EP13 静かな足音
朝の光は、もう部屋に入っていた。
カーテンの隙間から差した白さが先に目に入って、その明るさで、意識だけが先に浮いているのだとわかる。
息をひとつ吸う。
喉の奥が少し乾いていて、背中の筋がうまくほどけない。眠ったはずなのに、身体だけがまだ寝床の底に残っているみたいだった。
まだ耳の奥に、提灯が擦れる音が残っていた。
昨夜のことを思い出そうとすると、景色より先に感触が浮く。
床の下から鈍く持ち上げられた、短い揺れ。揺れそのものより、あのあと人を流したときの呼吸の浅さのほうが、まだ抜けきっていなかった。
もう一度眠れる感じはしなかった。
それに、寝直すほどの時間もない。布団の中にいること自体が落ち着かなくなって、上半身を起こす。
枕元の端末へ手を伸ばした。
夜のうちに入っていた通知の上に、本土側の地震情報がまとまって並んでいた。
沿岸を含めた広い範囲で、昨夜と近い時刻に揺れが出ている。数字だけ見れば、あれもそのひとつだったのだろうと思えた。島だけが妙だったわけではない。
説明はつく。
つくのに、そこで終わった感じがしなかった。
そろそろ来る頃だと思って、窓のほうを見る。
手すりには、もうヒヨリがいた。
朝の光の中で、淡い青と白の羽毛だけがやわらかく浮いて見える。こっちに気づくと、逃げるでも鳴くでもなく、そのままじっと見返してきた。
「……ヒヨリ」
窓を少し開ける。
ヒヨリは待っていたみたいに中へ入ってきて、翼をひとつ打ち、テーブルの端に降りた。胸の紋が薄く光って、すぐに朝の明るさに溶ける。
「起きてたの」
「まあな」
短く返すと、ヒヨリが少しだけ首をかしげた。
今日は、こっちが先に起きていただけだった。
「起こしにきたのに」
「そう見えるな」
ヒヨリは翼を小さくたたんだ。
そのままテーブルの端で足を踏み直し、まだこちらを見ていた。
「眠れなかった?」
そこでごまかすほどでもなかった。
その遅れは、まだ身体のどこかに残っている。
「そんなところだ」
ヒヨリは少しだけ黙って、それから言った。
「……レンは、だいじょうぶだったの」
起こしに来た顔では、もうなかった。
「俺は平気だ」
そう答えてから、今度はこちらが聞く。
「おまえは」
「へいき」
短く返る。
それでも一応、羽先から足元まで目を走らせる。見えるところに怪我はなかった。
少なくとも、それだけは確かだった。
「ならいい」
すぐには続かなかった。
テーブルの上で足をひとつ踏み直して、それから窓の外へ視線を向ける。朝はもうすっかり明るく、何もなかったみたいな整った光が、部屋の中まで入ってきていた。
ヒヨリはまだ何か言いたげにしていたが、今はその先を急がせる感じでもなかった。
「……昨日の続きか」
そう聞くと、ヒヨリはすぐには答えなかった。
窓の外を見たまま、小さく首を動かす。うまく言葉にならないものを、まだそのまま抱えている顔だった。
「……まだ、変なの」
あのあとで聞くと、その短い言い方だけで足りた。
聞き流していい感じがしなかった。
「あの朝から?」
ヒヨリが小さくうなずく。
「うん。なくならないの」
それで、昨日の揺れが別の形で引っかかった。
本土でも揺れている。島だけの話ではない。その理屈はまだ崩れていない。
「……地震も関係してるのか」
ヒヨリは少しだけ黙った。
それから、小さく首を振る。
「……同じ、とは言えない。でも、つづいてる」
それ以上の説明はいらなかった。
昨日のことを、もう別の話として脇へ分けては置けなかった。
「わかった。覚えとく」
そう返しても、ヒヨリはすぐには力を抜かなかった。
「……いっしょに行く」
言うのが遅かっただけで、さっきからもう決まっていたらしい。
「どこへ」
「レンの行くとこ」
答えは早かった。
理由をうまく言えるわけじゃないのだろう。それでも、離れる気はなかった。
「仕事だぞ」
「わかってる」
「わかってるやつの返事じゃないな」
そう返すと、ヒヨリは少しだけ羽をすくめた。
「ここにいたら、わからない」
その一言で、少しだけ黙る。
筋は通らない。
だが、聞かなかったことにするには残り方が悪かった。
