第1話 「みんな仲良く、が口癖の人」
白石エリサは、うちのクラスの「正解」だ。
肩にかかる、少し色素の薄い髪。窓から光が入ると、毛先だけが透けて、淡い茶色に見える。
笑うと目尻が下がって、頬にえくぼがひとつだけできる。
声も、歩き方も、制服の着こなしも、全部がちょうどいい。足りないところも、余るところもない。
「かわいい」より先に、「安心する」という言葉が出てくる顔だ。
美人というのは、見る人を緊張させるものだと思っていた。彼女は、逆だった。
誰が話しかけても最後まで聞いてくれて、「みんなで仲良くしようね♪」が口癖。
クラス替えから半年、彼女の悪口を一度も聞いたことがない。
だから俺が見たものは、きっと俺の見間違いなんだと思う。
思おうとした。三秒くらいは。
---
「一ノ瀬、悪い、今日の日直代わってくれない? 塾なんだよ」
「いいよ」
「マジ? サンキュー、神!」
返事をしてから、今日で今週三回目だと気づいた。まあいいか。
昔から頼まれごとを断れない。断るのが苦手というより、「いいよ」と言ったときの相手の顔を見るのが好きなのだ。たぶん。
ただ、たまに思う。
(俺、ただの便利なやつなんじゃないか?)
悩むには悩むのだが、翌朝には「まあ、いいか」で復活している。メンタルだけは強い。教師に怒鳴られても、友達に雑に扱われても、三十分で忘れる。長所なのか、鈍いだけなのか、そこが最近の悩みだ。
「一ノ瀬くん、今日も日直ありがとう。助かるなぁ」
声をかけてきたのは、エリサだった。
「え、いや、俺が代わっただけだし」
「ううん、いつも誰かのためにって、すごいよ。私、そういう人好きだな」
さらっと言って、にこっと笑う。教室の空気が少しやわらかくなった気がした。
こういうところが彼女のすごさだ。褒められ慣れていない俺でも、悪い気がしない。
(いい子だよなあ)
その日の放課後までは、本気でそう思っていた。
---
日誌を書き終えて職員室に出しに行く途中、教室に筆箱を忘れたのを思い出して戻った。
廊下の窓から夕日が差し込んで、床がオレンジ色に染まっていた。教室のドアは少し開いていて、中から小さな声が聞こえた。
「……ごめんね、美咲ちゃん。私が余計なこと言っちゃったのかな」
エリサの声だった。
覗くと、窓際の席で美咲さんが机に突っ伏して泣いていた。隣の椅子にエリサが座って、その背中をゆっくりさすっている。
「私ね、美咲ちゃんが心配だったの。ほら、最近、あの子たちとちょっと距離があるでしょ? だから『みんなどう思ってるのかな』って、つい聞いちゃって。そしたら……」
「……あの子たち、私のこと、うざいって」
「うん……。でも、本心じゃないと思うよ? きっと、その場の空気で……」
「でも、言ってたんでしょ……?」
「それはね、あの、私、言うつもりじゃなかったんだけど……」
エリサは口ごもって、悲しそうに目を伏せた。
優しい。ひたすら優しい光景だった。泣いている友達に寄り添う、理想的な友達。
ただ、ひとつだけ引っかかった。
(……あれ?)
エリサは、美咲さんの背中をさすりながら、顔を上げた。
夕日が横顔の輪郭をなぞって、睫毛の影が頬に落ちていた。
絵のように綺麗だった。だからこそ、その中で目だけが浮いて見えた。
きらきらしていた。
悲しそうな顔の中で、目だけが。まるで好きなものを前にした子供みたいに、ほんの少しだけ、輝いていた。
ぞくり、と背中が冷えた。
「かわいそう……大丈夫? 私がそばにいるよ」
声はどこまでも優しい。表情も完璧に沈んでいる。なのに目だけが、泣いている美咲さんの肩の震えを、一滴も逃さないように追っていた。
(見間違いだ)
そう思った。そうに決まっている。
だって、あのエリサが。クラスの誰からも好かれている彼女が。
だけど、一度見えてしまった目は、もう忘れられなかった。
---
音を立てないように、俺は教室の前から離れた。
筆箱は諦めた。心臓がうるさかった。
(落ち着け。ただ友達が泣いてるのを慰めてただけだ。そう見えた。見えただけだ)
自分に言い聞かせながら、昇降口で靴を履き替える。
その途中で、気づいた。
(……ちょっと待て。なんで美咲さんは、あの子たちに悪口を言われたって知ってるんだ?)
美咲さんは、あの子たちと喧嘩したわけでも、その場に居合わせたわけでもないはずだ。なのに、泣いていた。
誰かが、伝えたのだ。
言葉の一部だけを切り取って。
エリサは、「私が余計なことを言っちゃったのかな」と言っていた。
(……言っちゃった? エリサが?)
頭の中で、さっきの会話が逆再生される。
心配だったから、聞いちゃった。つい。言うつもりじゃなかった。
全部、「うっかり」の形をしていた。
あまりに自然で、あまりに優しくて、疑う余地がなかった。だからこそ、気持ち悪いほど完璧だった。
---
結局、筆箱を取りに戻ったのは三十分後だった。
「いやいや、なんで戻ってきたんだ俺」と思いつつ、ここで諦めたら明日の授業に困る。
教室にはもう誰もいなかった。美咲さんも、エリサもいない。
自分の机から筆箱を取って、帰ろうとして、足が止まった。
窓際の席の下に、小さなノートが落ちていた。
手のひらサイズの、手帳みたいなノート。表紙は無地の白で、真ん中に丸い字で、こう書いてある。
『ひみつ』
(……エリサの字だ)
提出物で何度か見たことがある、丸くて可愛い文字だった。
拾うべきか、見なかったことにするべきか。
お人好しの俺の頭に浮かんだのは、「持ち主に返してあげなきゃ」という、ごく普通の善意だった。
そう、ただの善意。そのはずだった。
けれど、指がノートに触れた瞬間、さっきの光景がまた浮かんだ。
悲しそうな顔の中で、輝いていた、あの目。
(……見るなよ、俺)
見ちゃダメだ。人の手帳だ。マナー違反だ。返すだけだ。
そう思っているのに、親指が勝手に動いて、表紙をめくっていた。
最初のページには、丸い字で、箇条書きが並んでいた。
美咲ちゃん
・嫌いなもの:納豆、雷、置いていかれること
・コンプレックス:背が低いこと、声が小さいこと
・好きな人:高橋くん
その下に、小さな字で、こう書き足されていた。
・今日のぶん、とても良い顔だった
喉が鳴った。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
軽い、上履きの音。
そして、聞き慣れた優しい声。
「あれ? 一ノ瀬くん、まだ残ってたの?」
振り返ると、エリサがドアのところに立っていた。
いつもの完璧な笑顔で。
けれど、その視線は、俺の手の中のノートに、まっすぐ注がれていた。




