9 近づく距離と罪悪感
「お兄さんに会う?」
「うん·····突然でごめん。今日呼ばれて古都が記憶喪失だって知って、どんな様子か知りたいみたいなんだ。あ·····でも、もちろん今はまだ会いたくなければ断れるから」
「ううん、会いたくないことはないわ。いっくんの家族だもん。私のこと聞いたら心配するのは当たり前。·····前も会ったことあるのよね?」
「いや·····初めて·····」
「えっ、初めて?でも私達婚約する時とか会ってなかったの?」
「うん·····そうなんだ。会おうと言ってたんだけど…」
「私が事故にあったから?」
「いや·····いや、それもある·····かな。兄さんが忙しいっていうのも…。古都、実はまだ話せてないことがあるんだ」
「えっ、何?何か怖いこと?」
すごく言いにくそうで、でも私の記憶の事だけじゃなく、私達の間には何か隔てられているものがある感じがしてた·····その意味がわかるの?
「実は·····俺は、実家が紅菱商事の経営をしてるんだ」
「紅菱商事?·····何か聞いたことある·····かも?」
「うん·····やっぱり今はそういうのも分からないんだよな」
「ごめんなさい·····」
「あ!違う!責めてるんじゃないんだ。いや、その方が俺にはいいし·····」
紅菱商事·····と言われてもピンとは来ない。でも経営してるってことは、御曹司ってことなのかと少し遅れて理解した。
「·····もしかして反対されていたの?」
だから言いにくかったのかな·····。
「いや、それも違う。その·····俺の家のこと、知られたくなくて話せなくて·····君は違うって分かってるんだけど·····」
「·····私は違う?」
「ごめん·····その言い方も悪いよな。結局は信じてなかったと思われても仕方ないな」
「いっくん、何のこと言ってるの?私はっきり言ってほしいの。記憶がないことで何か良くないことが起きてるなら、はっきり言って。私のことがしんどくなった?面倒になっちゃった?」
そう·····ずっと私の心の中にあったこと。
いっくんはずっと優しくて私を支えてくれて、心強かったし安心できた。でも、私達は恋人という雰囲気を持っていない感じがした。2人の間に大きな溝があるような。
初めは私が記憶を失くしていて、恋人関係を覚えていないから、私への配慮でそういう感じになっていると思っていたけれど、やっぱりそれだけじゃない何かを感じていた。
だから、今自分で口に出して、改めて私のことを負担に感じるようになっていたのかもしれないと思ってしまった。気づいてしまった。
そう思うととても悲しくなった。
どうして悲しく?
一人になってしまうから?理解してくれる人がいなくなってしまったから?
「そんなわけない!しんどくなるなんてない。面倒だなんて一度も思ったことない!それどころか、もっと俺に甘えてほしい、よりかかってほしい。俺だけが、古都のことを守れる存在でいたいって。ごめん、こんな独占欲の強い男、怖いよな」
「怖くなんてないわ·····よかった·····」
「え?」
自分の心の中にある執着的な思いを、思わず焦って口に出してしまった。でも、俺が古都を「面倒だ」と思ったなんて誤解して、俺の元を去られたらって思ったら、声に出さずにはいられなかった。
言った後に、俺が怖いとか重いとか·····敬遠されたらというネガティブな気持ちが顔を俯かせた。
でも、彼女から返ってきた言葉は全く違っていて、びっくりしてすぐ顔を上げた。
「私のこと、もう重荷でしかなくなってきていて·····だから私たちの間には、何か越えられない壁を感じてしまうのかなって··········本当に大丈夫なのね?」
目に涙をいっぱい溜めて、でもこぼれ落ちないように、少し上を向いて目をさまよわせていた。
涙を何とか止められた彼女が、俺の顔を見てくれた。
その様子に、どうすることもできなかった。
彼女の肩に手を回し、勢いよく抱き寄せた。
「ふぁっ」
「好きなんだ!好きすぎてどうにかなりそうだ。古都に触れたら·····感情のまま触れたら、傷つけてしまう·····でも、今はこうさせて。愛してる」
会った時よりも、もっと·····ずっと。
どうしようもないくらい。
抱きしめた。思いっきり。
古都の体は思ったより·····思っていたけれど、実際触れてみると、とても細くて折れそうなくらいで·····でも柔らかくて甘い良い香りがする。
初めはびっくりしている様子だった古都の手が、自分の背に回され、そっと抱きしめ返してくれたのが分かると、もっと離したくなくなって力が入ってしまった。
「あっ·····ちょっ·····と苦しいか、な、いっくん·····」
「ごめんっ!大丈夫?」
その声で我に返って、パッと彼女を離した。
目が合う。
「だ、い、じょぶ」
少し赤くなった古都、恥ずかしそうにしてる。
可愛いしかない。
いや、そうじゃない。良かった。
これ以上調子に乗って、嫌われたら嫌だと思い直し、彼女からもう少し距離を取ろうと思って動いたら、古都が俺の腕をそっと掴んだ。
また目が合って、何も言わない古都を見つめた。
どういう意味かわからなくて頭の中で焦り始めた頃、古都が顔をつむいたまま、俺の胸に顔を寄せてきてくれた。
何だこれ、夢か?
