2 失ったもの
2週間後、退院になった。
古都乃さんを今日俺の·····いや俺たちの新居に連れてきた。
玄関で古都乃さんは止まり、中を見ている。
「大丈夫?もちろん覚えていないだろう?内見しただけで、後は荷物を持ってくる以外は、全て業者と俺がやったから」
2LDK──と言っても、2部屋が20畳ずつ、リビングは30畳、ダイニング20畳キッチンも20畳ぐらいという大きさだ。普通のマンションよりはるかにでかい。
浴室も16畳ぐらいの大きさがあり、脱衣場にはソファもあるくらいだ。
「··········すごく大きいですね。ここに私達が、2人で?」
「はい、2人で住むために選びました」
「·····でもすごく高そうなんですけど·····私達の住む所·····少なくとも、私の収入で住めるようには·····」
「あっ、忘れてるんですよね!すみません、古都乃さんは、化粧品会社で多分普通より少しは高給取りで、俺はフリーのプログラマーで、1案件あたりの単価は高くて、コンスタントに受注があるので、このマンションは大丈夫なんですよ」
「あ、プログラマーさん·····」
彼女を中に入るよう促し、リビングにある座り心地抜群のソファに腰をかけさせた。
これは自分で店まで行き、たくさんのソファに座って、何度も何度も感触を確かめた。古都乃さんが落ち着けるように。
「うわぁ·····座り心地がすごくいい·····」
(やった!)
古都乃さんはキョロキョロ部屋中を見回している。記憶をなくしてるから、全く何もわからない中、とりあえず一緒に住む予定になっている、このマンションへ来てみようと説得した。
ある日、退院が決まり彼女が俺を拒絶してしまえば、警察のお世話になってしまう。そうなると、彼女とは、お別れになるかもしれない·····記憶のない状態では、俺はただの見知らぬ男に成り下がるから。
それだけは避けたいと思い、どうするかものすごく悩んでいた。
けれど、それまでずっと彼女の傍で世話をさせてもらっていたおかげで、彼女は誰も覚えていない中、目覚めてから、そばで自分を気遣ってくれる俺が唯一、わずかにでも頼れる存在になってくれていたようで。
『退院となるけれど』
と、担当医に持ちかけられた時、真っ先にすがるように、俺を見てくれた。
だから、すぐに事故に遭ってなければ、近々一緒に住もうとしてたマンションがあると言った。
そして来てみて嫌だとか、怖いとか思ったら近くのホテルを取るから大丈夫だと、逃げ道はあるということを示して、安心して見に来れるようにした。
「うん、プログラマーだよ」
「·····ごめんなさい、何も·····あなたのこと覚えてなくて」
「あっ、いや!俺の方こそ」
「え?」
「あ·····いや、俺の方こそ早急だったかと·····怖くて·····君がいなくなってしまうと思うと、怖くて連れてきてしまった。前住んでいたところに戻る方が、良かったのかもしれないとは思ったんだけど·····」
「ありがとうございます。そうした方がいいかもとは、正直思いました·····でも·····1人でいるのも怖くて·····婚約者のあなたは·····この数日間、一緒にいて悪い人じゃないって感じて·····ごめんなさい、こんな言い方で」
「いや!大丈夫。ありがとう、かなり勇気のいる決断をしてくれたんですよね」
「あ·····それと·····あの、私達は婚約してますが、その·····」
「? はい」
彼女がまた別の思いを、抱いているように思えた。なんだろう·····少しの沈黙の後、
「正直、恋人という感覚がなくて·····だから、私達は·····申し訳ないですが」
「·····別れたいと?」
当たり前だろう、彼女からすれば俺は全くの赤の他人だ。彼女にとっては、道ですれ違ったというレベルのようなものだろう。
それでも拒絶されると思うと、切なくて、声が低くなってしまった。
「えっ?あっ、いや違います!あっ、もちろん、今すぐ結婚とか言われたらできませんが·····今、私が言ってるのは·····」
「はい·····なんでしょう?構いません、はっきり言ってください」
彼女の言わんとすることを、はっきり聞きたい。
聞いたからといって、その通りに従うとは言えないけれど·····
「その·····恋人同士がするような·····ことは·····できないかな、と·····」
どんどん声が小さくなり、顔を下げていった。
恋人同士がするようなすることって?
「!」
びっくりした!瞬間、妄想した。
で、顔が茹で上がるのがわかった。
「あっ!!そうか、ごめん!気づかなくて!」
俺はめちゃくちゃ慌てた。
そんなこと考えもしなかった。
いや考えは·····前はしてた。
俺も男だし·····
いや、今はそんなことじゃない!彼女の憂いを理解したなら、ちゃんと誤解を解かねば·····
「分かってますから。あなたには触れない·····記憶のない古都乃さんに無理強いするようなことはしたくない。だから、安心してください」
少しほっとした。
彼女はそのことで悩んでたのであって、別れたいという拒絶ではなかったから。
「ごめんなさい。本当に·····なるべく早く思い出すように頑張ります」
「いや!頑張らなくていい!」
「え?」
「いや·····無理に思い出そうとするのは、体に良くないから·····焦らないでいこう。ちゃんと生活できるし、なくしたものは、大きいかもしれないけど、俺がいるから·····また始めればいい。俺は·····古都乃さん、あなたをずっと好きだから。だから·····あなたは何も心配せず、気にせず、一歩一歩前に進めばいい。俺が支える·····進めない時も。
思い出せなかったら·····それなら、それでいいんだ。大切なのは、あなた自身だ。二人でいられる。ただ·····もし·····俺といるのが嫌になったら·····正直言ってほしい」
最後の言葉は言いたくない言葉だった。でもこれも彼女には大切な逃げ道だ。
婚約してたんだから、結婚するしかないという縛りはしたくない。それに婚約なんて·····
「ありがとう。今あなたが·····東条さんが言ってくれた言葉が、全部、とてもとてもありがたいです。たくさんご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
瞳を潤ませながら、彼女は丁寧に頭を下げた。
·····まるで赤の他人にするように。
「こちらこそ·····初めは、まず知り合いから始めよう。そして、友達になれるよう頑張るよ」
俺は彼女がもっと気にしないでいてほしいと思い、”知り合い”からといった。
「知り合い、から?」
「うん、そうしよう。改めまして、東条逸樹です。よろしくお願いします、古都乃さん」
「あっ、は·····い、こちらこそ、よろしくお願いします。東条さん·····」
俺は手を差し出した。
戸惑っていたけれど、その手に彼女も自分の手を差し出してくれた。
考えないこと、対処しないといけないことは、山ほどあるが、今は·····ただ、今は、彼女といられるこの時をしっかり味わいたかった。
彼女の役に立てることが幸せだった。




