第5話 「ひみつ」
美咲さんが動いたのは、その三日後だった。
昼休み、教室の隅で、美咲さんは「あの子たち」の三人組に向かって、小さな声で、でもはっきりと言った。
「あのね、前に私のこと、うざいって言ってたって聞いたんだけど。それ、本当?」
三人は顔を見合わせた。
「は? 言ってないけど」
「誰がそんなこと言ったの?」
「え、私、そんなこと……」
ざわり、と空気が揺れた。
俺は自分の席から、横目でそれを見ていた。胃のあたりがきゅっとなる。
(頼む、うまくいってくれ)
美咲さんが、言葉を探して、口を開きかけた。
そのとき。
「あ、あのね、みんな」
柔らかい声が、割って入った。
エリサだった。
「ごめんね、私が余計なこと言っちゃったのかな。みんなに仲良くしてほしくて、つい。……私の聞き間違いだったのかも」
涙目で、胸の前で手を合わせている。
完璧だった。
誰も責められない形で、すべてが「エリサの優しいうっかり」に回収されていく。三人組は「えー、エリサちゃんのせいじゃないよ」と慌てて慰め始めた。美咲さんの問いは、宙に浮いた。
(最後の種まきだ)
直感した。これは、彼女が最初から用意していた逃げ道であり、同時に、最後の仕上げだった。
美咲さんの顔が、揺れた。
また、あの顔だ。「自分が悪かったのかも」と、俯きかける顔。
そして、エリサの目が、きらりと光った。
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「待った」
俺は、立ち上がっていた。
教室中の視線が集まる。
(うわ、目立つ。俺、目立つの苦手なのに)
でも、止まれなかった。
「エリサは、悪くないと思う」
「え?」
エリサの目が、俺を見た。ほんの一瞬、本当に驚いた顔をした。
「悪くないけど、ひとつ確認したい。美咲さんは、ちゃんと聞いただけだ。それを『聞き間違い』で終わらせると、美咲さんがずっとモヤモヤするだろ」
「一ノ瀬くん……」
「だから、三人とも。言ってないなら、言ってないで、それでいいと思う。誤解だったってだけで。誰も悪者にならなくていい」
三人組が、ぽかんとした顔をした。
それから、一人が頭をかいた。
「……あー、まあ、確かに、うざいとは言ってないな。ちょっと、距離置いてたのは事実だけど」
「ごめん、それは、悪かった」
「え」
美咲さんが、ぱっと顔を上げた。
「あのさ、今度、普通に話そうよ」
「……うん」
美咲さんの目から、ぽろっと涙がこぼれた。
でも、それは、前のような涙じゃなかった。
エリサは、その横で、笑顔のまま立っていた。
目だけが、笑っていなかった。
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放課後、屋上へ続く階段。
エリサは、いつもの無表情で、壁にもたれて立っていた。
「……最低」
「うん」
「みんなの前で。一番、いいところで」
「うん」
「私の、最後の種を」
「うん、ごめん」
「謝らないで」
声が、ほんの少し震えていた。
「怒ってるの。ほんとに。むかつく。初めて、すごく、むかついてる」
「ああ」
「なんでよ。なんで、一ノ瀬くんは、そうやって」
エリサが、顔を上げた。
「私を、悪者にしないの」
その目に、涙が溜まっていた。
笑顔でもなく、悲しい顔でもない。ただ、感情がぐちゃぐちゃになって、どこにも置き場がない、剥き出しの顔だった。
(……これが、エリサの、操られた側の顔か)
初めて見た。
人の心を動かすのが好きな彼女が、初めて、自分の心を動かされている。
「今日ね」
エリサが、ぽつりと言った。
「美咲ちゃんが泣いてるの、見たの。いつもなら、嬉しいはずなの。でも、嬉しくなかった」
「……うん」
「代わりに、一ノ瀬くんのこと、ずっと見てた。一ノ瀬くんがどんな顔するか、ずっと気になってた」
「俺の顔?」
「うん。立ち上がったときの、顔。すごく、真剣だった」