「そんなに好きって言ってくれてるなら、もっと抱きしめてて」
·····俺死ぬのか?俺のピークか?
「いっくん?」
固まってる俺を見上げる。
古都は頬を赤らめて、様子を伺うように上目遣いで覗き込んでくる。
そんな仕草に、俺の理性が投げ捨てられそうだ。
めちゃくちゃ強く抱き締めたくなる!それ以上も·····でもダメだ!
俺は·····本物じゃない。
だからこの理性を捨てるわけにはいかない。
でもそっとなら許されるはずだと、何の根拠か、そんな逃げ道を探り出した。
今度はゆっくり、そっと古都を自分の中に閉じ込めた。ふわっと香る古都の香り、柔らかい髪が俺の頬に触れる。心地よくて、古都の頭に頬ずりする。古都もぎゅっと腕を背に回して、俺を抱きしめてくれる。
少しのこの間が永遠に続けばいいのに·····
壁を感じる·····それは当たり前だよな。本当は他人なんだから。
·····言わなければいけない時に来ている。
そもそも俺は初めから、最低なことをしてしまったんだ。
抱きしめながら自分のした事の罪深さ、彼女への積もり積もっていく想い·····
彼女が知れば誰も信用できなくなるかもしれない。これからどうして生きていけるか·····
古都が壊れてしまうかもしれないと思うと、話す勇気が萎んでしまう。
「本当に反対されてるとかじゃないの?」
古都はもう一度聞いてきたことで、俺の決断は消えた。
「·····違うよ、本当に仕事が忙しかったのも本当だけど、兄さんはともかく、父親はどう考えてるかわからないから言えなかったんだ。普通の人間とは違う思考の持ち主だから」
「紅菱って·····もしかして大企業?」
「まぁ·····そこそこ」
俺にくっついてくれていた古都は、体を少し離してスマホで調べだした。出てきた長いスクロールで情報をずっと見ていた。
そしてゆっくり顔を上げ、俺を見た。びっくりしてるんですけどという顔で。
可愛いんだけど。
またぎゅっとしたくなる。
俺はずっと古都を離したくなくて、彼女がスマホを見ている時も、彼女の腰に両腕を回して抱いていた。
「·····私で本当にいいの?大丈夫なの?」
「古都じゃないとダメだ!古都といられないなら、俺はこの場所にいるつもりはない。古都は何もなくなった俺は嫌か?」
聞いた瞬間怖かった。昔の記憶が蘇ったから。
古都は違うと分かってるけど、トラウマとなった俺の出生·····家。
「家を捨てるってこと?ダメよ、そんなことしちゃ」
「!」
古都もやっぱり肩書きが·····紅菱の名前が重要なのか?サッと血抜きの低い思いがした。
いや違う·····きっと違う。古都はそんな人じゃない。
「大切な家族を簡単に捨てるなんて言っちゃダメよ。私はもう1人なんだから」
「古都·····」
「いっくんのこと嫌ってるんじゃないんでしょ?大きな会社の家庭って、きっと私たち庶民のような感じじゃないんだろうけど、でも血が繋がっていて、それなりに交流がある家族なら捨てちゃダメよ。私に会いに来るってことは、少なくてもあなたのこと気にかけてくれてるからでしょ?何でもない会話しかなかったとしても、会話できる家族がいるのはいいと思う」
「古都·····」
「ごめんね。内情を知りもしないくせに生意気よね」
「そんなことないよ。俺のために言ってくれたんだ」
