EP16 白衣の奥
ユラメの言葉から、さほど時間は空かなかった。
奥の通路から、足音が近づいてきた。
急いでいるようで、急いでいない。
一定の速さでこちらへ向かってくるその音に、先に反応したのはユラメだった。低い体を水穴の縁に戻しながら、眠たげな目だけを通路の奥へ向ける。
奥の通路から、白衣姿の女が見えた。
前を閉じた白衣に、丸い眼鏡。首元には大型のヘッドホンが肩がけで引っかかり、片手にはタブレットを抱えている。
少し前かがみの姿勢のまま歩いてくるのに、足取りだけは迷いがなかった。
髪は、今起きたみたいにまとまりが甘かった。
揺れた毛先の内側から、淡い薄紫の色がところどころ覗いている。それでも、こちらを見る目だけは外していなかった。
足音が止まる。
「……はじめまして」
ゆっくりした声だった。
けれど、言葉だけはきちんと届く。
「スズ・ヒビキネです。あなたが、レン・ハドウさんですよね?」
「ああ」
そう返すと、スズ・ヒビキネと名乗った女は小さくうなずいた。
「ヒヨリちゃんから、ときどき話は聞いてます」
「スズ、こんにちは」
ヒヨリが短く鳴くみたいに返す。
当の本人は、何も悪くないみたいな顔で羽をたたんでいた。
顔が広い。
獣仔だから、というだけでは片づかない気もする。こいつらは、こちらが思っているよりずっと広いところで、勝手につながっている。
「私はここで、地理研究科の地質・振動観測を担当しています」
抱えていたタブレットが、少しだけ持ち上がる。
丸い眼鏡の奥で、視線だけがこちらへ戻った。
「本部から、あなたがこちらを見ると聞いていました」
呼ばれた、というより、待たれていた。
その違いだけで、島崎の顔が一瞬浮かぶ。
観測側と、現場側。
面倒な組み合わせを、あの人は最初からここへ寄せていたらしい。そういうところだけは、手際がいい。
「聞きたいのは、昨日の揺れのことです」
タブレットの画面に指が置かれ、細い線がいくつか重なった画面がこちらへ少し傾けられた。
地震か何かの波形だろう、というところまではわかる。それ以上は、見せられてもただの線だった。
「この波形、わかりますか」
「地震の波形っぽい、くらいなら」
「それ以上は?」
「わかるように見えるか」
思ったより早く返事が出た。
スズの目元が、ほんの少しだけほどける。笑ったのかと思う前に、丸い眼鏡の奥はもう元の温度に戻っていた。
「見えません」
「なら聞くなよ」
「でも、見て何か引っかかるかもしれません」
言い方はゆるい。
けれど、外す気はないらしい。
タブレットが引き戻され、画面の端を指がなぞった。細い線が小さく動く。
「では、数字ではなく、肌に残ったほうで聞きます」
肌に残る。
妙な聞き方だったが、引っかかったのは一瞬で、昨夜の感触のほうが強く戻ってきた。
床の下から短く持ち上がった揺れ。
人を流したときの呼吸の浅さ。
提灯の音が、妙に近くなった瞬間。
先に浮かぶのは、揺れそのものではなかった。
「揺れる前に、一回だけ空気が変わった」
言ってから、少しだけ言葉を探す。
こんな場所で口に出すには、手応えが曖昧すぎた。
「風が抜けたみたいな感じがした。実際に風だったかはわからない」
画面の端で、指が止まる。
「風」
「そういう顔するな。こっちも説明できてない」
「いえ」
丸い眼鏡の奥で、目が少しだけ細くなった。
「ヒヨリちゃんに似ていますね」
「……誰が」
「拾い方です。数字の前にあるものを、先に言います」
返す言葉が、一瞬だけ遅れた。
褒められた気はしない。ただ、外れているとも言い切れなかった。
ヒヨリが、なぜか少しだけ得意そうに羽を揺らす。
スズの目元がほんの少しだけやわらいで、それだけで、少しだけ置いていかれた気分になった。
そこへ、通路の奥から声が飛んだ。
「スズさん、さっきの件、確認入りました」
表情はほとんど変わらない。
けれど、視線だけが一瞬で奥へ切り替わった。
話は、そこでいったん切れた。
「……すみません。今すぐは、続けられません」
「仕事ならそっちが先だろ」
そう返すと、小さくうなずいて、白衣のポケットから薄い案内カードを一枚取り出した。
「夜、時間をいただけますか」
「夜?」
「場所は、下層側です。受付で、私の名前を言ってもらえれば通ります」
受け取ったカードには、LOW ECHO と印字されていた。
その下に小さく夜営業の時間と下層フロアへの案内が並び、端のほうには DJ TIME という文字もある。
仕事の続きをする場所には、あまり見えなかった。
「ここでか?」
「はい」
不思議そうに首をかしげる。
こちらのほうがおかしなことを言っている、みたいな顔だった。
「馴染みの店なんです。朝まで開いています」
「朝まで?」
思わず聞き返した。
「はい。何時になっても、大丈夫です」
その大丈夫は、たぶんこちらの大丈夫ではない。
カードを指で挟む。
「……わかった。こっちも片づいたら向かう」
「ありがとうございます」
短く言って、奥の通路へ向かった。
白衣の裾が揺れ、丸い眼鏡の反射が低い灯りを一度だけ拾う。
その後ろで、ユラメが水穴の縁からこちらを見ていた。
ヒヨリは何も言わず、羽を少しだけ体に寄せている。
昼の話は、そこで切れた。
続きだけが、薄いカードになって手元に残った。




