第2話 「そんなこと言った覚えがないよ?」
「あれ? 一ノ瀬くん、まだ残ってたの?」
エリサは、ドアのところに立ったまま小首を傾げた。
夕日を背負っているせいで、表情の細かいところが見えない。見えるのは、いつもの穏やかな笑顔の輪郭だけだ。
「あ、えっと」
「それ、私のノートかな?」
視線が、俺の手の中に落ちる。
開いたままのページ。丸い字。「今日のぶん、とても良い顔だった」
言い訳は、三パターンくらい頭に浮かんだ。
拾っただけで中は見てない。
ちょっとだけ見えちゃった。
そもそも何が書いてあるのか分からない。
どれも、嘘だった。
そして俺は、嘘をつくのが昔から下手だ。
「……ごめん。中、見た」
エリサの笑顔が、ぴくりとも動かなかった。
「そっか」
声のトーンも変わらない。上履きの音だけが、ゆっくりと近づいてくる。一歩。二歩。
「見ちゃったんだね。……あのね、一ノ瀬くん。それ、誤解だと思うの」
エリサは俺の目の前で立ち止まって、少しだけ眉を下げた。
「それは、忘れないようにメモしてるだけなんだよ。みんなのこと、ちゃんと覚えておきたくて。誕生日とか、苦手なものとか」
「うん」
「好きな人の欄は、その、恋バナの流れで聞いたことを書いてて。変だよね、ごめんね。でも悪気はなくて」
「うん」
「だから、あんまり深く考えないでほしいな。美咲ちゃんのことも、私はただ――」
「『今日のぶん、とても良い顔だった』」
エリサの口が、止まった。
「それは、誕生日のメモなのか?」
静かな教室に、自分の声だけがやけに響いた。
言ってしまってから、ちょっと後悔した。もう少しやんわり聞けなかったのか俺。
エリサは、数秒、何も言わなかった。
笑顔のまま、固まっていた。
(あ、固まってる)
綺麗な笑顔の形だけが残って、中身が追いついていない。そんな感じだった。
やがて彼女は、首をかしげて、ふわりと笑った。
「え? そんなこと書いた覚えがないよ? 見間違いかも」
「いや、今ここに書いてあるんだけど」
「聞き間違いじゃない? 一ノ瀬くん、きっと疲れてるんだよ。日直もいっぱい代わってたし」
「書いてあるのは聞き間違いじゃなくないか?」
「……」
「……」
沈黙。
エリサの笑顔の端が、ほんの一ミリだけ引きつった。
多分、彼女の常套句が通じなかったのは、これが初めてなんだと思う。
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「……どうするの?」
先に口を開いたのは、エリサのほうだった。
声が、少しだけ低い。さっきまでの甘い響きが消えている。
「先生に言う? みんなに? それとも、美咲ちゃんに?」
「え」
「言ってもいいよ。でも、きっと誰も信じないと思うな。私、みんなに好かれてるから」
にこ、と笑う。
笑顔なのに、背筋が冷える。さっきまでの優しい子と同じ顔が、同じ声で、淡々と事実を述べている。
(うわ、本当にそうだ)
俺が「エリサは腹黒だ」と言ったところで、誰が信じる。日直を毎日代わっているだけの、地味な男子の証言だ。
詰んでいる。
でも、不思議と、怖さよりも別の感情のほうが大きかった。
「言わないよ」
「……え?」
「言わない。誰にも」
エリサの目が、初めて少しだけ見開かれた。
「なんで?」
「いや、なんでって」
俺は頭をかいた。理由を聞かれると、困る。
「えっと、まず、証拠ないし」
「うん」
「それに、美咲さんのこと、俺が言ったら余計ぐちゃぐちゃになりそうだし」
「うん」
「あと」
「あと?」
俺は少し考えてから、正直に言った。
「さっき、美咲さんの横にいたとき、お前、ちゃんと優しかったんだよ」
「…………は?」
エリサが、本気で意味がわからない顔をした。
初めて見る顔だった。笑顔でも、悲しい顔でもない。ただの、きょとんとした女の子の顔。
「やってることは、その、アレだと思う。たぶんダメなやつだと思う。でも、泣いてる人の隣に座ったのは本当だったし」
「それは、だって」
「だって?」
「…………」
エリサは何か言いかけて、口を閉じた。
(あ、言い返せないんだ)
その横顔を見て、俺は、なんとなく思ってしまった。
(この子、本当に分からないんじゃないか)
泣いている人を見て、胸が躍る理由も。それが良くないことだって理由も。
