8 逸樹の初恋
大学に入って初めての夏、竜とは違う大学となった。大学では俺と同じようなタイプの人間は割といて、息苦しさはなかった。自由だった。
みんな自分のことを満喫している。
誰かをいじめたりすることに、興味を持つ人間はいなさそうだった。
いつも講義室や大学内のカフェで、独自の作業をしているけれど、時々ホイップ付きの甘い飲み物が欲しくなる。そんな時は、大学のすぐ近くにあるカフェに行って、飲みながら作業する。
その日もカフェで課題をこなしていた。すると隣に誰か座るのがわかった。
他に空いてるのに、わざわざ隣に来たのかとちょっと不満だった。だけど苦情は言えないし、席をすぐ移動するのも気の悪い話だし、と気にしないで続けることにして集中し始めたら、声をかけてきたのには驚いた。しかもその声は女性のものだった。
「うわぁ❣️すごい!こんなのできるんですか?」「え·····」
面倒くさいと思うのが常だけど、女の子が明るい声で話しかけてくるのに驚いた。
前髪で目をほぼ隠している、怪しい状態の俺に話しかけてくる女子は、そういないのに。さらに明るい声でなんか。
見上げれば、くりっとした瞳がキラキラとしていて、テレビでよく見るアイドルのような容姿をしていた。
服も今時のよくあるコーディネートで。(多分)
「あっ、ごめんなさい!馴れ馴れしいですよね。プログラミングっていうんですよね?そういうの全くわからなくて、でもそういうのできる人尊敬してて、頭の中はどうなってるのかなーって·····あっ!ごめんなさい、バカにしてるんじゃないんです。本当に。あの、もしよかったら、簡単な人を歩かすのとか教えてもらえませんか?」
びっくりだった。
俺に話しかけてくるのもだし、プログラミングできる人を尊敬するとか、しかも教えてくれって。
「あ、これ私途中まで作ったんですけど、よく分からなくて·····」
自分のパソコンをカバンから取り出して見せてきた。
既に立ち上がっていて不思議だったけど、そんな風に話しかけて見せてこられたのは初めてだし、間違いだらけのものを見たら放っておけなくなり、教えたり訂正したりして、いつの間にか要望に応えていた。
「はぁ·····疲れたぁ。たったこれだけのことなのに、こんなに入力が必要なんですね。やっぱり尊敬しちゃう」
「いや·····別に·····」
30分ほどだったけど、慣れていない彼女には大変な作業となったららしい。
褒められて悪い気はしない。
俺は少しずつ気を許していた。
「ありがとうございます。勉強になりました。ちゃんと歩く人が出来上がってる。可愛い·····ふふ」
そう言ってまたキラキラした瞳で、満面の笑みで画面を見ている彼女を、不思議な感じで見ていた。
「あの、遅くなりましたが、私、華井るりって言います。あなたのお名前教えてもらっても?」
「あ·····俺は·····東条、逸樹·····」
「いつき、さん?素敵な名前。逸樹さんはここの大学生ですか?」
「はい、君も?」
「あ、いいえ、私はここでアルバイトしているんです。今日は休みなんですけど、ここのカフェ好きでバイトがなくても飲みによく来ます。城南大学です」
「城南·····」
城南大といえば、お嬢様が多くて綺麗な女子が多いと、以前竜がコンパするならこの大学ってほざいてたとこだ。
「あの·····もしよければ、お礼にこの後ご飯行きませんか?」
少し恥ずかしそうに頬を赤らめて、自信なさげに伺ってくる姿は、俺のような女性に免疫のない男の心を動かすには十分だった。
「あっ、いや大したことをしてないから」
「正直に言います。私があなたと、逸樹くんともっと話したいんです!」
上目遣いで手を握られ、そう言われたら自分がもう全身赤くなるのがわかった。
そんな言葉に断る理由をなくしたし、ストレートに言ってくれた彼女に完全に気を許した。
それから週一回ほどこのカフェで会ったり、ご飯を食べに行ったり、土日以外で彼女とのデートを楽しんだ。お金は払うと言ってくれるけど、やっぱりカッコつけたかったし、その時には既に兄さんからの仕事を受けていたから、使う予定のないお金がたくさんあった。
彼女は土日は別にバイトがあるらしく、平日のみだったけど、それを疑問にも思わなかった。
2ヶ月ほど経ち、もうすぐクリスマスというくらいになり、プレゼントを考えて町中をプラプラしていた。
日曜日はやっぱり平日より人が多くて、人の顔もちゃんと見ていない俺だったはずなのに、遠くに彼女の姿を見つけてしまった。
瞬間嬉しくなり、手を挙げ彼女の名前を呼ぼうとした。
「るりちゃ·····」
彼女のそばには、俺ではない男が彼女と手を繋いでいた。しかも彼女は彼にべったり張り付くように、男に体を寄せてる。
·····俺にはしたことがない仕草だ。
