5.津月 マヤ(下)
車道にとばされたスマホを目で追う。直後に車が走ってきて、踏み出した足が止まった。
スマホの回収を躊躇したわたしの耳に、エンジンの低音に混ざって、固いものが割れる音が確かに聞こえてきた。
「……あーあ」
唖然とするわたしと同様、彼らも数秒は呆然としていた。
そしてわたしが我に返るよりさきに、彼らは弾けたように騒ぎ出す。
「ぎゃはは!! ノーコン! いやこの場合はお前がどんくさいのか」
「ちげーよ。顔に来たら普通に考えて取れないだろ」
「いーじゃん顔面当たって鼻血出せば。お前の顔を犠牲にしなかったらスマホ様はご臨終しないで済んだってのにな」
興奮して笑う男の人たちの言葉に、耳を疑うと共に彼らの正気を疑った。
「あはは! おっかしー!」
一緒になって笑っている、彼女も信じられない。
「……帰るわ」
こんな人たちと一秒たりとも一緒にいたくない。
とにかく車道のスマホを拾わないと。
「ええ? 駄目よ。これからクラブに行くんだから」
「……人のスマホを壊しておいてまだそんなことが言えるの」
「だって、壊したのはわたしじゃなくて友達だもん」
彼女はきょとんとして、心底不思議そうに首をかしげる。
わたしの怒りがまるで理解できていないみたい。
親友と呼んでいた子にこんなことは思いたくないけど、今は彼女のすべてが気持ち悪かった。
「そんなにわたしをクラブに連れて行きたいの? あなたには、わたしがいなくてもたくさんのお友達がいるでしょう」
「友達はいるけど、親友はマヤだけだよ。マヤ、わたしはおそろいが好きって知ってるでしょ? だったらわたしの好きなクラブ、マヤも好きになってくれなきゃおかしいじゃない」
……これは、彼女を理解できないわたしがおかしいの?
恐怖が心の底から沸き上がる。
「……いったいどうしちゃったの……?」
「どうかしたのはマヤでしょ。なによ、今まで服も、髪形だって……わたしがマヤに合わせてあげたんだから、ひとつぐらいマヤのほうがわたしに合わせてくれてもいいじゃない」
わたしは一度だって頼んだことはない。ただおそろいがいいというあなたを容認していただけ。
だけどそれを言ったところで、彼女がわかってくれるとは到底思えなかった。
逃げ道を探して周囲に目を走らせる。いつの間にか、彼女の友達という男性4人がわたしたちを囲んでいることに気づいた。
通行人はあからさまにわたしたちから顔をそらし通り過ぎていく。
「ねえ、マヤもそう思うでしょう?」
同意を求められても、うなずけない。
男性のひとりがわたしの肩に手を置いた。逃げるように身を捩って片足を後ろに引く。今度は背中が別の男性に当たった。
どうしよう。
スマホさえあれば、翔吾に連絡ができたのに……。
車道を走る車の音がとても憎らしかった。
途方に暮れていると、視界の端にこちらへと歩いてくる人影が見えた。
それは若い男の人のようで、また彼女の友達が増えるのかと気が重くなる。
男性たちを押し退けてわたしの正面に現れたその人は、無言でわたしに手を差し出した。
整った容姿に冷たい目が印象的な人だった。
身長はわたしよりも高いけれど、顔立ちからして年はそう変わらないかもしれない。
受け取って当然とばかりに押しつけられた物を慌てて手にして、ようやく渡された物の正体を知った。
彼がくれたのは壊れたわたしのスマホだった。
「あ、ありがとうございます」
「ははっ、なにお前? カッコつけてヒーロー気取り?」
様子からして、彼と彼女の友達の男性たちは知り合いじゃないみたい。
スマホを拾ってくれた彼は周りの声を無視してわたしへと告げる。
「取引しないか?」
「……何を?」
「お前、津月マヤだろ?」
「……ええ、それが何か?」
わたしの名前を出されたことで、スマホを拾ってきてくれた彼に対する警戒心が膨らんだ。
だけど彼はわたしの心境なんてどうでもいいようで、怪訝な顔をするわたしから友人に視線を移してうっすらと目を細めた。
「な……、何よ」
たじろぐ友人を無視して、彼は口を開く。
「アークだったか」
「え?」
「皇龍のたまり場」
確認するように言われて、間違ってはいないので首を縦に振った。
「そこまで送ってやるから、お前はそいつのことを自分の口で皇龍に報告する。というのはどうだ?」
そいつ、と彼が示したのはわたしの友人だった。
報告する内容は今あった出来事でいいのかしら。
なんにせよ、アークに行けば翔吾に会える。
「……それは、取引なの? わたしはすごく助かるけれど、あなたが得をすることはあるのかしら」
「なければとっくに素通りしている」
「でも、どうして皇龍の人たちなの? ……翔吾じゃなくて……」
彼は自分からこれは取引だと言った。わたしを助けることで、翔吾と繋がりを持つことが目的じゃないの?