エリサは、袖で目をこすった。
「私、そっちのほうが、見たかった」
声は、これまでで一番、低かった。
俺は、息を吸った。
言うなら、今だと思った。
「なあ、エリサ」
「なに」
「俺は、お前のこと、悪者だと思ってない」
「……」
「やってることは、正直、よくないと思う。人が傷つくから。でも、お前が、人を好きなのは、本当だと思う」
「好き、じゃない。観察」
「じゃあ、観察でもいい。でも、興味はあるんだろ。人に」
エリサは、何も言わなかった。
「だからさ。俺で、遊べ」
「また、それ」
「泣かない」
「え?」
「俺は、お前に何されても、泣かない。倒れもしない。逃げもしない。何があっても、ここにいる」
言ってから、顔が熱くなった。何を言ってるんだ俺は、と思った。
でも、止まらなかった。
「だから、他の誰かを泣かせるくらいなら、俺の前で、好きなだけ試せ。俺の心が動くところ、見たいだけ見ればいい」
エリサの目が、大きく見開かれた。
見開いた瞳は、夕日を吸って、琥珀色に透けていた。
その縁から、すっと赤みが差していく。
白い肌の上で、目元と、耳の先だけが、淡く色づいた。
綺麗だ、と思った。
笑顔の完璧さではなく、崩れかけた表情のほうが、ずっと綺麗だと思った。
そんなことを考えている自分が、少し恥ずかしかった。
「…………ずるい」
「え」
「そんなこと、言われたら」
エリサは、両手で顔を覆った。
「困る。すごく、困る」
指の隙間から、耳まで真っ赤になっているのが見えた。
(あ、これは)
思わず、口元が緩んだ。
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってる」
「ちょっとだけ」
「むかつく……!」
エリサが、俺の肩を、ぽかっと叩いた。
力はこもっていない。ただ、行き場のない感情を、ぶつけているだけの手だった。
(ああ、この子、今、ちゃんと心が動いてる)
それが、俺には、どうしようもなく嬉しかった。
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翌朝。
教室に入ると、エリサは、いつもの完璧な笑顔で、みんなに囲まれていた。
「一ノ瀬くん、おはよう♪」
「おはよう」
視線が合う。
笑顔の奥で、目が、ほんの一瞬だけ、俺に向けて細まった。
(あ、今の、素のほうだ)
それが、俺にしか分からない合図になっていた。
その日の昼休み、エリサは、こっそりと俺の机に何かを置いていった。
小さな、白いノート。
『ひみつ』と書かれた、あのノートだった。
(え、なんで)
開くと、最後のほうのページに、新しい項目が増えていた。
一ノ瀬くん
・嫌いなもの:ピーマン、高いところ、虫
・コンプレックス:断れないこと(本人は知ってる)
・好きな人:——
・追記:泣かないって言った。ほんとかどうか、ずっと見てる
・追記:今日は、見てたら、手が止まらなかった
・追記:これは、メモじゃなくて、日記かもしれない
最後の一行だけ、字が少しだけ崩れていた。
丸い字が、ほんの少し、震えていた。
俺は、ノートを閉じて、顔を上げた。
教室の向こうで、エリサが、友達に囲まれて笑っている。
完璧な笑顔。
でも、ふとこちらを見た彼女の目だけが、ほんのりと赤い。
口の形が、小さく動いた。
「ありがとう」
声は聞こえなかった。
でも、きっと、高かった。
(……これが、演技なのか、本物なのか)
まだ分からない。
分からないまま、俺は、いつもの口癖で、小さく頷いた。
「いいよ」
窓の外は、よく晴れていた。
彼女のノートの「好きな人」の欄は、まだ空白のまま。
それが埋まる日が来るのかどうかは、俺にも、彼女にも、まだ分からない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
彼女は今日も、「みんな仲良く」と笑っている。
目だけが、少しだけ、人とは違う意味で輝きながら。




