10 嫉妬
「兄さん、こちらが佳倉古都乃さん」
「古都、この人が俺の兄の東条桜樹、紅菱商事のCEO」
紹介から始まった。
今日、この時が早く終わってくれ。
2人は挨拶をし合ってる。目を合わせながら·····
外で会うより、馴染んだ俺たちの家で会う方が、古都の負担も少ないように思えたから、兄さんに来てもらった。
·····今2人は見つめ合ってる。
兄さんは古都がどんな女性か、俺を騙そうとしていないか、紅菱にとって害がないかを見極めるために·····
古都はまじまじと兄さんを見てる。これだけ端正な顔立ちで、男としての色気も持ち合わせていれば、誰でも見入ってしまう。
だから古都も·····古都も兄さんに持っていかれてしまうのか?·····それは絶対に嫌だ!
俺は古都と2人でソファーに並んで座っていて、兄さんは向かいにいるから、手を出されるはずはないのに、感情的にも物理的にも彼女の体を抱き寄せて密着させた。
「えっ?あっ、いっくん?」
「何をしてるんだお前は?」
「·····別に普通にしてるけど?」
「·····まあ、いい。佳倉さん、体調の方はどうだ?」
「あっ、はい、ご心配おかけします。記憶のこと以外は問題ありません。ただ、私のことで逸樹さんに負担をかけてしまって、申し訳なく思っています。会社の方にもご迷惑をおかけしてますよね。申し訳ありません」
「古都?前にも言ったけど、会社には何も皺寄せは行ってない。ちゃんとこなしてる。そんな風に自分のせいだと思い込まないで」
古都は頭を下げている。
そんなことをさせるために、兄さんに合わせたんじゃない。
「頭を上げて·····弟の言うように仕事の件では何一つ被害は被ってない。それに女1人の為に仕事の出来が左右されるようじゃ、うちの仕事は任せられない」
「兄さん言い方!」
「これがいつもの俺だろう。単刀直入に聞こう。このまま記憶が戻らなければ、どうするつもりか聞きたい。
そして、紅菱の家に対してどう思っているかも」
「兄さん、彼女の人となりが大切なんだから、記憶あるなしは、2人の間でも紅菱絡みでも問題ないだろう。紅菱は彼女には今は関係ない。まだもう少し体調が良くなってからでも·····」
「大丈夫よ。いっくん、ありがとう。お兄さんは当たり前のことを聞いてると思うわ。あなたへの心配は家族として当たり前。会社のトップとして上に立つ人の責任でもあるもの」
「古都·····」
「記憶が戻らなければ·····いえ、戻ったとしても会社を辞めてしまっているので、どこか、どこでも私の状況を、理解してもらえるとこを見つけて働きたいと思っています。いつまでも逸樹さんに、ずっともたれかかっていてはいけないので。
それから紅菱のお家ということですが、正直私にもどう思っているかと言われても、よくわからないというか·····それは私は逸樹さんのそばにいられないということでしょうか?」
「古都、俺はそんな風に思って欲しくない。家は·····」
「いっくん、お願い。私を守ろうとしてくれてるのはわかってる。けれど、今はお兄さんの懸念を取り払えたらと思ってるの。ね?」
「わかった·····ごめん」
「·····なんだ、既に尻に敷かれてるのか?」
ニヤリと片方の口端を上げ、意地悪そうに、からかうように笑う兄さんを睨んだ。
「続けてくれ」
「はい、私達が婚約したことも覚えていなかったので、お兄様が、ご家族がどう思っていらしたかももちろん分かりません。ですが、もし許されるなら私は逸樹さんのそばにいたいです。彼が好きだったから婚約までしていたのでしょうが、また私は彼を何もないところから好きになりました。逸樹さんの優しさ強さが全部が好きです。やっと自分の気持ちが分かったところで、逸樹さんのお家がとてもすごいということを知って·····正直どうしていいかわかりません。でも彼が私を必要としてくれるなら、私もそばにいて彼を幸せにできたらと·····それに私も凄く幸せなんです」
「最近、逸樹の素性を知ったと?それまで一緒に住んでて、しかも婚約者という男の素性を知ろうとは思わなかったのか?」
「あ、確かに·····私は·····そうですよね。ただ、自分がその日、1日を生きることで精一杯でした。逸樹さんとここで暮らすようになった時、この家の豪華さに驚きましたが、フリーのプログラマーだと聞いて仕事もされていたので、それだけすごい能力のある人なんだと思って、自分で納得していました」
「兄さん、古都は無駄なお金を使おうとしなかったんだ。一緒に出掛けても何も欲しがらず、俺が食器を揃えてほしいと頼んで、やっと数種類こないだ買ったところだ。服も以前から持ってた服を2人で前のマンションに取りに行った」
