EP11 幕前の熱
残っていた点検を片づけながらも、指先の奥にはまだ水音が残っていた。
火気の確認をしているのに、感覚だけがまだ暗い水路に引っかかっている。
灯籠列の固定、導線脇の案内灯、広場へつながる送りの再確認。どれも大きな異常はない。ないものを、ないまま終わらせるのも仕事だった。
確認を端末へ残し、必要なところだけチームへ返す。
再点灯に問題なし。夜の本番前にもう一度見る。そこまで打ち込んだところで、カナから指定された時間が近づいていることに気づいた。
端末をしまう。
視線を切って、ファントム・ランタン前の広場へ向かった。
広場へ出ると、閉じた屋根が先に目に入った。
下りたままの屋根が昼の光を半端に切っていて、視線だけが先に上へ引かれた。
開ききっていない点検扉や、脇へ寄せられた機材箱だけが浮かび、夜の顔より先に、支えている側の線が立っていた。
広場の端では、昼のリハに入る前の確認が進んでいた。
上ではワイヤーを鳴らす短い金属音がして、下では火気の位置を合わせるスタッフが声を交わしている。
その端で、カナがこちらに気づいた。
黒に近い赤の制服。
腰の狐面が昼の光を噛んでいる。
細身なのに、しなやかな筋肉の線は隠れない。
視界の端で、ロアの尾の光が揺れ、その外にホエモリが伏せていた。
「終わった?」
「うつし世めぐりのほうは見た。大きくは崩れてない」
小さくうなずく。
「じゃあ次。アドバイスよろしく」
先に袖口へ向かう。
あとを追うと、ロアが木箱を蹴って先回りし、ホエモリは一拍遅れて立ち上がった。
途中で、振り返る。
「一応、演出家に挨拶しとく?」
気は進まなかった。ただ、ここまで来て避ける理由もない。
挨拶は普通に終わる。
昼は、問題の出る手前だけを組み直して見る。灯りの入りと踏み込みを優先する。要る話はそれだけだった。
立つ場所は正面ではなく、下手袖の少し引いた位置にした。
そこからなら、上の抜けも、降りたあとの足の入りも、灯りが走る瞬間も見逃さずに済む。
ロアは袖の木箱へ飛び乗り、尾の光を小さく揺らした。
ホエモリはその少し後ろで伏せる。
付き添わされている顔のまま、耳だけはこっちを向いていた。
上で短い合図が鳴る。
閉じた屋根の下で、空気がひとつ締まった。
見上げると、上段の影のあいだからカナがこちらを見ていた。
「変だったら、止めていい」
「流れは切らない」
短くうなずく気配がした。
「……わかった」
ワイヤーの張る音が細く走る。
昼のリハーサルが、そこで始まった。
上段から落ちた光が、中空の線へ渡る。
下で炎が立ち上がり、別の影が拍に重なる。
ばらけていた動きが、少しずつひとつへ寄っていった。
出だしは悪くない。
肩の線も、視線の置き方も、よく整っていた。
高い足場を蹴って、ワイヤーで空を切り、別の線とすれ違いながら、流れの中を無理なく抜けていく。
クライマックスの手前で、中心の円形ステージに灯りが細く走る。
まわりの動きが一度だけ薄くなり、そこへ入る。
その直後だった。
右足は出る。けれど、踏み込みだけが半拍ぶん浅い。
そのぶん、炎の立ち上がりと体の入りがひとつだけ噛み合わない。
ほんの一瞬だった。
けれど、見落とすにははっきりしすぎていた。
それでも演目はそのまま流れきる。
中心を抜け、決められた線を最後まで追う。
フィナーレの炎が細く落ち、ワイヤーだけがまだ張っていた。
崩れたわけではない。
けれど、きれいに決まったとも言い切れない。
見落とすには、あまりにはっきり残りすぎていた。
戻ってきた呼吸は、さっきより少し短かった。
顔は崩れていない。
けれど、呼吸だけが先にきつさを拾っている。
「……どうだった?」
「入りまではよかった」
目は逸れない。
そのかわり、次の言葉を待つみたいに、ほんの少しだけ呼吸を止める。
「踏み込みだけ、一呼吸ぶん遅れる」
ロアの尾の光が揺れた。
「ほらね」
軽い言い方のくせに、目だけは笑っていない。
「うるさい」
返しに勢いがない。
それで十分だった。
短く黙る。
「ロア。本番では、こういうときどう回してる」