何かの間違いか·····友達でも親しかったらありだろうかとか、自分に都合のいい言い訳をしていた。
でもやっぱりそれ以上探る勇気がなく、プレゼントを考えることもできず家に戻ってしまった。
次の日の月曜日に会うことを取り付け、バイト先のカフェで会う約束をした。
予定より30分早く終わったから、早く行って先にコーヒーを飲んでいようとカフェへ向かった。
気持ちが落ち着かなかったからでもある。
すると、正面入口の手前の路地側に、従業員用の出入り口があるり、そこを通る前に声が聞こえる。
·····彼女と別の女の子の声だ。
「えー、それじゃあ今日も会うの?」
「うん、まあね。もう20分ほどしたら来るわよ」
「罪だねー。ウブな男子なんでしょ?」
「·····お互い様よ。向こうは私みたいな女子と付き合えるし、私は紅菱商事との繋がりも持てるしね」 「はぁ、でもいい加減にしないとバチ当たるよ。本命の清水くんにバレたらどうすんの?それにその紅菱の男子くんにバレても、エリート街道おじゃんでしょ」
「清水くんは私を信じてくれてるし、紅菱の友達できて就活手伝ってくれてるって言ってるから」
「ちゃっかりしてるね。まぁ、せいぜい気をつけなよ。じゃあね、おつかれ」
「ん、おつかれ~」
咄嗟に、すぐ後ろにあるもう1つの路地に隠れた。
心臓がバクバクしていた。
信じたくなかった。
今の言葉は、俺にドッキリをするためのものだと、しょうもないネタを考えてしまった。
俺のことを知っていた?
紅菱に入るため近づいた?
嘘だ·····あんなにも優しくて笑ってくれて、手も繋いで·····ただ一度キスしようとしたことがあった。でもやんわり顔をそらされた。気づかなかったのかとも思ったし、それ以来そんな雰囲気にならなくて、俺もどうしていいか分からず、もう少しこのまま保った方がいいのかもと思い直していた。
初めての彼女·····恋だったから。·····恋だと思っていた。
信じていた世界が崩れていった。
明るかったはずの景色も暗闇に包まれた。
どうしていいか、本当のことなのか混乱していたが、とりあえずカフェで彼女と会った。
いつも通り目をくりくりさせ、笑顔で話しかけてくる。
「あっ、そういえば将来ってどう思ってるの?何の仕事しようと思ってる?できたら私も逸樹くんと一緒に働きたいな」
ああ·····間違いじゃないと確信した。
間違いは俺の彼女への信頼だった。
彼女が純粋な少女だという盲信だった。
それでも彼女が俺にいつか、俺という個人を受け入れてくれるかもしれないと、わずかな期待を持ち自分の素性を明かした。
·····ものすごく驚いていた。まさかと言った。
その驚いた表情から不安げな顔に移り、自分は今まで通りで大丈夫なのかと伺ってきた·····目をくりくりさせて。
俺のことを知る前から、1人の人間として見てくれていたんだから大丈夫だと言った。そうなってくれるように願って。そうでなければ大丈夫じゃなくなってしまうんだという、シグナルのつもりでもあった。
『一応家族に顔合わせしてほしい、もし私じゃダメだと言われたら、認めてもらえるように頑張りたいから』と。
小さなパーティーがあった時に、祈る思いで兄さんに紹介した。
少しして俺にドリンクを取ってきて欲しいと頼んできた。
取りに行ったところで、兄さんと彼女の様子を少し見ていた。兄さんに一生懸命話しかけてる。兄さんも彼女をソファーにエスコートしながら、優しく微笑み話をしている。
兄さんのあの笑顔·····自分に気があるんじゃないかと思わせるような色香のある、俺には到底出せないもの。彼女も頬を染めて、嬉しそうに楽しそうにしている。
俺といる時、あんな顔をしていてくれただろうか?
·····愚問だな。
その様子に足を進める気にならず、ワイングラスを持ったまま立ち尽くしていたら、やがて2人は立ち上がり会場の出口へと向かっていった。
焦った俺は2人の後を追いながらまさかと思う。
·····兄さんが俺を裏切るようなことをしないするはずがない。
そう信じ、祈りながら·····
でも心のどこかで分かっていたかのように、2
人が向かった先を見送った俺は、やっぱりと思ってしまった。
ホテルのクラブフロア専用のエレベーターに乗って上がっていった。
呆然とした。
どうしてだ?
普通俺がいると分かってるんだから、どこかへ行くにしても俺に告げていくもんじゃないのか?
俺は彼女の恋人なのだから。
いや·····恋人らしいことはしていない。
好きだと言われたことはない。
凄い、さすがや頭がいいとはよく言われてたけど·····
会場へ戻る気にもなれず、ロビーラウンジに入り隅の席にどさっと体を捨てるかのように座った。
「ふぅ、なんなんだよ·····」
プルプルプルプルプルプル。
少ししてスマホが鳴る。LIME電話だった。
兄さんからだ!
