3 得たもの
婚約していたらしい私は、その相手の東条逸樹さんと一緒に住む予定にしていた、マンションに行くことになった。
自分の住んでいたところに戻って、私物を見たりしていると何か思い出せるかもしれないと思ったけれど、1人になるのが怖かった·····
彼のところに行く事に動揺はあったけれど、全く記憶のなかった、誰も知った人がいなかった私のそばに、ずっと何も言わず手を握ってくれていた彼しか頼れる人がいなかったし、慣れてきていたせいか、安心できたのもあったから。
病院に運ばれ意識が戻り、その後すぐ記憶がないことが分かり、初めは何が何だか周りの状況について行けず、考えることもできなかったけれど、だんだん何の記憶もなく、知らない人ばかりという事が怖くなっていった。
ある夜、なんとか東条さんが帰る時まで泣かず、でも何も話せず彼や担当医をベッドから見送った。でも1人になった途端、怖くて真っ暗で不安でどうしたらいいかわからず、枕に顔をつけて、声を殺しながら震えながら、泣きじゃくってしまった。
「古都乃さん·····」
ものすごく驚いた。──心臓が止まりそうなほど。1人だと·····そのはずだったところに声がして、その声はずっと聞いていた声だった。
咄嗟に顔を上げると東条さんがいた。
悲しそうな、心配そうな顔をして。
私は声を出せなかった。涙も隠せず、流れ落ちるまま──
彼はゆっくり近づいてきて、ベッドサイドの椅子に座ることをせず、そのまま右膝を床につけ、膝立ちの状態になって私の手を包み込んだ。
一瞬ビクッとしてしまった。
でも彼の手の暖かさを感じた。
「俺が守る。·····何があっても守るから。ずっとそばにいるから。·····だから君がされると嫌なこと怖いことを教えて欲しい。不安なことも言える範囲でいいから。
信じてと言われても、誰だかわからない男を信じるのは難しいと思う·····それでも、俺はあなたを·····あなたのそばにいて支えたい。泣きたい時はいつでも泣いて、負の感情を涙と一緒に外に出せばいい。
その時も·····どんな時もそばにいる。──いや、君の邪魔にならないように、努力するからいさせてほしい」
私が苦しすぎて、1人で耐えられない時に戻って来てくれた。私の様子がどこか危うく感じたとからと後で聞いた。
この時の彼の真摯な行動と言葉に救われた。
マンションに着いて、その外観もデザイン性がある高級マンションだと、すぐにわかって驚いた。
中に入って、部屋数こそ並だけど、1つの部屋の大きさが並じゃなかった。
こんなセレブの住まいに、私が住むようにしてたというのが実感がわかなかった。
記憶がないから、当たり前かもしれないけれど·····
私達の住む予定だという部屋に入ると、お茶を淹れてくれ私自身のことを改めて話してくれた。
·····私に両親はもういないらしい。
化粧品会社に勤め、チーフという役職についていて、わりと仕事にやりがいを持って頑張っていたらしい。·····全く分からないけれど。
東条さんと話したきっかけは、エレベーターの中で東条さんが買ったものを落として、それを私が拾い、前髪のことで整髪料を使ってみてと、私が言ったことから、2人は話すようになったとか。
·····私がナンパしたの⁉️びっくりだし恥ずかしい。でも東条さんはそれがきっかけで、時々髪をちゃんとするようになったとか·····以前は、前髪で顔が隠れてたみたいだけど、もったいないなと今も思った。
とっても整った顔だったから。
このことは私は偉い!褒めてあげたい!などと、記憶喪失という事の大きさを忘れ、そんなことを思った。
東条さんはフリーのプログラマーらしく、それでこのマンションを借りられるということは、かなりのやり手で稼ぎのある人なんだと思った。
私の仕事ではどう考えても無理だろうから·····
でも安心できるとはいえ、婚約者·····らしいから
一緒に住むとなれば·····
きっと·····ううん、記憶がなくなる前は、それなりの付き合いだったんだろうから·····キスとか、それ以上とか·····
入院中、向い座っている東条さんは、病院の先生から頂いた私の記憶喪失に関する書類、してはいけないことや、した方がいいこととかを記してあるものを真剣に読んでいたことがあり、そんな彼を見て、2人のことを想像してみた事があった。
無理·····何だか恥ずかしすぎる!
