第793話 砦の放棄
「してやられた! 大規模な幻覚魔術か!!」
今朝から始まった砦正面の戦いは、すでに2時間ほど続いている。
副官の男は、帝国兵の戦い方がどうにも消極的に思えたのだが、その理由も判明した。
それは後ろに控える交代の兵が実は幻であり、実際には存在していなかった事が原因だったのだ。
防壁が半分近く破壊されたとはいえ、帝国全軍が攻め込めるほどの隙間はない。
なので帝国軍は、小分けした部隊をローテーションさせながら、開いた隙間から侵入しようと試みていた。
これは兵力差にものを言わせた戦法であり、数で劣るラテニア兵の消耗は大きくなる。
しかしいつの間にか帝国は幻覚魔術を使用しており、本物の兵を移動させていた今日の帝国軍には、交代するべく背後に控えている兵がいなかった。
今日ばかりはローテーションで後方部隊と交換する訳にもいかず、元々種族的に体力などで劣る帝国兵は、昨日までのペースで攻める事が出来ない。
それこそが、副官の感じた違和感だった。
「出撃した大将軍の背後から更に帝国兵が追撃すれば、敵騎兵部隊を挟み撃ちするなどと言ってられません。恐らく突然後門付近に現れた帝国兵も、幻覚魔術で隠れていたのでしょう」
「それにしても、規模が大きすぎませんか? 幻覚魔術も付与魔術や錬金魔術ほどではありませんが、適性持ちが少ない方だと思いますが……」
「恐らくは迷宮遺物か何かを用いたのでしょう。あの防壁を破壊した爆発にも、そうした魔導具が使用されたはずです。今回の帝国はそういった貴重な魔導具も惜しみなく使うつもりのようですね」
帝国軍は騎兵10万と、前日に左右に分かれて後方に向かった2個師団およそ7万。
それと幻覚魔術でこっそり裏手に回らせていた部隊もおよそ7万。
せっかくの援軍が来たとはいえ、今回送られてきたラテニアの援軍は10万ほどで、砦から出撃したガンドルーバの部隊は6万ほどしかいない。
おまけに、自分達に有利な砦で戦うのではなく戦いの場は平地だ。
更に付け加えれば、帝国側には10万もの騎兵部隊がいる。
幾ら個別の兵の能力で勝ろうと、この条件では苦戦は免れない。
「それで副官殿。我々はどう動くべきでしょうか?」
「……仕方、ありませんね」
この時下した副官の決断は、砦内の兵士達からは反発を受けたものの、結果として被害を抑える事になる。
その決断とは、砦の放棄であった。
「放棄ですって!? 正気ですか!」
「心配いりません。私は正気ですよ」
「ですがこの砦は何百年ものあいだ、帝国の侵攻を抑えてきました! この規模の砦に仕上がるまでに多大な労力を必要としましたし、この砦を守るために多くの兵が死んでいる。その砦を放棄なさると?」
「私はより良い道を選択するだけです。防壁が無事でしたら、どうにか援軍を迎えて引きこもるのもありでしたが、すでに大きな穴が開けられてしまっている。それに……今が最後のチャンスかもしれないのです」
「最後の……チャンス?」
副官が砦の放棄という考えに至ったのには、現況の悪さだけではなかった。
帝国兵の姿を確認して以来、ずっと不安に思っていたことがあったのだ。
「ええ。あなたも感じ取っているかと思いますが、今回の帝国兵はいつもとは違います」
「確かに総勢30万はかなりの規模ではありますが、これくらいなら過去にもありました。そしてその時は多大な被害を被りはしましたが、撃退に成功しています!」
「それくらいは私も知っています。ですが、その時はラヴェリアの兵が駐留していました」
「それは……確かに今回は攻め込まれたタイミングが悪かったですけど……」
「今回のラヴェリアの撤兵は、私にも具体的な理由を説明されていません。ただ本国で重大な問題が発生したとかで、説得の効果もなく引き上げて行ってしまいました。あの様子ですと、援軍を要求してもすぐに派遣されてくる事はないでしょう」
流石に副官もラヴェリアが帝国と手を結んだ、とまでは考えていない。
ただかの国は直接ハベイシア帝国と接していない事もあって、国内での派閥争いが活発だ。
