EP15 昼の底
地下へ向かう前に、拾っておく約束があった。
駅へ続く案内表示を横目に、鳥居前へ戻る。
モノレールに乗るのは、そのあとだった。
約束はした。というより、ヒヨリが待つと言って、こちらがそれを受けただけに近い。
それでも、一度受けたものをなかったことにはしにくい。
そういう半端な律儀さだけは、昔から直らない。
鳥居の前まで戻ると、人の流れから少し外れた場所に小さな輪ができていた。
その中心で、ヒヨリが首をかしげている。
特に何か芸をしているわけではない。
話しかけられた分だけ短く返し、伸びてきた子どもの手を、少し不思議そうに見上げる。
それだけで、人が残る。
そういうやつだ。
本人にそのつもりがないぶん、預けた先の手間だけは減らない。
人だかりから少し離れた石畳の端に、ホエモリが丸くなっていた。
眠っているような顔をしているくせに、視線だけはちゃんとヒヨリを拾っている。
少し離れたところで立ち止まると、子どもたちの輪の中でヒヨリがこちらを見た。
一度だけ羽を動かし、それから輪の外へ出てくる。
「待ってた」
「おとなしく待ってる話じゃなかったか」
ヒヨリは一度だけ瞬いた。
「なにもしてない。待ってただけ」
言い分だけなら、その通りだった。
悪びれない調子で返されると、呆れるより先に少しだけ笑いそうになる。
責める場所を先に消してくるあたり、始末が悪い。
子どもたちが名残惜しそうに手を振る。
短く羽を上げて返してから、ヒヨリはようやくこちらのそばまで来た。
「手間かけたな」
ホエモリへそう言うと、伏せていた顔が、ゆっくりこちらを向いた。
「これも仕事だからな」
返事は、相変わらず短い。
引き受けているというより、最初からその場所ごと自分の役目に含めているようだった。
足元に、もう一度声が落ちる。
「行くのか」
「ああ。アース・デプス」
ホエモリはそれ以上、言葉を足さず、代わりに視線だけをヒヨリへ向けた。
連れていくのか、と言われた気がした。
「じゃあ行くぞ」
ヒヨリはすぐにうなずき、今度はちゃんとこちらの少し後ろに回った。
さっきまで人の中心にいたやつが、今度は置いていかれない距離だけを選んでいる。
鳥居の前を離れると、神社まわりの空気が少しずつ後ろへ下がっていった。
代わりに、案内表示の光と、駅へ向かう人の気配が前に出てくる。
静かな場所から、島の表側へ戻っていく感じがした。
モノレールの表示が見えるほうへ歩く。
背中の少し後ろに、ヒヨリの小さな気配がついてくる。
駅へ続く通路に入ると、音の混ざり方が変わった。
来園者の声が、もう通路の前面に出ている。
首から下げたチケットケース、買ったばかりの小さなグッズ、次のエリアを相談する声が案内表示の下をゆっくり流れていく。
人の流れは、すっかり島の一日を始めた顔になっていた。
その端が、ヒヨリの羽の動きで少しだけ引っかかる。
「あー! ヒヨリちゃんだ」
声がひとつ跳ねる。
そこから二つ、三つと視線が寄ってきて、通路の流れが少しだけ遅くなる。
一緒に乗ること自体は、別に珍しくない。
面倒なのは、珍しくないものでも、人の足を止めることだった。
「写真は通路の端でお願いします。立ち止まると後ろが詰まります」
声を張りすぎないように言う。
半分は案内で、半分は自分に言い聞かせるための声だった。
こういうときだけ、社員証の重みが少し増す。
ヒヨリは一度こちらを見上げて、それから少しだけ歩幅を落とした。
わかっているのか、わかっていないのか。
少なくとも、余計に人の中心へ出る気はないらしい。
ホームに上がるころには、ヒヨリ目当ての視線も少しだけ薄まっていた。
モノレールに乗っても、何人かはまだそちらを見る。
子どもが手を振りかけて、親に軽く袖を引かれる。
そのくらいで止まってくれるなら、仕事は増えない。
車両が静かに動き出す。
スタッフズ・ガーデンの生活街区が横へ流れ、住宅棟の間から、さっき離れたばかりの鳥居の屋根が一瞬だけ見えた。
ヒヨリは外を見ていた。
ときどきこちらを振り返るが、騒がしいわけではない。
いつも通り、自分の見たいものを見ているだけだった。
一駅分の移動は、長くはない。
それでも、車窓の明るさが少しずつ削れていくにつれて、車内の声も少し低くなる。
窓の外に岩肌を模した壁面が増え、案内表示の文字がアース・デプスへ切り替わった。
降りた瞬間、冷たいわけではないのに、足元から空気の重さが変わった。
音だけが、少し下へ落ちる。
改札を抜けた先で、街が下へ落ちていた。
透明な柵の向こうに、輪のような階層がいくつも重なっている。
店の灯りも案内板も、下へ行くほど青く沈む。
目で追っているだけなのに、足の裏だけが少し遅れた。
中央の吹き抜けに沿って、エスカレーターが斜めに伸びていた。
階層をひとつずつ噛んで下りていくその先、いちばん底の暗がりに、水面のような青白い光が揺れている。
地底神殿の柱も、探検ライドの看板も、店先に吊られたランタンもある。
けれど最初に来るのは、それぞれの飾りではなかった。
街そのものが、穴の内側に沈んでいる。
見下ろしてから降りていく場所だった。
上から底へ、光も、人の声も、階層をひとつずつ沈んでいく。
ただ広いだけなら、この島にはいくらでもある。
ここは、広さより先に深さが来る。
最初のエスカレーターの脇、低い案内灯の下に、小さな池みたいな穴があった。
縁は丸く整えられているのに、底だけが見えない。
その暗い水面が、音もなく少しだけ揺れた。
青黒い影が、そこから顔を出す。
ユラメだった。
濡れた体を案内灯のそばへにじり出すと、眠たげな目だけがこちらへ持ち上がる。
体表を走る青黒い線は、水の膜の下でぬるく動いていた。
じっとしていれば置物にも見えそうなのに、床より下のものまで先に知っているような静けさがある。
「あ、ユラメちゃんが出てきた!」
近くにいた子どもが声を上げる。
エスカレーターへ向かっていた何人かが足を止め、底の見えない水穴と、その縁に出てきた青黒い影をのぞき込んだ。
そこへヒヨリが迷わず寄っていくと、輪は少しだけ大きくなる。
その二つが並ぶだけで、客の声が一段明るくなった。
騒ぎを気にしているのかいないのか、ユラメは眠たげな目のまま、隣へ体を少し傾ける。
しばらくして、客の流れがまたエスカレーターのほうへ戻っていった。
残ったのは、案内灯の低い光と、水面の暗さだけだった。
「……ご苦労さん」
そう言うと、ユラメの眠たげな目がこちらを見た。
眠そうなだけにも見えるし、最初から待っていたみたいにも見える。
そういう曖昧さが、妙にこの地下には似合っていた。
「……通じてるなら、それでいいか」
返事の代わりに、ゆっくり瞬きが返ってくる。
聞こえていない感じはしない。
返す気が薄いだけだろう。
しばらくそのまま見ていると、その目がふいに細くなった。
「……スズがくるよ」
声は低く、半分寝言みたいだった。
「スズ?」
聞き返すと、入口の奥を見たまま、体が少し低くなる。
腹の下で、床の震えを拾っているみたいだった。
「ぼくのともだち。もう少ししたら、くるから……待ってて」
まだ足音は聞こえない。
それでもユラメには、床の下を伝ってくる何かが先に届いているらしかった。