「あなたのためっていうか·····私のためでもあるの。だってあなたは後悔するわ、きっと。そうなった時、今のまま私を好きと思ってくれるかわからない。それは嫌だと思ったの。私、あなたの悲しい顔は嫌だなぁって」
「抱きしめたい」
「えっ⁉️」
言葉にしたら許可を貰うまで待てなかった。
古都なら信じられる。
たとえ万が一、昔のようなことになったとしても、古都がそばにいてくれるならもういい。
ゆっくり引き寄せ、抱きしめた。ふわっとまた古都の香り。
「ありがとう古都。そう言ってくれるってことは、俺のそばにいてくれるってことだと解釈してもいい?少しは俺に、気持ちを寄せてくれてると自惚れていい?」
「うん·····いい·····」
ゆっくり古都も俺を抱きしめて答えてくれた。
そうしたら、次の欲望が出現してきた。
ゆっくり古都と目合わせるように動く。
古都が気づいて見つめ返してくれた。
少し恥ずかしそうに。
「キスしても?」
今の俺が持つ、精一杯の理性。
急に奪ったら、奪おうとしたらまた前のようにかわされるかも·····嫌なのかも·····と思ってしまう。
古都に嫌われたり、怖がられたりしたら絶対耐えられない。今はもう離したくない。
仕方ないと諦められないほどに、好きになってるから。
俺の真剣な言葉に驚いた顔を見せたけど、ゆっくり頷いてくれた。
だからそっと口付けた。
どれくらい経ったのかわからない。
一度離れたけど、もう一度確かめたくて触れたくて口付けた。
古都は目を閉じて、また受け入れてくれた。
許されているのをいいことに、俺はそのまま彼女の目尻、頬、額へと唇を移し、最後にまた唇に戻った。
──少し開いた唇の間に入り込んだ。
自分が男だと改めて認識する。
欲を止められなくなって、そのまま強く抱きしめ彼女を堪能する。
「ん·····」
彼女の声が一層自分を刺激して、彼女を抱きしめていて手が勝手に動き出す。
その瞬間、彼女の体がビクッと反応したことで、俺も我に返った。
「ごめん!!怖がらせた!大丈夫?これ以上しないから!」
慌てて彼女から唇を離したものの、離したくなくて、そのまま抱きしめて懺悔した。
「あっ·····」
「ごめん·····」
そう·····俺は古都が記憶喪失で、その状況を利用した偽物の婚約者なんだ。だから、古都が俺を好きだと思ってくれたとしても、それは婚約者という肩書きがあるから。
ゼロから俺を好きになった気持ちではないはずだ。ただ隣人という立場からだったら、親切な人や面倒見のいい人ぐらいで終わっているかもしれないんだ。
それなのに彼女に口付けてしまったり、それ以上のことをしてしまったら、いつか記憶が戻ったら深く深く傷つくだろう。
·····そばにいられるだけで十分だと思っていたはずなのに、いつの間にかどんどん欲が出てしまう。
抱きしめているこの腕も、ほどかなければとゆっくり腕を緩めて離れようとした時、今度は逆に俺に回されていた両腕に、ぎゅっと止められた。
「えっ·····」
「離れないで·····違うから·····嫌とかじゃないから。びっくりしただけ」
「いや、でも·····」
まさか古都が·····こんな夢みたいなことがあるのか?
「私も好き·····」
「!」
こんなこんな俺に気持ちをくれるのか?