今回のラテニア砦からの撤兵も、恐らくその辺が絡んでいるのではないかと副官は睨んでいる。
「それに今回のあの壁の爆破を見たでしょう。あのような魔導具があるのであれば、とっくの昔に使用していたハズ。それを複数同時に惜しげもなく使用し、更には大軍を惑わす幻覚の魔導具まで持ち出してきた。私は魔導具の専門家ではありませんが、あの爆発の威力からして用いられた魔導具はかなり等級が高いものでしょう。それが意味するところは、今回の帝国には並々ならぬ覚悟があるという事です」
「戦う覚悟でしたら我々だって負けておりません!」
「はぁ……。私が言いたいのはそういう事ではありません。今回の敵の編成は知っているでしょう? 帝国砦に駐屯していた3個師団のほぼ全員での出撃に加え、20万もの傭兵部隊。それもその半数に魔獣を貸与している」
傭兵の中には自前の騎獣を持つ者がいないでもないが、さすがに半数もの傭兵が騎獣を持つことはない。
ほぼ間違いなく、帝国から貸与されたものが大半であろう。
「これまで帝国の傭兵部隊が東方面軍と共に攻めてきた事はありますが、それでもせいぜい数は2~3万程度。20万という傭兵部隊はそれだけとって見ても、明らかに異常です」
「つまり……どういう事です?」
「少しはあなたも考えなさい。帝国と言えば、一番厄介なのは何です?」
「それは国力の違いや数の違い……っ! まさか……神兵ですか! 神兵が迫ってきていると?」
「その通り。これだけ気合の入った大侵攻に、神兵の姿がないのは不自然です。それにあれだけの戦力で攻めてくるのなら、東方面軍の残る1個師団も投入してくる可能性は高い。恐らくはそれこそが本隊であり、神兵と共にこの砦に迫っている可能性があるのです」
「な、なんということに……」
威勢のよかったコボルトの指揮官も、副官の言う内容が事実であった場合の事を考えると、途端に顔が青くなってしまう。
「ですのでこの際は砦を放棄し、大将軍を挟撃しようとしている帝国兵を、砦に残った我々で更に挟撃します」
「……」
再度の副官の言葉に、コボルトの指揮官はコクッと無言で頷く。
「ですが、勿論ただで砦をくれてやるつもりはありません。武器を全て運び出すのは無理ですが、食料は出来るだけ持ちだして残りは処分します。それと、ポーションや呪符。それから魔導具なども、後の事を考えずガンガン使用させます。砦正面から攻めてきている帝国兵も、今日ばかりは疲労が溜まっているハズですので、それで一時は押し返せるでしょう」
そうして一旦押し返した隙に、出来る限りの物資を持って砦からの退去を行う。
その際負傷兵には別動隊として、砦から持ち出した物資の輸送を任せ、残りの主力で後門から打って出る。
負傷兵の部隊は大きく迂回させるので、無事に要塞都市リバーマンまで辿りついてくれるだろう。
こうして副官の立てた作戦が、実行に移される事となった。
当然砦内の兵からは反発もあったのだが、状況を説明しどうにか説得に成功。
副官が殊更にこのまま事が進めば、国中が蹂躙されると強く訴えたのが功を奏した。
獣人主体のリニア同盟ならいざしらず、ハベイシア人からは魔族扱いされる妖魔が主体のラテニアでは、軍隊が敗れた後の街や村がどうなるのか。
皆がそれを知っていた。
無抵抗な相手だろうと、妖魔という時点でハベイシア人にとって魔物同様……どころか神敵扱いされているのだ。
作戦を受け入れたラテニアの兵士達は、ならば最後にひとりでも多く敵兵を殺してやると、士気が異様に膨れ上がっていた。
作戦本部から軍需品をじゃぶじゃぶ使っていいと言われた事もあり、ダメージを負うのを顧みずに突っ込んでいき、ガブガブとヒールポーションを飲み干しては瓶を投げ捨て、再び戦場に向かうといった剛の者もいる。
その勢いに押されたのと、長時間の戦闘で疲労が溜まった帝国兵は、一旦兵士を引き揚げさせた。
その動きを見て取った副官は、ただちに砦の放棄を実行。
まだ戦える者達と負傷兵とに分け、次々と後門から砦を脱していった。




