13 新しい朝を迎えて
「う·····ん·····」
2人の初めての朝·····
寝返りをうって左に向き、顔が見えなくなった代わりに、細い小さな背中が俺に向けられる。それはそれで愛しいが、やっぱり顔を向けてほしい。
だからココの左側の肋骨と太もものあたりに手を入れ、俺のいた位置までゆっくりずらし、俺はココの寝ていた場所に入った。
こうすればまたココの顔が見える。
──古都乃さんと·····ココと結ばれた。
夕べのことが思い出され、自然と口元が緩む。
ココは俺を受け入れてくれた。
記憶が無くなってから、ちゃんと俺を好きになったからと。
俺がずっと心の中で思っていたことを、感じ取っていたのか、『過去は関係ない。自分たちの元々の立場も、今のこの気持ちとは関係ない』と。
ずっとココを求めていた俺は、抱きついてくれていた状況とその言葉で、理性は崩壊してしまった。
彼女が寝てしまった後で、感情が落ち着いてから、ものすごい罪を、犯してしまったような気持ちになった。
彼女が許してくれたのは俺の嘘じゃないのに·····
告げることを決めていたのに、この幸福感を味わってしまった。
今揺らいでいる·····このままいってしまえば、いけるんじゃないか?
たとえしばらくして記憶が戻ったとしても、知ったとしても·····
いや·····そうなれば俺への信頼が全くなくなる。
気持ちもなくなるかもしれない。
そんな天国と地獄の入り口を、行き来しているような感情に揺られていたら、外から朝日が入ってきた。
──愛してる。
もう失うことなんか考えられない。
君のそばにいるのが、あの男や他の男だなんて想像もしたくない。
どうかずっと俺のそばにいてほしい。
そんな思いで彼女に口付けた。
ココは口角をあげ幸せな、穏やかな顔をして寝ていた。
「え·····?アルバイト?」
「うん、そう。どこかカフェで、できたらなぁと思ってて·····記憶無いけれど体調はもう大丈夫だし、いつまでも家に閉じこもってるのも違うかなと思って·····ダメかな·····」
「いや·····ダメじゃないけど·····ココが働かなくても、俺の稼ぎで十分やっていけると思ってるけど、何か欲しいものあるの?あるならカード渡してるだろ?限度額とかないから好きなだけ買っていいよ」
「いっくん、そうじゃないの·····わかってるでしょ?私も働いてちゃんとお金稼ぎたいの。いっくんがすごくエリートで、収入たくさんあるのはわかってる。でも私も自分で稼いだお金で、いっくんにプレゼント買ったり自分の欲しいもの買いたいし、何より社会に戻りたいと思って·····」
「プレゼント·····!·····戻りたい·····」
「うん·····前のような仕事もいいかなと思ったけど、いっくんとお茶するようになって、カフェにもすごく興味が湧いてきて、全く違う分野の知識深めるのもいいかなって·····」
「また、バリバリ働きたい?」
「あ、えーと、アルバイトで働いた方が、いっくんとの時間もちゃんと確保できるし、そうしたいから。場所もなるべく近くをと思ってるの」
晴天の霹靂だ。
働くなんて思ってなかった。
いつの間にか自分のテリトリーで囲ってて、その中でくつろいでくれて、ずっとそうしてくれるかと勝手に思ってた。
だけど本来の彼女は社交的だった。
ココの言ってることはもっともだ。ずっと飼い慣らされたペットじゃない。一人の人間なんだから外に出たいと思うのは当たり前だ。
喜ぶべきだろう。そう思えるほど体は元気ということなのだから·····でも俺の中ではショックだった。
俺だけのココでいてほしい。
他の奴の目に留まらないでほしい。
その笑顔を向けられるのは俺だけであってほしい。
こんな器の小さい男は嫌われる、幻滅される、他の男を好きになるかもしれない。
色んな出会いがある。
ココなら·····彼女に惚れる男はたくさんいるはず。
表に出て、俺なんかよりいい男はたくさんいると気づけば、俺のところにいたいと思わなくなって·····
どんどんネガティブな方へ思考が偏っていく。
「いっくん?·····そんなに働いて欲しくない?体裁悪い?記憶が無い私が、外に出たりして何かあったら東条グループに·····」
「そんなわけない!体裁とかそんなの関係ないし、問題にされることじゃない。ココの記憶が無いのは悪いことしてるわけじゃないだろ?」
そんな風にココが、負い目を感じていることが嫌だった。
俺や兄さんがそんな風に思っていると、思われたくなかった。
「あ、そうよね。ごめんなさい·····気にしてるのは私の方よね·····」
