35:お米の来た道
錬金術師は、何か考え込んでいる山田に話しかけた。
「……ヤマダ、何を考えているのですか」
「あ、えーとですね、自分が手にしているこの……『おむすび』の事を……」
山田は感慨に満ちた口調で語る。
「……お米というのは、もともとは地球のアジア大陸という場所に広く分布している、ただの雑草でした」
錬金術師はあわてて聖餅を口に押し込むと手を浄化して手帳を取り出し、口を動かしながら記録を取る。
「そして大陸の数限りない野生系統の中から、中国南部……珠江という川の中流域に生えていた系統を、誰かが育てはじめました。たまたま実が大きかったのか、それともまとまって採れる場所があったのか、あるいはどこかの変人が興味を持った事がすべての始まりだったのか……その始祖となった、たった一つの系統から何世代も、何千世代もかけて品種改良されて、今のお米ができたのです」
「何千世代も……」
「その栽培化の始まりは、地球各地のお米の遺伝子解析と、考古学的調査から約一万年前と推定されています」
「一万年……それは創作ではなくて、本当の話なのですか」
錬金術師の問いかけに、山田はうなずく。
「もしこの世界にお米というものが無く、野生植物から新たに作り出すとしたら、それには一万年の時間が必要になります。さらにお米を育てるのに必要な技術や道具、保管や流通を可能にする文化基板……仮にそれらすべての知識があったとしても、普通の人間が異世界において一代で再現できるようなものではありません」
山田は聖餅を口に入れ、もしゃもしゃと咀嚼して飲み込んだ。
「今、食べている『おかかむすび』は日本人ならば誰でも作れる、料理とすら呼べない食べ物です」
そう言いながら山田は小さな聖餅を一つ作って、小皿の上に乗せた。
「しかし米も、鰹節も、醤油も、誰か一人の知恵で創り出されたものではありません。
この小さな塊りは、気が遠くなるほどの時間をかけた、先人達の数えきれぬほどの発見と、工夫と、努力と、社会文化の集大成に支えられて、初めて作ることが可能になる食べ物なのです。
それは例えて言うならば、海面上に見えている取るに足らないほどの小さい岩礁……その正体が水面下にある一万メートルの高さの海山の頂上であるような、そういう凄まじい存在なのです」
「それは……こういう感じですか」
錬金術師は小皿を山田から受け取って床に置くと、魔杖でその横を叩いた。叩かれた場所から幻影が展開され、周囲が青い水面に変わってゆく。
青い世界がどんどん拡がっていく。部屋の壁が消えて見えなくなった。
山田達の周囲にあるのは、はるか彼方まで果てしなく広がる青い空と海。そして海面にぽつりと浮かぶ、小さな聖餅を乗せた小皿。
ゆるやかな風が吹いて、ゆっくりと水面が波打つ。しかし小皿は動かない。
よく見れば皿の下には黒い岩があった。それは水面下で海底に向かって徐々に広がりながらどこまでも深く続いている。
深部は徐々に暗く霞んで見えなくなりつつ、底知れぬ深淵まで黒々と連なっている巨大な海山。聖餅がその小さな頂点に、ちょこん、と乗っていた。
山田はあっけに取られた表情で、深さの見当すらつかぬ果てしない大海の水面に胡座をかいて座りながら、自分のいる場所の下を魚の群れが泳ぎ去っていくのを呆然として眺めた。
「ただの幻術です」
錬金術師はくすくすと笑った。
「ヤマダ、もう一つ作ってください」
「……6個目ですよ。一口サイズとは言っても、少し食べ過ぎではありませんか」
「頭脳労働は糖質を消費するのです」
「お嬢、食事しない人じゃなかったんですか」
白い雲が浮かぶ青い空。長い尾を引いた白い羽毛竜が、吹き渡る風に乗って通り過ぎていく。
はるか遠くに見える、空と海が出会う水平線。一面に青く広がる大海原に料理用の竈がぽつりと浮かぶ。
その上にある大釜から炊きたてのオコメをよそい、削り節を作って聖餅を握る、白いフリルの前掛けをつけた黒服の執事。
「なんというか、ロマンチックと言うより、シュールな光景ですねえ」
「良いのです、食事が美味しければ」
そう言って錬金術師は、一人だけで研究している時には見せたことがない、楽しそうな顔をして笑ったという。