·····それに抵抗がある。
やっぱり恋愛感情がなくなってしまっているのだもの。
でも嫌とかは思わないし、感じない。
それは救いだった。
でも話しておかなきゃ。
それは無理と言われたら、一緒には住めない·····
どんなに不安でも元の家に戻らないと·····
なかなか言い出せなかったけれど、きっかけを掴んで勇気を振り絞って話した。
彼はきっと·····きっと、残念でも、私の気持ちを優先してくれると、マンションに来る頃には、そう思えるようになっていた。
あれだけ毎日来ても、何の恋人らしい反応もできない私なのに、文句も言わず不満な顔や、残念がる様子もなく、せっせと世話を焼いて、今日は桜が咲き始めたとか、柴犬に吠えられて怖かったとか、私を元気付けようと、色んな話をしてくれる。
きっと彼はそんなに、おしゃべりな方じゃないことはわかる。なのに、私のために毎日、日常の様子を話してくれる。
だから、恋人関係の話をした時も、言いにくかったけれど勇気を出せた。
でも彼は私以上に、恥ずかしがっていた気がする。
ものすごく照れてた。
それに、そんな考えは全くしてなかったようにも見えた。
·····私達もしかして、まだキス以上はしなかった?一瞬そう思ったけど、今の時代、そんなことはあり得ないだろうとすぐ思い直した。
でも顔を赤くして、焦る彼は少し可愛く思えて笑ってしまった。
しかも、彼は私の気持ちを測り、知り合いから始めようとまで言ってくれた。
知り合い·····それはしっくりきた。
なぜか·····でも同時に寂しくも思えた。
なぜか·····
何はともあれひとまず、生活ができるかどうか、これから少しずつ色々確認しないといけないし、やることはたくさんだと思える。
でも彼が、東条さんが支えてくれるなら、そばにいてくれるなら大丈夫、と思える自分もいた。
そう思えるのが婚約者だからか、それとも·····
お昼は東条さんが作ると言って、肉じゃがをレシピを見て作ろうとしていた。
でも明らかに初めてだとわかるくらい、めちゃくちゃ危なっかしいから、私が自分でやると言ったものの、本当にできるかどうか不安だったけど、体は覚えていてくれたようで、割と手際よく作れた。
私はよく料理をしていたかと聞くと、なんだか言いにくそうにしていた。
『忙しかったはずだから·····』
下手くそだったのかも·····
ちょっとショック。でも出来上がったものは、なかなかちゃんと出来ていたからほっとした。
東条さんは結局私に作らせてしまったと、落ち込んでいたけど、作ってくれようとしたことが嬉しかったとお礼を言ったら、少し声が上ずって『ありがとう』と·····
そしてその肉じゃがや他のおかずを食べた瞬間、震えながら『うますぎる!俺死ぬのか?』と初めて聞いた感想を呟いた。その後本当に嬉しそうに美味しいと、何度もお礼を言ってくれてた。
彼にとてもすごく心配をかけてしまっていたんだと、改めて思った。
マンションに来た次の日、遅い目覚めだった。
痛み止めで、ぐっすり眠れたから良かった。
薬がなければ、緊張でなかなか寝れなかったと思う。
ぼーっとしてたら、扉の向こうから声が聞こえた。
「あ!っ、静かにしないと·····」
トン·····トン·····ト·····ン、コン
コン?
包丁で切るような音だけど、最後切り損ねた?
ちょっと笑えてしまった。
何を作ってるのかとキッチンに向かえば、凄いことになってた。
野菜は散乱してて、乱切りか皮を剥いたものか、よく分からなかったり、コンロには吹きこぼれた跡だったり·····鰹節が床に散らかってたり。
どうすれば、ここまでできるのかと目が点になった。
開いた口が塞がらなかった。
私に気づいた彼は、慌てて近づこうとして、なぜか下にあるお味噌汁の入った鍋に引っかかってこけた·····!
「わ!!、大丈夫ですか⁉️」
私は床に気を配りながら、彼の側に駆け寄った。
「あっ!はい!ごめん·····起こしてしまった?レシピ見ればできると思ったけど、全く理解不能で料理ってこんなに複雑だとは·····」
「え·····ふくざつ?確かに、この状態は複雑·····ふふっ、あははっ」
思わず笑わずにはいられなかった。
頭脳明晰な彼が料理能力は、ほぼゼロ。
これは芸術の域に入るかもしれない。
「え·····あ·····ハハ·····恥ずかしいな。はははっ」
彼も笑った。
「·····やっと笑ってる顔見れた」
私の顔を見ながら、泣きそうな顔して彼は言った。
「あ·····、ごめんなさい、笑って。一生懸命作ってくれたのに」
「いや!違う、そうじゃない。笑ってくれて嬉しいんだ。これから·····これからこうして、笑っていられるよう、ゆっくり前へ進もう」
眩しいものを見るように、彼は目を細めて笑いかけてくれた。
彼の心遣いが、私の心を温かくしてくれている。
料理は、私が担当させてもらうことにした。これはちゃんと覚えていて、どうやら得意だったみたいだから。
同居して少し経った頃、私は生理になってしまった。
奇跡的に、事故に遭った時のバッグの中に、2個だけ入れてあったから、救われたけど足りない·····
マンションのすぐ近くに、コンビニがあったのを思い出して、東条さんにそのことを言うのも恥ずかしくて、ちょっとコンビニに行くって言ったら、急に体調が変わるのが怖いから、一緒に行くと言われて困った。
言いにくくて·····でも、彼はどうしたのかと不思議がるばかり·····
しまいには、1人で買いに行くからと言うと、自分といるのが嫌なのかと顔を真っ青にして聞いてきたから、慌てて訂正して正直に話さざるを得なくなった。
彼は真っ赤になって、言にくいことを言わせて申し訳ないと、平謝りしてくれドラッグストアへ連れて行ってくれた。
カードを渡してくれて、見ないから買ってきてと言ってくれた。
その慌てぶりを見ていて、いつも落ち着いていると思ったけど、結構いろんな表情を見せてくれる、楽しい人だなと笑ってしまった。
その他にも、彼は私の気持ちを一番に考えてくれて、行ける範囲で買い物がてら、外の空気に触れさせ、気持ちが晴れるようお花屋さんによって、家に飾る花を買おうと言ってくれたり、本当に私に尽くしてくれた。
何も返せなく、記憶も戻らないのが申し訳なかった。
それを言うと、こうして生きてくれてるだけで十分なのに、側にもいてくれる·····それだけで、世界一幸せな男だと·····
こうして出かけて、何でもないことを話したり見たりしたら、それもまた新しい思い出に変わるから嬉しいんだと、大げさとも思える言葉を真面目に言ってくれた。
東条さんがいなければ·····いてくれたから、今の私はこんなにも落ち着けていて、穏やかでいられる。
本当は考えなければならないこと、知らなければならないことは、たくさんあるのだけど、もう少しだけこの生ぬるいような、ゆりかごのようなふわふわした心地よさに浸らせてほしいと思ってしまった。