悪いことをしている自覚がないわけじゃない。でも、「どうして悪いのか」が、心の底では分かっていない。
そんな気がした。
「……変な人」
エリサがぽつりと言った。
「それ、よく言われる」
「褒めてないよ」
「知ってる」
「お人好しすぎて、気持ち悪い」
「それもよく言われる」
「…………」
エリサは、ため息をひとつついた。
そして、驚くほど自然に、ノートを取り上げて、ぱたんと閉じた。
「一ノ瀬くん」
「ん」
「取引しよっか」
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「取引?」
「うん。見ちゃったことは、黙っててほしいな。その代わり、一ノ瀬くんが欲しいものをあげる」
「欲しいもの?」
「何でもいいよ。お金は無理だけど。成績とか、友達関係とか、人気者になる手伝いとか。私、そういうの得意だから」
さらっと言う。
得意なんだろうな、と素直に思った。この子なら、本当にやれる。
「いや、別にいらないけど」
「ほんとに? 一ノ瀬くん、便利に使われてるの、ちょっと気にしてるでしょ?」
どきっとした。
「え、なんで」
「見てたから。日直とか、掃除とか、全部引き受けてるよね。たまに、ちょっとだけ寂しそうな顔するもの」
(……うわ)
言われた瞬間、胸のあたりが少し痛くなった。
これだ。多分これが、この子のやり方なんだ。
相手が一番反応する場所を、的確に突いてくる。しかも、優しい声と、優しい顔で。
俺は、少しだけ笑ってしまった。
「すげえな、お前」
「……え?」
「いや、本当に見てるんだなって。そこまで分かるの、普通にすごい」
エリサは、固まった。
「怒らないの?」
「なんで怒るんだ?」
「だって、今、弱点を」
「うん。突かれたけど、事実だし」
「…………」
「あと、気にしてるけど、別に悪い気もしてないんだよ。頼まれるのは嬉しいから。ただ、これでいいのかな、って時々思うだけで」
そう言うと、エリサの顔から、完全に笑顔が消えた。
何の表情もない。
笑顔が消えると、顔立ちの整い方が、はっきり分かった。
通った鼻筋、薄い唇、驚くほど澄んだ瞳。笑っているときは柔らかさに隠れていた造形の綺麗さが、夕日の中で、ひんやりと浮かび上がる。
人形みたいだ、と思って、すぐに違うと気づいた。
人形は、こんなふうに、静かに、人を見ない。
作り物じゃない、何も飾らない顔。
それは、驚くほど綺麗で、そしてどこか、幼かった。
(あ、こっちが素なのか)
そう思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「じゃあ、欲しいもの、決めた」
「……なに?」
「俺の前では、素でいてくれ」
「…………は?」
エリサが、まじで意味が分からないという顔をした。
「それだけ?」
「それだけ」
「そんなので、いいの?」
「いや、だって、さっきの顔のほうが、いいなと思って」
言ってから、自分でも「何を言ってるんだ」と思った。
でも、嘘ではなかった。
笑顔を貼り付けているときの彼女より、何も取り繕っていない今の彼女のほうが、ずっと生きている感じがした。
エリサは、数秒、黙った。
それから、ふい、と視線を逸らして、小さな声で言った。
「……変なの」
「それもよく言われる」
「うるさい」
声のトーンが、更にほんの少しだけ、低かった。
多分、この子の声は、本心が動くと低くなる。
そのことに気づいたのは、世界で俺ひとりだけだと思う。
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別れ際、昇降口で。
「……一ノ瀬くん」
「ん?」
靴を履き替えながら、エリサが言った。
「明日から、教室で話しかけてもいい?」
「いつも話しかけてくるじゃん」
「ちがう。……素のほう」
「え」
「だめ?」
見上げてくる顔は、いつもの笑顔じゃなかった。
感情の読めない、ただの無表情。
でもそれが、なぜか、すごく可愛く見えた。
「……いいよ」
反射で答えてから、気づいた。
(あ、またいつもの「いいよ」を言ってしまった)
でも今回は、後悔しなかった。
「ありがとう」
エリサが、小さく言った。
声は、また少し低かった。
(あ、これは本物かもしれない)
そう思ったのが、きっと、俺の一番の間違いだった。
次の日から、俺の平凡な学校生活は、静かに壊れ始める。