「結婚するまでの小芝居だとしたら?」
「兄さん!」
「現にお前は一度騙されてるだろう」
「お兄様は私にどうしろとおっしゃりたいのですか?私は遠回しな言い方に、頭を使うような駆け引きは苦手みたいです」
「肩書き、金が必要なら、当面の生活に困らない程度の用意はする。一生分などと調子に乗れば、後悔することになる」
「え··········」
「兄さんいい加減にしてくれ。俺の人生だ、俺の選んだ人だ。彼女はそんな人じゃない!」
「お金は必要です」
「え、古都?」
「·····そうか、そうだろうな」
「2人で生きていくための、生活していくためのお金は2人で稼ぐべきで、お兄さんから施してもらうものではありません」
「そうきたか。婚約者·····となっているが、それがもし嘘だったらと思ったことはないのか?逸樹を全面信用してるが、証拠はない。周りの巻き込んだ嘘かもしれない。何もない、分からない1人の世界よりはいいか?」
片側の口端を上げ、ニヤリといった風な笑みを作る。普通の男性なら、ただの性悪な人間にしか見えないのだろうけど、これほど端正な顔立ちをしていれば、その表情さえも男性としての魅力として映る。
でもいっくんの方が、お兄さんの桜樹さんより柔らかな顔立ちで、私はいっくんの方が好み·····好きになった贔屓めかもしれないけど。
私を迎え入れたくないのだろうということは、なんとなく予想してた。問題しかないし、両親もいないなら、紅菱の後ろ盾になるはずもないから。
初めのうちに、いっくんの家族のことを知っていたら、きっと尻込みして、絶対一緒には住まなかったし、別れてくださいと言ってたと思う。
でも、今、逸樹さんを知ってしまった今は、彼が私に別れを告げない限り離れたくない。
これはわがままだろうか?彼のことを思うなら離れるべきなのか?
何度となくこの日までに考えたこと。
結局決断できないまま、お兄さんに会うことになった。彼が私を甘やかしてくれるのが、心地よくて幸せで、だから私も彼を幸せにしたい。
できてる?できてるの?
どうしたら幸せ?
でもわかることは、今お兄さんの言ったことに返すこの言葉。
「嘘は必ずしも悪ではないと思います」
「··········」
「嘘には、人を貶めたり傷つけたりするものと、相手を想ってする行動や言葉の嘘があるはず。
だから、嘘をついてもいいとは言えませんが、少なくとも逸樹さんは、私を傷つけるための嘘は言わない。そして逸樹さんが嘘をつくなら、私はそれを受け入れます」
「古都·····」
複雑な顔·····嬉しそうな悲しそうな、苦しそうな·····そんな逸樹さんに微笑んだ。
逸樹さんは、まだ言えてないことがあると言ってた。何か私に嘘を言ってることがあるのかもしれない。
日々の中で、そんな風に感じていた。
でもこれが私の今の気持ち。
あなたのことをどう思っているか·····
あなたを傷つけた人とは違うと、あなたにわかってもらえればいい。
そんなことを思って、今までのことを思い出すのに目を伏せていたら、ふわっといつもの香りと感触に包まれた。
「あっ·····いっくん·····ちょ、お兄さんが·····」
「愛してる。兄さん·····古都が、紅菱の名前が欲しいとしてもそれでもいい。もちろん古都はそんな人間じゃない。
古都·····俺のそばにずっといてほしいんだ。生きる意味は君だから」
ゆっくり強く抱きしめられ、思いを告げられる。
お兄さんが目の前にいて、とても恥ずかしいのに。彼の気持ちをしっかり受け止めたくて、私も彼の背に腕を回した。
1番初めに抱きしめられた時、本当にこの人と付き合っていたのかと信じられなかったけれど、今はすっかり馴染んで、この感覚がしっくりくる。
当たり前になってしまっている。安心する。何よりドキドキして嬉しくて幸せで。
「·····俺は何を見せられてる?」
とうとう桜樹さんが大きく息を吐き、うんざりした声で言った。
「今、兄さんが見てるのが、俺たちの真実だよ。もういいだろう?彼女がそんな人じゃないと分かってるだろう。これ以上はマジで許さない」
兄さんを睨みつけた。
初めてかもしれない。兄さんに対してこんな感情を向けるのは。
古都がもし、るりのような女なら、とっくに調べ上げているはずだから、俺とここまで暮らす前に、何らかの手を打っていたはずだ。
「えらく遅い反抗期か?あながち悪い気分じゃないんじゃないのか?彼女の本心が聞けたんだから。礼を言われてもいいくらいだ」
「えっ、どういうことですか?」
よくわからないという感じで、遠慮がちに古都が口を開いた。
