36:錬金術師、出仕す(この人今まで仕事に行ってない)
「あああ、仕事行きたくない。遠隔業務で在宅勤務にしてほしい」
その日の朝、錬金術師はどんよりとした顔でつぶやいた。
「いっそ今すぐ世界が滅びてくれれば、仕事も一緒に無くなるのに」
「お嬢、発言が不穏です」
「御家人だけが、意に添わぬ労働を義務づけられているのは不当です。一般国民と同じように、好きな時だけ仕事をすれば良いという御触れ書きを出すべきです」
「俸禄がもらえなくなりますよ。研究費はどうするんですか」
「う」
錬金術師が嫌そうな顔をする。
「王宮にご出仕なさるのは3日に一度で良いのですから、今日行けばまた2日休めるでしょう? これ以上は遅刻や無断欠勤をするとまずい、とおっしゃっていたではありませんか」
「そうね、今年の有俸休暇60日分、もう全部使ってしまったし……でも60日と言わず、120日までは休んでも良い規定にすべきだと思うの」
「ご出仕日が年間120日しか無いのに? 日本のサラリーマンが聞いたら頭の血管が切れそうです」
山田が呆れた顔をする。
「だって、非常時以外は各自で自己研鑽していれば良いでしょう? 仕事などしていたら何かを創ったり、自分自身の能力を高めるための時間が削られます。魔術師は王宮内の魔道具の点検をする職業じゃないのに、専門職に雑用をやらせるなんて頭がおかしいです」
「まあ、誰かがやらないといけないのでしょう。ほら遅れますよ。さあ、お髪を整えましょう」
「……ぶー」
錬金術師が不満そうに頬を膨らませる。
山田は自前の収納袋から亀乃子櫛(訳者注:ヘアブラシ)を取り出し、寝乱れた錬金術師の髪を梳く。錬金術師の白いうなじを間近で見て、心の中では思いっきり動揺しているが、表情には出さない。髪の毛以外の素肌には触れぬよう注意全開である。
「一度ハーフアップにして残りの髪の毛を、と、こう編み上げて、下ろした髪の毛を後ろで編んで……出来上がりです」
床置きの化粧鏡に写った自分の姿を見ながら、錬金術師は山田に話しかける。
「うん、良い感じ。昨日よりずっと手早いわね」
「昨日は、からんだ毛をほぐすだけで精一杯でしたから」
「ヤマダは、ニホンでも誰かの髪結いをしていたの?」
「覚えたのは、こちらの世界に来てからです。『魔法の鏡』の活動幻影を見て勉強しました」
ちなみにこの世界では、女性魔術師の髪の毛には魔力的に重要な意味がある。
そのため師弟関係にある魔術師同士、あるいは家族や親しい同性以外は髪の毛に触れさせないのが常識である。錬金術師も他人に髪の毛の手入れをさせた事はほとんど無かった。
かといって長く伸ばした髪を自分で手入れをするわけではなかった。浄化魔法ではもつれ毛や乱れ毛までは直らないので、髪の毛がかなりひどい状態になっていた。
山田はそういう錬金術師の髪の毛の惨状を見るに見かねて、独学で髪結いを学び、髪の毛のお手入れを手伝い始めた。しかしそれはこの世界の常識に照らし合わせた場合、とんでもない行為だった。
錬金術師自身は異界人がする事に興味があったため、山田の申し出を非常識と思いつつあえて受け入れていた。しかしこれは、日本で言えば女性の背中に男性が胸板をぴっちりと押し当てるのに匹敵する、身体接触行為だったのである。
だが特定社会の不文律というものは、教えてもらわねば部外者には判りにくい。山田は錬金術師以外の人間とは接点が無かったため、錬金術師とみっしりと深い関係を結んでしまっていたことに、まったく気付いていなかった。
しかし山田がその事を知って青くなったり赤くなったりするのは、何年も後の話である。今はこのまま話を進めていく。
「はあ、面倒臭いなあ……あ、ヤマダ、着替えるから向こうを向いてくれる?」
山田はあわてて後ろを向いた。
「換装!」
錬金術師の体を白い光が包む。
彼女の着替えの所要時間は、地球時間にして0.05秒にすぎない。
ちなみに肌着はそのままで、芋ジャージのみの換装である。
通俗版ではこの情景において、その過程を高速幻像でもう一度見てみる場面が挿入され、彼女の清純かつ艶めかしい肌着姿が余すところなく披露される。
だが錬金術師の肌着の色や形についての実際の情報は記録に残っておらず、この場面における彼女の着用品が本当はどのような物であったかは、各自で想像するしかない。
「もういいわよ」
山田は振り返って、錬金術師の姿を見た。
のちに彼は、この時の情景を
「そこには女神が降臨していた」
と表現している。(「馬の骨風雲録」67段の3)
地球の漢服ワンピースに似た、白を基調にした裾の長い優美な白魔道士服。部分的に入った金と青の装飾が貴族の服に匹敵する高級感を醸し出す。王宮内に出仕する際に錬金術師が着用している、第一種礼装である。
ちなみに当時、錬金術師は礼服と芋ジャージ以外の服はほぼ着ることが無かった。自動修復と浄化の魔法が付与されていれば服が汚れたり傷んだりすることは無いため、同じ服を一生着ていても問題は無いというのが彼女の主張であった。
後に山田が服装にも口出しするようになって衣装が増えていくのだが、この頃は出仕時以外、外出する時も(山田と暮らしはじめるまでは外出自体ほとんどしていなかったが)すべて芋ジャージで通している。
だが山田の美的基準では、芋ジャージ姿ですら錬金術師は美少女天使である。その彼女が髪を整え、気品のある礼装に着替えたのだから、もう大変である。
山田がその姿を一目見て土下座したのも、彼にとってはごく自然な行動であった。しかし錬金術師はその行為の意味が理解できず、たいへん困惑した。
「ちょっとヤマダ、何なのそれ」
「正視を続けたら尊さで死にます」
「いや見慣れてもらわないと不便だから。昼過ぎには戻るので、手作りのオヤツを用意しておいて」
「承知いたしました、我が主よ」
錬金術師は山田の様子に首をひねったが「たぶんチキュウでは、こういう習俗が普通なのだろう」と判断して出仕していった。
山田は錬金術師が錬成した調理器具をいろいろ試しながら、おやつ作りの練習をして待っていたが、その日に錬金術師はなかなか王宮から戻ってこなかった。
昼頃に「予定より帰るのが遅くなる」という伝言を使い魔が届けてきたが、夕方になっても彼女は帰ってこない。心配になって山田が送った使い魔からも、彼女が伝言を読んだという報告が来ない。
不安にかられた山田が部屋の中をぐるぐると歩き回っている時、ようやく錬金術師から「これから帰る」という伝言が届いた。そして錬金術師が帰ってきたのは、もう陽が沈んで暗くなってからだった。
この日に王宮で彼女に何があったのか、山田はまだ何も知らなかった。




