9話 血
この話は残酷な描写があります。
体が本能的な拒絶反応を叫んでいた。……ここにいてはいけない。レンの全神経が、けたたましく危険信号を鳴らしている。
光の届かない、家と家の狭い隙間。街の日常から完全に切り離された、あまりに異質な空間。
その異様さに圧倒されながら、レンは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
さらに奥へ、足を踏み入れた瞬間。
……ぬるり。
足元に、嫌な感触があった。鼻をつくのは、むせ返るような鉄くささだ。
そっと目線を下に落とした瞬間、血液の海が広がっている。
「う、うわああ!」
思わずしりもちをつく。
べちゃり、と背中や手に生温い液体が張り付いた。血だ。恐怖に駆られ、足をバタつかせながらずるずると後ずさる。その手が何かに触れた。
振り返ると、そこにあったのは武装した騎士たちのなれの果てだった。幾重にも体が折り重なり、どれも上から凄まじい圧力をかけられたかのように、まっぷたつにひしゃげ、原形をとどめていない。
余りの凄惨さに、レンは耐え切れず胃を逆流してきたものをぶちまけた。
「おえ……げほげほ……なんだよ、これ……」
喉を焼く胃酸と、充満する血の臭い。死体はまだそこまで時間が経っていないように見える。
逃げなきゃ。頭ではそう分かっているのに、足が激しく震えて動かない。体が命令を拒絶し、ぶるぶるとその場に釘付けにされていた。
「……た、……たす……けて」
微かな声が聞こえた。
この異常な空間とはあまりに場違いな、か細い少女の声。それがレンの耳にわずかに届く。
凄惨な死体の山、その中央に埋もれるようにして。
その時レンは何をしにこの場所にきたのか?それを思い出した。怖い。怖い。怖い。体の震えがとまらない。
レンは言うことを聞かない足を無理やり引きずり、這うようにして覆いかぶさる死体を押し退けた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
ボロボロの服をまとい、全身を赤く染めながら、おびえて小さく体をうずくまらせている。
「だ、だいじょうぶか……?」
震える声で声をかけると、少女は怯えた瞳でゆっくりと顔を上げた。よく見れば、肩から深い切り傷を負い、そこからとめどなく血があふれ出ている。
何が起きているのか、もう脳みそがついていかない。けれど、考えている暇はない。とにかくこの少女を救わなければならない。その一心だけがレンを動かした。
レンは片膝をついて少女をそっと抱きかかえ、懐から一本の小瓶を取り出した。
クロエから「本当の緊急時のためだからね」と渡されていた、高価な回復薬だ。後で怒られるかもしれないが、そんなことを気にしていられる状況じゃない。今が緊急時だ。
焦りながらもコルクを抜き、少女の傷口へと振りかける。
液体が触れた瞬間、回復魔法特有の眩い祝福の光が少女の傷口を包み込んだ。
肉が盛り上がりふさがっていく。決して心地のいい音ではないが、どうにか止血することはできた。もっとも、完全に傷が癒えたわけではない。一刻も早くギルドか街の救護所に駆け込まなければ危険だろう。それでも、少女の青ざめていた顔色が幾分か和らいだのが分かった。
「……ん」
傷の痛みが和らいだ安心感からか、それとも抱きとめられたぬくもりのせいか。少女は怯えを解き、ふわりとレンの胸板に小さな体を押しつけるように預けてきた。
どうすればいいのか分からない混沌の中、レンは自分の頭をガシガシと乱暴にかきむしる。
「もう、どうなってるんだよ……! とにかく、この状況をギルドに報告して、この子を預けないと……!」
不思議と、足の震えがピタリと止まっていた。いや、明確な目的ができたことで、目の前の凄惨な死体や異常な状況から、脳が現実逃避して思考停止に陥っているだけなのかもしれない。
この空間からの脱出。そして少女の救出。それを最優先にするんだ。
レンは少女をしっかりと抱き上げ、その場から駆けだそうと身を翻した。その、まさに次の瞬間だった。
「あら、どこにいこうとしてるのかしら?」
空気を切り裂くような、冷たい風の音が響いた。
……ゴロン。
世界が大きく縦に回転し、次の瞬間、視界が真っ暗に暗転した。
背中から冷たい血だまりへ、激しく倒れ込む。
「え……?」
困惑する思考のまま、レンは自分の視線を下へと落とした。
そこに映っていたのは……床に無惨に転がる、自分の両足だった。
「あ、あっ、あああ……っ!」
「ふふふ、逃げるなんて悪い子ね」
あふれ出るのは、おびただしい量の自分の血。
生まれて初めて味わう、想像を絶する激痛が、遅れて全身の神経を焼き尽くすように襲いかかってきた。
なんだこれ? 何が起きたんだ? いたい、いたい、いたい、いたい!
