったでしょ」
階段の踊り場。エリサは、壁に背中をつけて、ふくれっ面で俺を睨んでいた。
笑顔の優しい人気者は、どこにもいない。いるのは、せっかく作った砂の城を、波にさらわれた子供だ。
「邪魔はしてないぞ。止めてないし」
「やった。やったよね。絶対やった」
「俺は、ポスターを頼んだだけだ」
「そんなの、詐欺」
「でも、あの二人が直接話せば、あんなの何でもなかっただろ?」
「……」
エリサは、ぐっと言葉に詰まった。
「それ、ずるい」
「ずるいの、お前のほうだぞ」
「私は誰にも直接言ってない」
「俺だって誰にも嘘言ってない」
「……むかつく」
エリサは、ぷいっと顔を背けた。
「もう、あの二人で十分遊べると思ったのに」
(遊び、なのか)
今さらながら、そう思った。
この子にとって、これは悪意ですらない。ただの、遊びだ。人の心が動くのを見るのが、楽しい。それだけのことだ。
だからこそ、怖い。そして、だからこそ、どうしようもなく、目が離せない。
「……でもね」
エリサが、小さな声で言った。
「結衣ちゃんが、一瞬だけ、すごく良い顔をしたの」
「……ああ」
「それを、もっと見たかった」
声が、また、少しだけ低かった。
悔しそうなのに、楽しそうだった。
「だからって、他の子にやるなよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
エリサが、顔を上げた。
「私、これしか知らないの。人の心が動くの、見るの。他に、楽しいこと、ない」
胸のあたりが、ぎゅっとなった。
それは、嘘をついている声じゃなかった。
(……ああ、この子は)
本当に、他の遊び方を知らないんだ。
俺は少し考えてから、言った。
「……じゃあ、俺で遊べば?」
「え?」
「俺の心が動くのを、見ればいいだろ」
言ってから、とんでもないことを口走ったと気づいた。でも、撤回する気にはならなかった。
エリサは、目を丸くして、しばらく俺を見つめていた。
そして、にやり、と笑った。
それは、いつもの優しい笑顔ではなかった。
悪戯を思いついた、猫の顔だった。
「……いいの?」
「え」
「本当にいいの? 私、容赦しないよ?」
「いや、ちょっと待て」
「じゃあ、一ノ瀬くん」
エリサは、一歩、近づいてきた。
「あなたが、私を楽しませてよ」
声が、これまでで一番、低かった。