見るからにシュンとしてしまった。
そう、引け目を感じているのは私の方。
好きになった人がまさかの、東条家という大財閥だったんだから·····
以前の私も、めちゃくちゃ驚いたんだろうか。その事を知った時·····
記憶がないとかの問題ではなく、彼らのような人達が選ぶ相手は、お互いに利益のある家柄同士ではないのかと·····
私には何もない。
いっくんは私といると落ち着くし、楽しいし、自分がすごく幸せだと思えると言ってくれた。
だとしたら私は、愛人ポジションでは·····なんてテレビの見過ぎだろうけど。
「俺の方こそごめん。ココだって外に出たいはずだよな。元々君は社交的な人だったんだから·····わかった。でも、初めは短めの時間から、体の調子を見て徐々に増やしていくのはどうかな?」
「·····いいの?」
「もちろんだよ。正直·····ずっと俺のそばにいてほしいと思うけど、無理強いして君の心まで離れていったら、その方が俺には絶望だし·····で、場所は決めてるの?」
「いっくん·····まだよ、あなたに聞いてから、お互い気持ちよく納得できる形態でと思ってたから」
「そうか·····あ!なら兄さんの経営してるカフェはどうかな?この近くに出店するんだ。確かもうすぐのはず·····まずはそこでウォーミングアップ的にどうかな?もちろん、無理には勧めないよ」
「そうなの?お兄さん、カフェも展開を?それは·····とてもありがたいけど、働かせてもらえるかな·····私初心者だし、東条グループなら、エキスパートな店員さん求めるんじゃ?」
「そんな厳しくないよ。ホテルラウンジとかじゃないから大丈夫だ。兄さんに聞いてみようか?ちょっと待ってて」
「え·····あ、うん·····ありがとう。あの、いっくん」「うん?」
「窮屈とか持ってないよ。気持ち離れたりしないし、あなたが私を心から思ってくれてるってわかってるし·····何よりいっくんは私の大切な人だからね」
ちゃんと気持ちを伝えておきたいと思った。
いっくんは私がいつか離れていくかもしれないと不安に思ってるような感じがしたから。
こんな風に言葉にして、『だから、私をずっと愛していて』という思いもあった。
「ココ·····」
私を優しく抱きしめてくれた。
この温もり、この香り·····いつの間にか私の一番落ち着く、愛しいものになっていた。
きっとこの先もずっと·····
ずっとこうしていたい気持ちで、私も彼を抱きしめてる。
でも今日は、彼からゆっくり離れた。
そして私に軽く口づけをした。
「すぐに兄さんに確認してくる。画面上でやり取りした方がいいから」
「うん、ありがとう。必要なら、私もお兄さんに話すから」
「ああ、ありがとう、じゃあまた後で」
そう言って、いっくんは自分の部屋でもある仕事場に入っていった。
でもまさかピンポイントでカフェ事業をしていて、この近くに出店予定なんて·····
大財閥はやっぱり、ものすごく多くのことをしてるんだなと、改めて自分の世界との違いを感じた。
『·····お前は馬鹿なのか?いや、失言した、聞くまでもなく大馬鹿だな』
「··········」
急いでDoom'を繋いで会議·····いや、嘆願中だ。
【兄さんの事業の一つである、カフェがこの近くにあり、もうすぐオープン予定だから、そこで働けるよう頼んでみるよ】
──全くもってそんな事実はない。
だから本当にしてもらうべく、嘆願中
で、帰ってきた言葉がさっきのものだ。
·····返す言葉はない。俺自身が一番よくわかってるし。
『どうするんだ·····まずどこからどうするつもりだ?』
「お金はもちろん俺が払う。とりあえず兄さんは、大至急この近くのカフェを買い取って、中を少しいじってオープンさせてほしい。カフェを持っているから、ノウハウは分かってるだろ?」
兄さんはグループ内で事業展開はさせてないが、義姉さん、つまり兄さんの奥さんのカフェを、始めさせるのに関わっていたから知ってるはずなんだ。
『はぁ。それなら芹香の店に行かせたらいいだろう』
芹香とは、兄さんの愛しい奥さんだ。
「いや、この近くって言ったんだ。義姉さんの店は結構遠いだろう。勤務時間そんなに長くないし、通勤時間かかると、その分離れてる時間長くなるからダメだ」
『·····だからって勝手に店を作るな』
「ごめん·····急に働きたいって言われて、全く知らないところで、他の男と知り合ったりしたらと思ったら、次々に言葉が出てきてしまって·····でも兄さんもきっと同じだろ?」
『··········』
言葉に詰まった。あの兄さんが·····だけど図星だからだ。