「悪いが、試させてもらった。まぁ、確認のためでもある。君がこいつのことを異性として見れない様なら、こいつに現実を教えないといけないからな。だが、君も少なからず逸樹を想ってくれている様だ。
ただ、もし一緒暮らすのに抵抗があるなら、部屋は別で用意できる。別に婚約してるから、一緒に暮らさなければならない理由もない。新しいマンションのモニターとしてなら、フリーで入ってもらえる独身女性専用のマンションがある」
「兄さん、古都は·····」
「俺は彼女に聞いてる。記憶がなくても普通の生活はできるし、今の状況を受け入れるようになってるなら、女性専用マンションなら問題ないだろう。選択権を持ってもいいんじゃないのか」
·····兄さんの言ってることはもっともだ。それにきっと真実が明るみに出た場合、俺が完全に彼女を、縛っていたことにならないようにも配慮されている提案だろう。
なんだかんだ言っても兄さんは俺を、できる限り守ろうとしてくれてる。
それが正しいことかは別として。
「私は逸樹さんがいいなら一緒にいたいです」
そう言って俺の方をチラリと、様子を伺うように見てきた。
やっぱり可愛いしかない。
それに俺の答えは決まってる。
「もちろん俺も一緒にいたい」
彼女の返事も待たず抱きしめた。俺が今できることはしてあげたい。これが一時の夢だとしたら、とびっきり浸りたい。
自分勝手だと分かってる。
その間は俺はもちろん幸せだけど、彼女にも幸せだったと思ってもらえるように。
だから、どんなに彼女が俺に、心を許してくれても汚してはならない。
騙されたけど、幸せな時間だったと少しでも思ってもらえるように·····キスはしてしまったけど。
「だから·····お前は。ふぅ·····ではいいんだな?このままで。君が選んだということになるぞ」
「はい、私がそう決めました」
「わかった。·····よかったな、逸樹。でもちゃんと最後まで面倒見るんだ」
「もちろん責任を持つ。なるべく迷惑かけない·····」
「お前のかける迷惑なんか、蚊がまわりを飛ぶようなもんだ」
「それはそれで結構ストレスじゃ?」
「え·····」
「く·····お前の婚約者はズレてるのか」
「可愛いだろ?普段は凛としてるのに、たまにふわふわした感じになるんだ」
「ん?え、それはどういう·····」
「くだらん。もうたくさんだ。イチャつくのは俺が帰ってからにしてくれ」
「じゃあもう帰る?」
「·····追い出すな。少し遅くなったが、昼食を用意してる」
「今から行くのか?古都、用意できる? 」
「大丈夫だ、ここに来る」
「え、ここにですか?」
「呼んだのか兄さん·····」
「·····すごい!本当にあるんだ·····家に料理人呼ぶって·····ドラマみたい」
「私といればこんなの当たり前だ。こいつよりいい思いさせてやれる。どうする?」
「え·····」
「兄さん!いい加減に·····!」
また兄さんの試しが始まったのを、止めに入ったけれど、正直もしかして…いや、古都はそんな女じゃない。分かっていても過去の傷が俺を弱くさせ、勝手にifの世界にさまよう。
「そんな贅沢ばかりだと体壊しそうですよ。それに太ってしまう。そうしたら、逸樹さんに愛想つかされるかも····· ね?それに私が一番食べたいのは、逸樹さんが作ってくれる親子丼ですから」
「古都·····あ、いや、どんな古都でも俺の気持ちは変わらないから!」
「親子丼?お前そんなの作れるのか?料理なんかできなかったはずだが」
「ありがとう、いっくん。·····そうなんです。作れなかったんですけど、私のために作ってくれたりするんです。今ではちゃんと美味しいんですよ。一度食べてみてください」
「·····そうか、なら今度ご馳走になろう。逸樹、楽しみにしてるぞ」
「·····兄さんの口に合わないよ。それに料理は古都のためにしかしない」
「いっくん?私に作ってくれた時、お兄さんの分も作れるでしょう?」
「う·····」
「····· お前は血の繋がった兄に対して何なんだ?」「意地悪する人に優しくできない」
「ふふ·····お兄さんは心配なのよ。わかってるでしょ?それに、ちゃんと私に妬いてるの」
「妬いてる?」
「·····何を言ってる?」
ほとんど表情を変えなかったお兄さんが、眉に皺を寄せてしっかり感情を出したのが、『私に妬いてる』と言われたこと。
いっくんを心配してるのはもちろんだけど、きっと私に一生懸命ないっくんが、面白くないんだと感じたから。
大財閥の家族、兄弟にしては珍しく、しっかりとした絆があるんだなと思えた。もう血の繋がった両親のいない、1人っ子の私にはとても羨ましくて、だからちょっとお兄さんに意趣返しで、いっくんの手料理の話をしてみた。
さらに嫌われたかな?