「はあ!? 何言ってんの意味わかんないんだけど」
憤る友人に心の片隅で同意する。
彼女の文句はわからなくもない。
確かに今ここで彼女から受けた仕打ちは嫌がらせにしか思えないものだけど、皇龍の人たちに報告するようなことではない。
たとえ翔吾が皇龍に所属していたとしても、これはわたし個人の問題だから。チームの人たちは関係ない。
戸惑うわたしに目もくれず、彼はわめく友人を冷徹に見降ろしながら口を開いた。
「お前だろ。俺が皇龍を見下しているだの、馬鹿にしているだの……、街で好き勝手言いふらしているのは」
「はあ!? ……、……あ」
彼の顔をまじまじと見つめ、彼女ははっと息を呑んだ。気まずそうに視線をさまよわせてごにょごにょと口ごもる。
「いや……、あれは、マヤが」
「……わたし?」
どうしてそこにわたしの名前が出てくるの。
もう本当に、彼女のことがわからない。
混乱するわたしに追い討ちをかけたのは、スマホを拾ってくれた彼だった。
「そいつ、クラブでは津月マヤを名乗って、お前になりすまして遊んでいるわけだが」
空気が凍った。
「三國翔吾の名前を盾に出会った人間を脅して、従わせている。果てには自分に逆らう奴の情報を三國翔吾と皇龍を侮辱した罪人として、周囲に制裁を促すように吹聴してまわっている。これは皇龍に報告する事案にはならないか?」
……なに、それ?
「皇龍って……、お前、親友の名前借りてるの、親友公認じゃかかったのか?」
わたしや彼女以上に、この場を囲む4人の男性たちが皇龍という言葉に反応した。みるみる彼らの顔が青ざめていく。
「公認よ? マヤにはまだ言ってなかったけど」
「はあ!? お前それやばいって!」
「大丈夫よ。マヤが親友であるわたしのお願いを断るはずなんてないもの」
ね? と同意を求められたところでうなずけるはずがない。
何より発覚した事態が衝撃的過ぎて、頭の整理が追いつかない。
「で、どうするんだ」
そんな中でも彼は取引の決断を迫ってくる。
混乱が極まってパニックになりかけたけれど、終始冷静な彼の影響を受け、そう時間もかからず冷静さを取り戻せた。
彼女のことが大切だった。これは本当。
気さくで、明るくて、中学校でなかなかクラスに馴染めなかったわたしに、いつも話しかけてきてくれた。
彼女がいなければ、お昼のお弁当はずっとひとりぼっちだった。
親友だと言ってくれた時は、本当に嬉しかった。
それなのに、どうしてこんなに変わってしまったのだろう。
彼女も、——わたしも。
「……取引を受けるわ。お願いしてもいいかしら」
彼を完全に信頼したわけではないけれど。そんな人にすがってでも、一刻も早く「親友」だった彼女から離れたかった。
彼女はわたしの、唯一の友達。
わたしの行きたくないと言うところに無理矢理連れて行こうとする。人のスマホを壊しておいて、笑っていられる。
それが友達のすることだというのなら、友達なんて、わたしはいらない。
「さっさと行くぞ」
「ちょっと待て! 俺たちは違うんだって!!」
「待ってよマヤ! わたしじゃなくて、そいつを選ぶの!? わたしたち、親友でしょ!!」
彼女たちが全力で進路を塞ぎにかかる。
巻き込まれた通行人はとても迷惑そうだった。
取引相手となった彼は半眼でため息を吐き出して、男性たちに向かって口を開いた。
「その女と共倒れになりたくないのなら、俺たちを止めるより先に、まずはそいつとの縁を切るべきじゃないのか」
彼の視線が下に移り、親友だった彼女を見据える。
4人の男性も誘導されるように、ひとり騒ぐ彼女に注目した。
「街にデマが流されていることを、すでに皇龍は掴んでいる。俺やこいつに弁明したところで、その女のことはいずれ皇龍や三國翔吾の耳に入るだろう。お前たちが少しでも自分の株を上げるために、今ここで出来ることは何だ?」