尾の光がひとつ揺れた。
「横から寄せるよ。流れは切らない。ほんのちょっとだけ」
「視線は」
「そっちもずらせる。やろうと思えば」
短くうなずく。
「なら、一回だけ前へ流せるか」
目が丸くなる。すぐに笑う。
「先に? へえ、いいね。入るとこに、先に薄く置いとくわけだ」
横で黙って聞いている。否定しないなら、話は通じているのだろう。
「できるよ。ちょっとやってみようよ」
「頼む。一回、それで見せてくれ」
ロアは木箱を蹴って下りると、そのまま足場をひとつ、ふたつ軽く飛んだ。
尾の光だけが細く遅れて揺れ、最後はいる高さへするりと上がる。
さっきまで見物する側にいたくせに、入ると決まった瞬間だけ動きがやけに軽い。
二度目の合図が鳴る。
上段の光が落ち、中空の線が走り、外周の灯りが拍に合わせて開く。
散っていた動きがまた少しずつ中心へ寄っていく。
カナが高い足場を蹴って、その流れの芯へ戻ってくる。
クライマックスの手前で、中心の円形ステージに灯りが走る。
その一瞬前、尾の光が進む先を細く引いた。
渦の外縁に、ひとすじだけ薄い光の幕が立つ。
正面を受けるより先に、視線だけが一度そこへ抜けた。
右足が出る。
今度は遅れない。
踏み込みが素直に入る。
光と体の入りが、ほとんど揃った。
そのまま最後まで流れる。
返しも引っかからない。
フィナーレの位置まで、大きくは崩れなかった。
少なくとも、さっきよりは。
灯りが落ちる。
遅れて、焦げた匂いだけが残った。
木箱へ戻ったロアが、こちらを見た。
「……ありがと」
「どういたしまして」
軽く返すが、尾の光は静かで、下りてくる足取りは少し軽かった。
けれど、こちらを見る目は、まだ答え合わせの顔をしていた。
「今のは、よくなった」と先にそう言う。
少しだけ息が落ちる。そこで終わりにならないことも、たぶん最初からわかっていた。
右手が無意識みたいに腰のあたりへ触れかけて、途中で止まる。
「入りは戻ってる。最後まで大きくは崩れてない。でも、根は残ってる。客前なら、もっとはっきり出る」
今度ははっきり、視線が右の腰へ落ちた。
「……そこか」
飾りのない声だった。
そこで、いったん話を切る。
「……今日は、ここで切ったほうがいい」
舞台の中央を見たまま、短く息を整えてから、ようやく肩の力を落とす。
ロアが先に口を開く。
「昼でここまでなら、悪くないよ」
「悪くない、じゃ困るの」
やがて、小さく息を吐く。
軽い息ではなかった。
そこでようやく顔が上がる。
「本番も見て」
頼む、という言い方ではなかった。
強く押しつける声でもない。
ただ、引く気のない声だった。
すぐには返さない。
閉じた屋根の上を視線だけでなぞる。
昼で見えたものが、夜に入って消えるとは思えなかった。
「……設備の確認は続ける。そのあとでよければ、最後まで見る」
そこでようやく、肩から少しだけ力が抜けた。
「うん。それでいい」
短い返事だった。
けれど、さっきまでの座りの悪さとは、少しだけ違って聞こえた。
ロアが近くで尾の光をひとつ揺らす。
「じゃ、夜も集合だね」
ホエモリは何も言わない。
ただ、動かないまま広場の奥を見ていた。
一拍だけその場に残る。
ロアたちは先に袖のほうへ戻っていった。
閉じた屋根の下には、昼の熱と火の匂いだけが薄く残っていた。
夜にはまだ早い。
けれど、あのまま気を抜くには、昼に見えたものが残りすぎていた。
広場まわりの導線、灯籠列、開演前の再点灯。
足元灯、袖側の開閉、火気まわり。
残っていたのは、どれも細かな見直しばかりだった。
どれも大きな異常はない。
ないものを、ないまま終わらせる。
それも仕事だった。
通りへ出る。
眠っていた提灯に、ひとつずつ灯が入っていく。
昼には奥へ引いていた客の声も、少しずつ表へ戻ってきた。
ひと通り終えて、ようやく顔を上げる。
閉じていた屋根の骨組みが、夜の色を受けて昼より高く見えた。
昼に見えた半拍だけが、まだそこに残っている。
あれが夜に入って消えるとは思えなかった。
広場の奥で、開演前の合図が短く鳴る。
時間だった。




