EP08 尾の火
窓のほうで、小さな音がした。
コツン。
意識が浮くより先に、その硬い音だけが耳に残った。
もう一度。
コツン。
そこでようやく目を開けた。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
端末の時刻を見るより先に、もう朝まで沈んでいたのだとわかった。
窓の向こうの手すりに、小さな影がある。
起き上がって窓を開けると、ヒヨリは待っていたみたいに中へ入ってきた。
翼をひとつ打って、テーブルの端に降りる。
胸の光紋が朝の明るさの中でだけ、かすかに残っていた。
「……ヒヨリ」
名前を呼ぶと、ヒヨリは短く鳴いた。
演出を離れてから、朝の窓を叩かれるのも、もう何年になる。
「昨日は大丈夫だったのか」
ヒヨリは首をひとつ振る。
「へいき」
それでももう一度、羽の先から足元まで目を走らせる。
昨夜の白い跳ね方が、まだ目の奥に残っていた。
怪我らしいところはない。そこでようやく視線を外す。
「昨日の風の話なんだが、明日でもいいか。悪い。今日は早く出る」
ヒヨリは少しだけ首を傾けた。
「……いいよ」
それだけ言って、羽を整えはじめる。
追ってこないのが、今はありがたかった。
端末を開く。
ファントム・アーケード。設備確認。昼のリハ。
そこまで並べたところで、昨夜そのまま寝たことを思い出す。
汗の残りが気になった。
パンをちぎり、ついでに目玉焼きをひとつ焼く。
皿を端へ置く前に、ヒヨリの前へそのまま出した。
どうせ取られる。だったら最初から渡したほうが早い。
そのまま浴室へ向かう。
シャツを脱ぎ、鏡の前に立ったところで動きが止まった。
背中の中央に、斜めの細い線が走っている。
昨夜は気づかなかった。今になって、そこだけ目についた。
洗面台の向こうへ視線をやる。
ヒヨリはいつも通り、目玉焼きをつついていた。
少しだけ迷って、そのまま湯を使う。
浴室を出ると、ヒヨリはもう食べ終えていた。
「なんでもない」
聞かれてもいないのに、先にそう言っていた。
ヒヨリは何も言わなかった。
タオルで髪を拭き、着替える。
今日は少し早く出る。設備側を先に見ておけば、昼のリハに合わせやすい。
制服の上着に腕を通す。
まだ朝なのに、カナの言っていた「入るところでずれる」が妙に耳に残っていた。
ヒヨリはテーブルの端からこちらを見ている。
「行くか」
「いく」
端末を取り上げる。
上着の裾を整え、部屋を出た。
スタッフズ・ガーデンの朝は、もういつもの流れに戻っていた。
通路の向こうでは搬送カートが低く鳴り、居住棟の窓には起きたばかりの明かりがまだらに残っている。
ヒヨリのあとを追って神社の前へ出ると、先に見えたのはホエモリだった。
鳥居の脇、いつもの位置に伏せている。
灰色の毛並みが朝の光を鈍く返し、巻いた毛の先だけがやわらかく浮いていた。
こちらに気づくと、ホエモリはゆっくり顔を上げる。
「朝からご苦労さま」
低く喉が鳴る。
「今日は休みだ」
休み。
そう言われても、ホエモリはいつも通りにしか見えなかった。
「そういうものか」
それだけ返して、視線を鳥居のほうへやる。
朝の光が石段の途中まで差し込んでいた。
赤い柱の影が斜めに落ちて、そのあいだを、何かが横切る。
先に見えたのは、尾の火だった。
足が止まる。
石段の途中に、小柄な獣仔がいた。
狐に似た輪郭。赤橙の気配が先にあって、その奥で尾の炎だけが妙にはっきり揺れている。
朝の光の中にいるはずなのに、そこだけ火の色が濃かった。
輪郭は少し曖昧なのに、そこにいる感じだけは強い。
「へえ。あんたがレン」
いきなり距離の近い声だった。
黒に近い深い紅の目が、面白がるように細くなる。
輪郭はまだ少し揺れているのに、声だけが不自然なくらいよく通った。
「カナから聞いてる。もっと感じ悪いのかと思ってた」
返す前に、そいつは尾の火をひとつ揺らした。
「今日はカナのこと、よろしくね」
あまりに自然な言い方で、一瞬返事が遅れる。
「……ロア」
名前を呼ぶと、そいつは機嫌よさそうに笑った。
「知ってるなら話早いね」
そのまま今度はホエモリのほうへ顔を向ける。
「暇してるなら、あとで会いに来てよ」
ホエモリは耳をひとつだけ動かした。
「同じイヌ科のよしみでさっ」
低く、短く喉が鳴る。
ロアはくすりと笑った。
「なにその顔。固いなあ」
ヒヨリがふわりとホエモリのそばへ移る。
「じゃあまた後でねー」
軽い声が落ちる。
次の瞬間、輪郭が薄れた。
朝の光に溶けるみたいに赤が引いて、石段の途中には揺れた気配だけが残る。
思わず鳥居の奥へ目をやる。
隠れる場所なんてそうない。けれど、姿はどこにも見えなかった。
「今の」
ヒヨリはすぐには答えない。
ホエモリも、伏せたままこちらを見るだけだった。
朝から、知っている側の沈黙は感じが悪い。
ヒヨリが羽をひとつ揺らす。
「しごと、いってくるね」
「わかった」
ヒヨリはもう一度だけこちらを見る。
「……あした」
「ん?」
「めだまやき」
一瞬、返事が遅れる。
「覚えてたのか」
ヒヨリは小さくうなずく。
「じゃあ、あしたな」
それを聞いて、ヒヨリは羽をひとつ鳴らした。
そのまま高層棟の向こうへ飛んでいく。
白い羽の先が朝の光をひとつ弾いて、通路の先へ消えた。
ロアの気配が消えたあと、朝の神社だけが急に元の形へ戻った。
戻ったはずなのに、今のやり取りだけがそこに残っている。
「行くか」
低く喉が鳴る。
少し間を置いて、ホエモリが言った。
「……イヌ科だからではない」
返すところがそこで、少しだけ力が抜けた。
けれど、朝の神社はもう元に戻った顔で、今のやり取りだけが妙に浮いていた。