兄さんの、義姉さんに対する執着と溺愛はかなりだ。義姉さんがカフェをするのが夢だったから、反対して嫌われたくないから、理解ある夫のフリして、密偵をバイトとして送り込んでいることは知ってるんだ俺は。
会社で俺たちと打ち合わせとかしてても、義姉さんのカフェからの報告や情報は絶対後回しにはしない。
『ふぅ·····わかった。今調べさせたら、そこから歩いて10分程の所に居抜き物件があるようだ。2週間以内に作る。人間は10日だ』
「ありがとう!本当に恩に着きるよ!」
俺に説明してると同時に、そばにいるだろう側近にそういう手配をと告げている。
さすが東条グループの次期トップだ。
『この貸しはでかいぞ』
「もちろんです、CEO。なんなりと申し付けください。ココがいなくなること以外なら」
ちゃんと念押ししておく。
ココがいることが俺が動く最低条件だと。
『飼い犬に噛まれた気分だな、全く·····まぁ、ただ漠然と生きてきた昔よりは、人間味があっていいけどな」
「ああ、俺も彼女のおかげで愛するってことを知ることができた。でも兄さんがいてくれたからこそ今があるんだ。それは紛れもない事実だよ。兄さんにもすごく感謝してるし、今でももちろん大切な人には変わりないよ」
『·····なんだ、ちょっと持ち上げとこうってか?』
「ハハッ、ゴマをするなら義姉さんにした方がもっと上機嫌になるだろう?」
『わかってるな』
そう、兄さんのご機嫌をとる一番は、姉さんがすごく喜ぶことだ。だけどやり方を間違えると、激重嫉妬となり、全員が大変な思いをする。
それで俺たちの前から消された人間を何人も見てきた。もちろんどっかで生きてはいる。
でも姉さんは知らない。知られたら嫌われるかもしれないと思っているくらいには、自分がいかに酷いことをしてるか理解してるようだ。
昔はそんな兄さんに呆れていたし、何かおかしいところがあるのかと思ったけど、ココに恋してからはよく理解できる。
愛してしまった今ならもっと·····
『俺にとってもだ』
「え·····?」
『俺にとってもお前は大切だ。俺を人として生かしてくれた。だから芹香に出会って、愛して告げて、応えてもらうことができた』
「兄さん·····」
お互い初めてだ。こんな風に、お互い思ってることを口にするのは。
ああ、本当に俺は幸せだ。
ココがいるからこそ得られた。
『あとはまた他の者から連絡をする。それよりも、記憶が戻った時の危機管理もしとけよ』
「はい·····」
·····せっかく幸せの絶頂にいたのに、一気に落とされた。だけどその通りだ。
調子に乗っていてはいけない。
そうして、本当に2週間でファストカフェを作り上げ、従業員も有名店からエリートを引き抜いてくれ、店長、チーフ、アルバイトとも即戦力になる人間ばかりで、オープニングスタッフといえども、初心者はココのみだとわかって、随分不安がっていた。
でも元々のチャレンジ精神旺盛な性格と、カフェの店員がしたいという熱意で、週2回、3、4時間、一生懸命の頑張りがみんなにも伝わっていって、彼女をみんなで支えてくれていた。
事故から初めての社会生活だから、ココにはかなり大変な事で、疲れて初めの頃は、働いた日は帰ってくると2、3時間昼寝をしていた。
その寝顔もとても愛らしくて、理性を働かせるのが大変だった。それでもそばにいたいから、仕事ではない限り、ソファで寝てるココのすぐ下の床に座って見つめたり、そこで書類を読んだりして過ごした。
起きてからは、用意しておいたご飯を食べる。そ
時に、今日のお客さんの話とか、自分が話したいと思ったことを色んな表情をしながら話してくれ、俺も楽しんだりヤキモチでムッとしたりしていた。
本当に穏やかな幸せで心地いい日々で、ココが記憶を失ったことや、俺は偽物の婚約者だということを忘れてしまうくらいだった。
「今日そういえば、新しいアルバイトの人が入ったの。大学生の男の子でカフェ初心者だって。私が指導することになったの。すごいでしょ?ふふ」
ココは後輩が入ってきて、自分が教えることができるほどに成長していると、認めてもらえた気がして嬉しいんだと喜んでた。
正直、男というのがすごい気になった。
ココは俺の顔で気づいたようで、笑いながら俺以外男性として見られないから大丈夫、と頬にチュッとしてくれた。
一発撃沈、敵なし───
一気に気持ちが押し上げられ押し倒した。
まぁ、後で兄さんに聞いとこう。入ってくるからにはそれなりに安全な人間だろうけど·····
あっという間に3ヶ月が過ぎ、ココのアルバイトは週3日、1日5、6時間となっていた。