「今日は仕事じゃないのか」
そう聞くと、ヒヨリは小さく首を振った。
「休み」
「なら、いったん待てるか」
ヒヨリがこちらを見る。
「本社で打ち合わせがある。どうなるかはそのあとだ」
すぐ連れていく気はなかった。
まずは状況を見る。その順番だけは崩したくなかった。
ヒヨリは少し黙ってから、羽を小さくたたむ。
「……待つ」
納得した顔ではない。
それでも、今はそこまででよかった。
ようやく腰を上げた。
朝はもう十分に明るい。部屋の外も、たぶん何事もなかったみたいに動き始めている。昨夜の揺れも、ヒヨリが拾った違和感も、まだどこにも片づいてはいない。
それでも、先にやることは決まっていた。
扉を開けて、高架通路へ出る。
見下ろした先では、もう街が動き始めていた。
制服姿のスタッフがそれぞれの持ち場へ散り始めている。
小型の搬送カートが音もなく横を抜け、少し離れた案内表示の前では来園者らしい親子連れが立ち止まっていた。
人の流れだけ見ていれば、昨夜のことなんて最初からなかったみたいだった。
ただ、近くで見ると、昨夜の跡だけは消えていなかった。
通路脇の手すりが一部へこみ、床のパネルにも細いひびが走っている。
壁際では作業ロボが無言で補修材を流し込み、その横でスタッフが端末を見ながら誘導表示を仮で貼り直していた。
誰も大きな声は出さない。
朝の流れを止めないまま、そこだけがまだ夜の続きを引き受けていた。
後ろで羽音がした。
振り向くと、ヒヨリがすぐ横の手すりに降りてくる。
「ホエモリのところまで行く」
それだけ言って、ヒヨリは手すりの上でこちらを見たままだった。
「そこで待ってる」
「何時になるかわかんないからな」
そう言って通路へ足を向ける。
ヒヨリは返事をせず、そのままついてきた。追い越すでも離れるでもなく、こっちの歩幅の届くあたりを選ぶ飛び方だった。
鳥居が見えてくると、足が少しだけゆるんだ。
神社まわりの空気は、朝のざわめきから半歩引いたところにある。
境内の前には、ホエモリがいた。
相変わらず、そこにいるだけで足りる顔をしている。
あのあとでも、その顔は崩れていなかった。
「昨日はお疲れ様だったな」
そう声をかけると、ホエモリは鼻を小さく鳴らした。
それだけだった。けれど、返事としては十分だった。
ヒヨリは迷いなくその横へ寄る。
ホエモリは一度だけ視線を向けて、それから何も言わずに受け入れた。最初からそうなるとわかっていたみたいだった。
「置いてってもいいか」
そう聞くと、ホエモリは少し間を置いた。
それから、低い声で短く返す。
「あぁ……だが」
その一言だけで、少しだけ空気が変わる。
やはり、まったく引きずっていないわけではないらしかった。
「今日は静かにさせてくれ」
ヒヨリはホエモリを見上げて、それから小さくうなずく。
「わかった。おとなしくしてる」
本当にそうするかは怪しい。
だが、ホエモリのそばならそれで足りた。
「じゃあ頼む」
ホエモリは返事の代わりに、もう一度だけ鼻を鳴らした。
ヒヨリは鳴かずにこっちを見る。
さっき部屋にいたときより、むしろ今のほうが名残を引いている顔だった。
それでも振り返らずに通路へ出る。
本社へ向かう道は、いつもより少しだけ人の行き来が多かった。
補修に回るスタッフ、状況確認へ向かうやつ、端末を片手に足早に通るやつ。
朝の流れは戻っているのに、足音だけが少し急いていた。
目が合うやつとは、軽く顎を引くだけで済んだ。
向こうもそれだけ返して、そのまま足を止めずに通り過ぎていく。
本社棟が近づくにつれて、頭も少しずつ仕事のほうへ戻っていく。
昨夜の揺れも、結局は朝の仕事の中へ畳まれていく。
そういう話になるのだろうと思った。
気が重いというほどではない。
ただ、軽くもなかった。
揺れも、ヒヨリが拾った違和感も、頭のどこかではまだ引っかかったままだった。
けれど今は、それをきれいに並べるより先に、本社の中へ入るほうが先だった。
自動ドアの前まで来ると、外の空気がそこでひとつ切れる。
朝の光の中にいたはずなのに、ガラスの向こうはもう別の仕事の時間だった。




