EP10 うつし世の灯
扉の奥は、表の通りより少し温度が低かった。
細い通路の片側に、点検用の小窓が並んでいる。
のぞくと、暗い水路の上に、小舟がいくつか浮かんでいた。
舳先から吊られた灯籠だけが、客を乗せる前の暗さの中で、低く息をしているみたいに揺れている。
うつし世めぐりは、その小舟に乗って進むライドだった。
水路の左右には、古い町並みが実物の建物として組まれている。
低い橋、狭い軒、少し傾いた看板。
その奥へ、立体映像の人影が薄く重なり、灯籠の揺れに合わせて、沈む前の本土の街や、失われた島の祭事が浮かんでは消える。
派手に驚かせる施設ではない。
舟が進む。
水面に灯りがほどける。
古い人形が、客を見ているのかいないのかわからない角度で、ゆっくり顔を向ける。
遠くで祭囃子に似た音が鳴り、神前へ向かう行列が、建物の影と映像のあいだを抜けていく。
昔は、この施設が好きだった。
演出の勉強だと言いながら、何度か乗った。
大きな音も派手な仕掛けもないのに、舟の速度と灯籠の明るさだけで、客の目を少しずつ奥へ連れていく。
勉強だけじゃなかった。
あそこにいるあいだは、少しだけ余計なことを考えずに済んだ。
水路の終わりに近づくと、町並みも、人形も、祭りの声も少しずつ遠ざかる。
最後に水辺だけがひらけて、灯籠を吊った小舟が、暗い水の上にぽつんと残される。
世界のほうが先に終わって、自分たちだけが置いていかれたみたいに見える。
怖がる子どももいた。
黙る大人もいた。
その沈黙まで含めて、よくできていると思っていた。
今は、どこで映像を重ね、どこで人形を動かし、どこで舟の速度を落とすのかが先に見える。
見えるようになったぶん、少しだけ損をした気もする。
それでも、嫌いにはならなかった。
そういう施設ほど、少しのずれが目につく。
小窓から視線を外し、送り側の系統へ向かった。
送り側の制御盤は、細い通路の奥にあった。
壁沿いには、古い筐体と新しい表示面が混じって並んでいる。
何度も更新されてきた跡だった。
見えるところは古い顔を残していても、裏側はそうはいかない。
残すために、だいたい別のものが増えていく。
端末を認証部へかざすと、走行ラインと送りの系統だけが半透明に浮いた。
まず、映像側は見ない。
こういう施設で客が違和感を覚えるとき、原因は映像そのものとは限らない。
舟の進みがほんの少し遅れる。
灯籠の揺れが、音より先に収まる。
そういう小さなずれが、幻を幻のまま支えられなくする。
今朝の立ち上げログを呼び出し、三つ目の区画で止める。
水辺へ入る手前の送りだけ、数値がわずかに揺れていた。
大きな異常ではない。
だから見落とされる。
制御盤を離れ、床下点検のハッチを開ける。
しゃがみ込み、送り軸の継ぎ目に触れる。
指先に返る抵抗が、端末の数値より少しだけ重い。
「……ここか」
固定リングを緩め、位置を合わせ直す。
薄い光の目盛りが軸の脇に走り、ずれていた線が中央へ戻っていく。
手動送りへ切り替えて、一度だけ回す。
小さく水が鳴った。
さっきまで残っていた引っかかりが消えている。
派手な直り方ではない。
客が気づかない程度のずれを、客が気づかないうちに戻す。
それでいい。
ハッチを閉じて立ち上がる。
補正した箇所と再確認の時間だけをチームへ流し、制御室のログにも同じ内容を残す。
近い系統を二つ、短く拾って異常なしを打ち込む。
ひとつ片づいた。
通りへ戻ると、人の声が一段近くなった。
まだ灯らない提灯の下を、客が途切れず流れていく。
さっきまで小窓越しに見ていた水路の暗さが、少しだけ体の奥に残っていた。
通りを戻る途中、ミラージュ・シアターの前を横切る。
昼の時間でも人は切れない。
入口で足を止める客、その横で次の回を案内するスタッフ、扉の向こうから短く漏れる歓声。
あそこは、最初から目を集めるために作られている。
大きな箱の中で、大きな幻を見せる。
迷わせるより先に、飲み込む。
客が座った瞬間から、視線の行き先も、驚く場所も、拍手するところも、ほとんど決まっている。
よくできている。
たぶん、そういうもののほうが、ずっとわかりやすい。
昔の自分なら、もう少し長く見ていたかもしれない。
その裏手に、うつし世めぐりの入口が見えた。
灯籠を吊った小舟が、暗い乗り場で静かに並んでいる。
客足はあるのに、派手に人を集める顔ではない。
水の音も、灯りの揺れも、近づかなければわからない。
ミラージュ・シアターがこの街の表なら、こっちは裏だった。
目が向くのは、だいたいいつもこっちだ。
そうなったことを、まだ少しだけ惜しいと思う。
けれど、さっき直した送りのずれに、今日このあと誰も気づかないまま小舟が通り過ぎるなら、それも悪くなかった。
カナとの約束までは、まだ少しある。
端末を開き、残っている点検の一覧を呼び出す。
灯籠列の固定、導線脇の案内灯、広場へつながる送りの再確認。
画面を指で払って、次の項目を開いた。