慌てて出るが、兄さんが俺に話しかけることはなかった。その代わり部屋で話をしてるらしい2人、彼女との会話が聞こえる。
『そうなのか?ずっと私のことを思ってくれていたと?』
『はい、逸樹くんとはお友達で。逸樹くんが紅菱商事の次男さんだったなんてびっくりしました。でも私は今まで通り友達でいたくて。
私はずっと桜樹さんに憧れていて、そのために近づいたとは思われたくなくて言えませんでした』
『光栄だが、いくらなんでも弟の想い人を奪うわけには·····』
『逸樹くんとは本当に何もありませんし、私は受け入れていません。友達というスタンスを取っていました。軽い女だと桜樹さんに誤解されたくなかったというのもありましたし·····あの、どうか私を側に置いてもらえませんか?桜樹さんがお仕事で辛い時、一息つきたい時、私がそばにいたいんです』
·····なんだこの甘ったるい声。
友達·····彼女にしてほしいと言っていた。
「は·····」
この裏切り、嫉妬、突き落とされた気持ち·····どう持ち直して·····どう切り替えたら·····
どうすれば元の無関心な自分に戻れるのか?
頭がごちゃごちゃだ。
わかってたんじゃないか?俺のような機械バカに、人を好きになり、好きになってもらえるはずがないって·····
·····滑稽だ。自分ひとりのぼせあがって·····
『じゃあ、逸樹とはもう会わないと?俺はそんなに心が広くないのでね』
また話が始まった。
もうこれ以上聞くことはできないし、聞きたくないと切りかけた。
『そのままだ』
先程までの穏やかな声とは違った、太い、従わせる威力のある声。俺宛だと分かった。
『えっ?』
『いや、逸樹じゃなくていいんだな?』
『あっ、もちろんです。桜樹さん』
『·····そうか。なら全て解決だ。先にシャワーを浴びてくるといい。始まったばかりでその気になれないか?』
『いいえ·····嬉しいです。私もそうなりたかったから·····』
『·····そうか』
少しの無言の間。
抱き合っているとわかってしまう。服の擦り合う音。
『軽食を頼んでおくから、出てきて始める前に取るといい』
『ありがとうございます。行ってきます』
さらに甘い声だ。
少し離れて戸の閉まる音がする。その後すぐに靴音がして、大きな音でドアの閉まる音がした。
そしてまたカツカツと音がして、止まったところで初めて俺に語りかけてきた。
どうやらやはり、繋がったままは意図するところだったようだ。
「聞いてたか?」
「·····ああ」
「そういうことだ」
「どういうことだよ!どんな女も自分に落ちるって証明か?」
いや、そんな馬鹿げた遊びを、兄さんがするはずがないとわかりきっていたけれど、完全に八つ当たりだ。
「逸樹、見極めろ」
兄さんの口癖だ。見極めろ───
今の状況
自分の気持ち
兄さんの気持ち
彼女の思惑。
さすがにもう分かってる。俺は本当は相手にされてなかった。彼女の欲しいものを、手に入れるための駒だった。
ちゃんと計算して俺に近づいて、次に乗り換えられる人間がいればそこへ行き、また上を目指す。
もう分かってた。ただ認めたくなかったんだ。初めて自分に興味を、好意を抱いてくれたと信じてしまったから。
「お前を認めてる人間は、俺を筆頭に大勢いる。父もその一人だ」
「ふ·····」
「なんだ」
「いや·····ありがとう兄さん」
兄さんなりの慰めだ。
常に人の上に立つ兄さんは、相手の立ち位置まで降りてくることはないし、できない·····紅菱を導いていく人間として。
威厳と統率力を兼ね備えていなければならない。
だけど、なのに、今俺のためにその仮面を脱ぎ、一人の兄として支えていると言ってくれてる。味方だと言ってくれてる。──十分だ。
俺はいつも守られてる。
普通の家族とは違うが、それぞれの思いはちゃんと与えられてる。
だから。もう──
「彼女は?」
「さぁな。お楽しみになるか、恐怖になるかは本人次第だ」
「無茶はしないでほしい。彼女はこれからの人生があるから、酷いことはやめてくれ」
「お前が考える必要はない。ああいうタイプはそうそう傷つかない。無理やりには何もするなと言ってある。あとはあの女が決めればいい。平穏に戻るかホストに入れあげるか」
「兄さん!」
「俺の部屋の隣だ」
兄さんは俺にも、どうするかの選択肢をくれた。
聞いた瞬間に走り出した。彼女を守るため、そしてもう一度·····違う、もうお別れだとわかってる。
だけど、落ちてほしくはなかった。その末路を知ってるから。
だけど、彼女は部屋から出てこなかった。何度も呼んだけれど·····
最後に男が出てきて、彼女がうるさいと言ってると、帰れと言ってると言われた。
俺がプレゼントしたブレスレットを、返すと渡された。
俺の初恋だと思っていたものは終わった。
それから俺はますます顔を隠すようになった。
人と関わるのが嫌になった。
あの日あの時、古都に出会うまでは·····