それ以上は何も言わなくなり、気まずくなってしまったけれど、日本料理のランチ会席をいただきながら、幼い頃のいっくんの話をしてほしいと振った。徐々に桜樹さんの口数が増え、いっくんがもうやめてくれと言うまで、あれやこれや可愛い話から恥ずかしい話まで聞かせてくれて、いつの間にか打ち解けていた。
「古都乃、この皿のものも、なかなか普段手に入らない食材だ。食べてみろ」
と、私を『古都乃』と呼び出した。
親しみを感じてくれてるのは、とても嬉しかった。でも····『古都乃』という響きに心がざわつき、その理由を考えていたら、またズキッと頭痛がやってきた。
「勝手に下の名前で呼ぶなよ」
「古都乃はお前のものではないし、お前の婚約者なら将来は義理の妹だ。問題ない」
スンと鯛めしを口に運びながら言い放った。ちょっとした兄弟喧嘩に、私も羨ましくてヤキモチを妬いていたことは言わない。
でも、1つだけ言いたいと思った。
「あの·····その呼び方はやめてもらえませんか?」
「ほら、古都も嫌なんだよ」
子供同士の言い争いのように勝ち誇った顔で、いっくんが言った。
「あっ、違います!親しく·····仲間に入れてもらえたようで嬉しいんです。ただ·····その古都乃って言われるのがなんだかあまり良くなくて·····他の呼び方でお願いしたいなと……」
「何か思い出した?」
心配そうに私を覗き込むいっくんと、訝しげに私を見るお兄さん。
「ううん、何も。ただなんとなく嫌な感じが·····昔何かあったのかな?私そんなこと言ったことあったっけ?」
「あっ?いや·····どうかな·····そう、呼ばれたことはあったんじゃないかな?」
「そうなの?いっくんじゃないよね?会社で誰か嫌な人だったりとかしたのかな?」
「·····」
「ココ」
「え?」
「【ココ】って呼ぶのがどうかと聞いてる」
「ココ·····可愛い。ふふ。ありがとうございます」
桜樹さんが何も聞かずに、そうしてくれたのがありがたかった。
ココ·····確かに可愛い。
「なんか嫌だ」
「えっ?」
「なんで兄さんが、可愛い呼び名をつけるんだよ」
「何でお前はふてくされてる?『古都』って呼ぶのを拒否したのはそっちだろ」
「わざわざ、あだ名つける必要ないだろう」
彼の声が低くなる。彼が妬いてるが故のことだと思うと、少し嬉しかったり。
「……たい」
「?なに?いっくん?」
「俺がココって呼びたい!」
「ふはっ!おまえ·····くく·····」
桜樹さんの稀にみる笑った顔は、ごくごく親しい人のみぞ見れる家宝のようなものらしい。
確かに笑った顔は、冷たいと思わせる人柄から一変し、青年っぽさが見られて一段と魅力的で、美形も相成って、彼に夢中になる人は多いだろう。
でも、私はやっぱり、笑うと少年の素直さが溢れた、いっくんの方が心に響く。
この日からいっくんは、私を【ココ】と呼ぶようになった。
桜樹さんは【姫】と呼ぶと言い出して、また一悶着あった事は言うまでもない。




