EP07 灯りの手前
伏せた端末の黒い画面に、天井の灯りが細く映った。
指先に残っていた熱だけが、まだ離れない。
報告は終わったはずだった。なのに、胸の奥のざわつきだけが、まだそこに残っていた。
カナからの連絡には折り返してある。
遅くなることだけ伝え、時間だけ決めた。
窓の外には見慣れた夜景がある。駅のある側も、遠い区画の灯りも、いつも通りだった。
そのぶん、朝から引っかかっているものだけが妙に浮いて見えた。
席を立ち、本社を出て家へ向かう。
帰り道、ふと後ろを振り返ると、奥の山がいつもより少し近い。
こういう、気のせいで片づけたほうが早いものほど、妙に居座る。きれいに無視できるなら、とっくにそうしている。
高層棟のあいだを抜け、神社の前を通る。
ホエモリの姿はもうなく、鳥居だけが夜の中に立っていた。
もう引っ込んだのだろう。立ち止まる理由もなく、そのまま足を進める。
部屋に戻って上着を脱ぐ。
ようやく肩の力が少し落ちた。
このまま向かってもよかった。
けれど、あの格好のままだと、まだ展望塔の裏側から出られていない気がした。
そこから一歩も出られないまま、カナの前に座るのは違う気がした。
黒のシャツをかぶり、パンツを履く。
手ぐしで髪だけ整えて部屋を出る。
街は、さっきより一段夜の顔になっていた。
高層棟の窓に残る灯りはまばらで、足元の明かりだけが低く続く。
その向こうで、遠い区画の光がまだ細く動いている。
カフェは居住棟寄りにあった。
観光客より、島の人間のほうが似合う店だった。
扉を開けると、深煎りの匂いがした。
客は多くない。カウンターに一人、窓際に二人。
奥の席に、赤茶の髪が見えた。
気づいたカナが、片手を上げる。
「遅い」
向かいに座る。
カナも制服ではなかった。黒に近い短いブルゾンの下に、くすんだ赤がのぞく。
火を細く引いたみたいなしなやかさが、そのまま形になったような線をしている。
「あんまりじろじろ見ないで」
「見てない」
「嘘。見てた」
「制服じゃないから、少し珍しかっただけだ」
カナは呆れたように笑って、ストローを指先で弾いた。
そのあともしばらく、話は先へ進まなかった。
返そうと思えばすぐ返せる話ばかりなのに、会話はそこで切れない。
カナがこういう回し方をするときは、まだ本題に触れたくないときだ。
やがてカナはグラスに手をかけたまま持ち上げず、縁を指でなぞった。
氷の触れ合う小さな音だけが残る。
「……明日の昼、来てほしいんだよね」
「夜の本番じゃなくて、その前」
視線はグラスに落ちたままだった。
「全部を乗せるのは夜だけ。けど、入るところでずれるなら、昼のリハでもたぶん見える。そこを見てほしい」
それが本題だった。
カナが任されているのは、ファントム・アーケードの夜演目だった。
火を使うそのショーは、あの区画では客の足を止める中心に近い。
見た目は悪くない。派手さもある。
けれど、クライマックスへ入るところで少しだけ噛み合わなくなる。
熱を上げる間と、灯りの流れと、自分が踏み込む一歩。
どれも間違ってはいないはずなのに、いちばん揃ってほしい瞬間だけ重ならない。
見てほしいのは、結局そこだった。
すぐには返さなかった。
明日の予定を頭の中でなぞる。
ファントム・アーケード側の設備確認に合わせることもできる。
それでも、簡単に頷くのは違う気がした。
演出から離れて長い。
今の演出家が立っている場所に、半端な顔で口を出すのは座りが悪い。
呼ばれたから行く、で済むほど軽い場所でもない。
いま自分が言えることなんて、たかが知れている。
離れた人間の勘なんて、当たっても外れても始末が悪い。
「……俺が見るのは、筋違いだろ」
カナは少しだけ呆れた顔をした。
「そのへんはもう話してある」
返ってきたのは、あまりにあっさりした声だった。
「担当の演出家にも先に言ってる。名前出したら、むしろ一度見てほしいくらいだって」
カナが水を一口飲む。
そこまで段取りをつけた上で頼んでいるなら、断る理由も薄い。
座りの悪さが消えるわけではない。
ただ、それを理由に突っぱねるほどでもなかった。
「ちょうど明日は、ファントム・アーケードの設備も見に行く。そのついでなら、いい」
それを聞いて、カナの肩から少し力が抜けた。
「時間、あとで送る」
「昼過ぎなら外さない」
「設備優先でしょ」
「そうなったらな」
そこで会話は一度切れた。
グラスの中で氷が鳴る。
カウンターの奥でカップが触れ合う音がして、遅い時間の店にだけある薄い静けさが戻ってきた。
カナはストローを指で遊ばせたまま、しばらく何も言わなかった。
話したいことはもう話したのだろう。
こっちも、今さら余計なことを足す気にはならない。
それでも、席を立つにはまだ少し早かった。
昔のことを、ふと思い出す。
島の中で回していた、小さな催しだった。
季節ごとに子どもを集めて、広場に簡単な舞台を組んでいたころの話だ。
カナは出演側にいて、自分は演出補助の手伝いに回っていた。
本番の直前、衣装の飾りが引っかかったことがある。
それだけなら、ほどけば済む程度のことだった。
ただ、そのときは前の灯りが半拍早く入った。
まだ出る準備の整っていない場所へ先に光だけが届いて、客席の目がカナに集まった。
卓の順番をひとつずらした。
別の光を先に出して、視線を流して、その隙に舞台へ戻した。
やったことはそれだけだった。
けれど、今も残っているのは、そのあとの顔だった。
助かった、とも違う。泣くほど崩れてもいない。
ただ、客の目が自分へ集まる、その一瞬だけを体が先に覚えてしまったような顔だった。
「何」
視線が止まっていたらしい。
「いや」
「今、なんか思い出してたでしょ」
否定はしなかった。
するとカナは、それ以上聞いてこなかった。
「昼、ちゃんと見るから」
言うと、カナはストローから指を離した。
「うん」
短い返事だった。
けれど、さっきまでよりまっすぐだった。
店を出るころには、日付が変わる少し前まで来ていた。
外の空気は、入る前より少しだけ冷えている。
居住棟の窓に残る灯りも減っていて、遠い区画の光だけが細く続いていた。
カフェの前で、自然に足が止まる。
「じゃあ明日」
「うん」
それだけで足りた。
同じ街に住んでいても、帰る方向は少し違う。
並んで歩くほどの距離でもなく、だからといって何か言い足すほどでもない。
カナは先に背を向けた。
黒に近いブルゾンの裾が揺れて、その下の赤が一度だけ灯りを拾う。
見送って、自分も歩き出す。
昼の予定だけは形になっている。
それで十分なはずなのに、さっき思い出した灯りの早さだけが、まだ頭のどこかに残っていた。
順番だけを頭の中で並べたところで、意識が途切れた。