なぞなぞのような問いかけに固まった男性たちの間を彼が横切る。開けてくれた隙間を通って、わたしもその場を離れた。
「うそ、マヤ、信じらんないんだけど! あんたってそんな子じゃないはずよ!」
彼女がわたしたちに向かって走り出そうとする。
変化はすぐに起きた。
「ちょ、何やってんのよ、放しなさいよ! マヤが行っちゃうじゃない!!」
振り返ってみると4人の男性たちが壁になって彼女を止めているのが見えた。
人はこうもあっさりと手のひらを返せるものなのかと感心してしまう。
「……すごいわね」
男の人たちを味方にするなんて、わたしじゃどう頑張ってもできそうにない。そんなこと、思いつきもしなかった。
「人の真似をしただけだ」
雑踏の中でぽつりとつぶやかれた彼の言葉は、はっきりとわたしの耳に届いた。
いったい誰の真似すれば、あんなあしらい方ができるようになるのかしら……?
興味が湧いたけど、彼はそれ以上教えてくれそうになかった。
彼の背中を追いかけて、アークを目指す。
後ろから聞こえてくる女性の叫び声に、心が揺さぶられることはなかった。
そこからはお互い一言も喋ることなく、彼とわたしはアークへと到着する。
「ありがとう。本当に、助かったわ」
「取引だと言ったろ。約束は守れ」
それだけ言って彼は店に入ることもなく、夜の街に消えた。
*
その後、わたしはアークにいた翔吾にたくさんのことを謝った。
翔吾に知らせず夜の街へ遊びに出掛けたこと。
わたしのせいで、翔吾の名前が悪用されてしまったこと。
皇龍の人たちに、迷惑をかけてしまったこと。
友達だと思っていた人がやったこととはいえ、皇龍幹部、三國翔吾の恋人という立場を持ったわたしの名前が利用されてしまった事実を重く受け止める。
翔吾のためにも、わたしはもっと自分の行動に気をつけるべきだった。
わたしは告発という形で、友人だった女性を皇龍に売った。それは同時に彼との取引の成立を意味していた。
「もういいよ。あとは俺たちでなんとかするから。とにかくマヤが無事でよかった」
優しい翔吾の言葉が心に重くのしかかる。
わたしはまた、翔吾の手を煩わせてしまう。
「でもさー、何もマヤちゃんを使わなくたって、自分で報告に来ればいいのにねー、彼も」
「散々いやがらせした人がふざけたこと言わないでくださいよ。どう考えてもあいつは俺たちに、というかあなたに会いたくなかったんでしょうに」
「えええー、俺はただ親睦を深めたいだけなのになー、傷つくよー」
翔吾と一緒に話を聞いてくださった、明良さんと櫻庭さんが軽口を言い合う。
話題に上っているのはわたしをここまで送り届けてくれた彼についてだと思うけど、これはどういう意味なのかしら。
「マヤは知らなくていいよ。今日のことは、あいつも含めて、早く忘れて」
翔吾がそういうのなら、彼について、わたしは詮索するべきじゃない。
だけど、今日あった出来事は、きっと一生忘れない。
全部、忘れていいわけがない。
後日、あの夜わたしを助けてくれた彼の名前が水口凍牙だと知った。
この春から同じ高校に通うことになること、そしてできれば近づかないでほしいという懇願と一緒に翔吾が教えてくれた。
親友だった彼女とは、あれから顔を合わせてはいない。
彼女について、皇龍幹部の櫻庭一輝さんは「わたしの真似をすることで津月マヤになりきって、翔吾に愛される疑似体験をしていたのでは」と推測していた。
本当だとしたらうすら寒い話しだけれど、それももう終わったこと。
壊れたスマートフォンを買い替える際、電話番号やSNSのアカウントを一新して過去に見切りをつけた。
高校の入学式まで、あと少し。
わたしには友達がいない。
もう、それでよかった。