俺は酷いことをしてるのに。
今彼女に告白するべきなのかもしれない。
これ以上は俺の理性が保てるか、自信もなくなってる。
「古都、俺はまだ君に言えてないことがあるんだ」「えっ、なに?まだ何かある?」
俺は言わなければいけないと、わかりつつも勇気が出ない。
怖い。
今、向けてくれているこの眼差しが、蔑みや軽蔑、嫌悪に変わってしまうかもしれない。
·····いや、自業自得だ。
古都が絶望して、傷ついて、誰も信じられなくなる可能性もある。
今言ってしまうのは、自分の心を軽くしたいだけなのかもしれない。
だから、話すべき内容を変えた。
「俺は昔·····付き合ってた人がいた·····というか、そう思ってたのは俺だけだったんだけど·····」
言う必要はなかったのかもしれない。
あの子との間にはキスもなかった。
手を繋いだぐらいだ。
でも古都以外の女性に心を寄せた、寄せてたと思ってた事があり、俺が顔をより一層晒さなくなった理由を、話さないといけないと思った。
そして古都が自分と出会ってくれたから、自分の中で何かが変われたということも。
古都は俺の情けない恋の話を何も言わず、笑うこともなく、もちろん貶すこともなくずっと聞いてくれた。
「──情けないだろう。俺はコミュニケーションがうまく取れないし、気の利いた言葉をかけることもできない。あるのは、少し人よりできるこの情報系の頭脳と、大きな会社の息子という肩書きだけだ─」
「だけ、じゃないよ。こんなフリーで活躍できるほどの頭脳を持てる人はそうそういないし、それに
あなたが小さい頃から勉強してきたからこその結果でしょ。とてもすごいし、尊敬できる。それに大企業の子供っていうのも、選ぶことはできないし、あなたの実力ではないかもしれないけれど、立派な武器だと思うわ。もちろんそれだけを見て、あやかろうとする人には、警戒しかないしないといけないし、ひとを見抜く力を持たないといけないけれど」
「古都·····」
「その人との事は、あなたがやっぱり立派な肩書きを持っているから、起こったことかもしれないけど·····その人は許せないけれど、敵は誰にでもいると思う。どんな人でも図られたり貶められたり·····残念ながら卑怯な人は、いい人と同じぐらいいると思う。お兄さんのやり方が良かったと思えないけど。あなたが大切な弟だったから、中途半端に思いが残らないように、あなたに恨まれたとしても分かって欲しかったんじゃないかと思うわ」
「うん、わかってる。兄さんは俺のために、やりたくないこと、面倒なことを引き受けてくれたんだ。兄さんに対して恨むとか全くない。
自分が見抜けなかったことの方が情けないし、不甲斐ない」
「それにね·····」
「それに?」
今まで悲しそうに話してくれていた古都は、今度は少し恥ずかしそうにしてる。可愛いんだが·····
その仕草に、髪を耳にかける仕草にやられる。
思わず目元にキスしてしまった。
「あっ、ごめん!可愛いすぎて」
「ううん、嬉しいかな·····」
殺す気か?
「それにね、そういう経緯があったからこそ、あのエレベーターでの私達の会話があったのよね。だとしたら私には·····酷くて許せないことだと思うけど、でもそれがあってくれたからこそ、あなたとの今があるわけで·····ごめんね、こんな風に思って。あなたはすごく傷ついたっていうのに」
「古都·····そんな風に思ってくれるの?嬉しいよ。古都·····うん、そうだ。それがあったからこそ、君に出会えて恋することができた。·····そうか、無駄でも不必要でもなかったんだな。
必然の出来事だったんだな。よかった。ありがとう·····そんな風に言ってくれて·····古都、愛してる」
「っ·····私の方こそありがとう·····あの、私も·····愛してます」
そう言いながら、コツンと俺の胸に顔をうずめた。こんな愛しい人をこれ以上騙したくないし、騙せない。この笑顔や優しい眼差しを失うかもしれない。でももし許されたなら·····
「いっくん?あっ·····LIMEだ·····」
このLIMEのおかげで、また俺の覚悟は今じゃなくなってしまった·····救われたような、焦る様な·····
古都にLIME。
珍しい·····初めてか?誰だ?
「あっ、横田さんだ。今度ご飯に行こうって。どうしたら·····」
「ああ、会社の··········古都の思うようにすればいいよ」
話がそれたことにほっとしたものの、彼女の過去をある程度知っている人物と、接触することに不安を覚えないはずはない。
でも俺にそれを遮る権利はない。
「う·····ん」
「·····もし会うことに抵抗があるなら、もう少し気持ちが落ち着いてから会うようにすればいいし、会う気にならないなら、今は体調不良だから、またこちらから連絡するって言っとけばいいんじゃないかな」
「ええ·····そうね。もう少し時間置いてから会おうって言ってみるわ」
「うん」
少しほっとした。
ぐぅ。
しまった!腹が鳴った。
「あ、ふふ·····お腹すいた?もう夕方だもんね。さっと作れるものにしようか。前もって何かつまむ?」
「恥ずかしいな。お願いします」
「恥ずかしがらないで。私だってお腹なるんだから」
優しく微笑む古都はエプロンをつけ、キッチンに入っていった。その背を見ながら、いつまでもその笑顔が続いてほしいと、俺に向けてほしいと願った。
だけど近々俺は覚悟の続きを、果たさなければならない·····




