70:戦うための力
身体強化呪文「超加速」。
山田が以前に使った「瞬歩」の上位互換術式である。
山田が奥歯の横にある魔術紋を舌で押すと同時に、山田の思考処理速度、身体反応速度、各種運動能力が魔法の力によって瞬時に加速増強された。
山田が体を動かすと、周囲の空気が液体のようにねっとりと体に絡みつくのが感じられる。それを振り切った際の断熱圧縮、圧力衝撃波が風魔術で中和される。慣性制御と筋力強化の術式を使い、彼の行動速度は限界まで加速されている。
これらの複雑な術式制御はヒトの情報処理能力ではとうてい不可能である。錬金術師が付与した自動演算術により行動予測して各種術式を並列発動させ、山田はただ動くことに徹している。
そして山田は逃げだした。
全身全霊で逃げた。
相手に行動予測をさせぬように不規則に方向転換しながら大通りを突っ切り、細い路地を回り込んでさらに先へ。
するとそこにはすでに男が回り込んでいて、山田は足をはらわれて加速状態のまま転倒した。
重力によって地面に落ちるまでの長い体感時間を自覚することもなく、男に押さえつけられて山田の頭は地面に激突した。
それは現実時間で見た場合にはとてつもない速さの墜落であり、もし物理障壁を付与されていなかったなら山田の頭は潰れた赤茄果のように地面の染みになっていたことだろう。
「残念だったな。終わりだ。『超加速』の使い方にまだ慣れておらんようだな」
山田はすでに加速状態から現実時間に戻っている。
首筋を掴まれ、体が引き上げられる。男の手が触れると同時に山田の体から力が抜け、腕を持ち上げることすら難しくなった。
決着がつくまで現実時間ではわずか10拍。時間計測器が落ちきるよりもずっと前に勝負は決した。
その時、シブヤの町の上空に轟音と共にきらきらと光が輝いた。錬金術師が放った発光信号である。
「……ふん、それが狙いだったか。だが、騎士団が来るより前に仕事は済む」
ふたたび超加速状態になった男に山田はむりやり引きずられ、駅前広場へと戻る。
山田には加速魔法の効果が完全に及んでいなかったため、身体強化されていても加速時失神寸前である。
錬金術師は破壊されたハチ公像の近くで防護障壁を張りなおしていた。彼女は男がぐったりした山田を連れているのを見て、狼狽を隠せない。
「戻ってくるのが予想よりも早かったかね? 約束だ、防具を渡してもらおう」
「……お嬢、何故……逃げなかったのですかっ……」
山田がかすれた声で錬金術師に問いかける。
「私が逃げたら、町が壊される。それに……」
「彼の事が心配だったか?」
男は山田をハチ公像の台座の横に放り投げ、地面に転がった山田に黒い瘴気を手から出して吹きかけた。山田の顔に黒い斑点が浮き出て、咳き込みながら苦しみはじめる。
「ヤマダ!!」
「魔界の死病を感染させた。じきに体が腐り始める。今のうちならまだ治癒呪文で助けられるが、さてどうするね?」
錬金術師は目を伏せると、黙って自分の服の裾を持ち上げはじめた。
「……お嬢っ!!」
山田は必死で上体を起こし、駄目です、と叫ぼうとしたが声が出ない。
何か武器は無いか。壊れた銅像の塊でもぶつければ多少は……
そう思った時、ハチ公像の台座の中に何か武器のようなものが見えた。
むりやり体を動かして手を伸ばし、それに触れると急に体が軽くなった。
「え? 何だ?」
山田は手に触れたものをあらためて握りしめる。その瞬間サイコメトリーの指輪が輝いて、頭の中に流れ込んでくる何者かの思念。
(力が欲しいか)
「だ、誰?」
(わが名はハチ・グレートアキタ。貴公の主君を思う心に感応せし者。
今一度問う。力が欲しいか、主君を守る力が)
「ほ、欲しいです」
(ならば貸せ)
「は?」
(貴公の体を我輩に貸せ)
「えーと、そこは『ならば、くれてやろう』なのでは」
(貴公のような武術の素人が力を持っても使いこなせぬ。我輩が貴公の体を使う)
「えええ、乗っ取られるんですか?」
(案ずるなすぐ返す。時間が無い、早うせよ)
鈍い光を放つ棒状のものを手に握って、山田がのっそりと立ち上がる。
それに気付いた魔族の男は驚いた顔になり、錬金術師は防具を脱ぐ手が止まった。
(さあ、我輩が遺せし宝具、一角獣の独鈷杵を前にかかげ「剛借」と叫ぶのだ!)
「ご、ごうしゃく?」
(もっと大きな声でっ!)
「剛借っ!!!」
その言葉と同時に、山田の体は輝く光に包まれた。