血走った目を剥き、反射的に手で足を抑えようとするが、そこにあるはずの足はもうない。とめどなく流れ出る血は止まらない。あまりの痛みに声すらまともに漏れず、ただ宙を掴む。
「足が、あし……!」
血の海の中で、失われた下半身の痛みにレンは狂ったようにうめき声を漏らす。そのおぞましい有様に今気づいたかのように、闇の中から現れたその女は、面白そうにフッと冷笑を浮かべた。
「あら、まだ息があったのね」
再び、空気を切り裂くような音が鳴る。
ガキィンッ!
「だめ……!」
掠れた声で叫びながら、少女が瀕死のレンの前に身を挺して飛び出した。
その瞬間、二人の前を遮るように、鏡のように硬質な薄い膜が出現した。目に見えない刃を受け止め激しい金属音を響かせる。
「あら」
女が面白がるように細い目を細め、軽く手を横へと振る。
頭上から、ヒュッという殺気立つ風切り音。少女はとっさに掲げた腕でそれを受け止めた。
ガキィン、と再び硬質な衝突音が響く。目には見えない何かが、少女の張った不可視の膜をガリガリと削り取っていく。
「あは、あはは……!」
「くっ……うぅっ!」
女が次々と繰り出す不可視の斬撃に、少女は一歩、また一歩とじりじりと押し返されていく。
しかし、女はふと攻撃をピタリと止めた。ボロボロになりながらも必死にレンを庇う少女の姿に、奇妙なものを見るような視線を向ける。そして、クスクスと喉を鳴らした。
手で覆った顔の隙間から、異常なまでに高く、人間の心をかき乱すような耳障りな金切声が漏れ出す。
「大事なの? ねえ、その男がそんなに大事かしら?」
女は歓喜に震えるように笑い声をあげる。
「あははははっ! それが、そんなに大事なのねえっ!」
「や、やめて……っ!」
少女の悲鳴をかき消すように、先ほどまでとは比べ物にならないほど苛烈な、縦横無尽の斬撃が空を切り裂いた。放たれた空気の刃が周囲の空間を弾き飛ばし、爆薬でも仕掛けられたかのようなすさまじい炸裂音が路地裏に轟く。
パキリ、と少女の張っていた膜に亀裂が入った。衝撃が襲うたびに、鱗が剥がれ落ちるように膜が剥がれていく。
「これならどうかしら!」
女が両手を大きく突き出すと、空気の裂け目が一個の鋭い螺旋と化し、少女の残された膜を完全に粉砕しはじき飛ばした。
「……っ! あああああああっ!」
少女は激しい衝撃に弾き飛ばされ倒れ、床に付した。
「あら、もう終わり?」
冷ややかな嘲笑を浮かべ、女はつまらなそうに小さく息を吐いた。地面に這いつくばる少女へ歩み寄る。
「駄目じゃない、そんなところで寝そべってちゃ。……ほら、早く立たないと、あなたの大事な人が壊れちゃうわよ?」
返事をする間すら与えられず、残酷な宣告とともに、目に見えない不可視の刃がレンの体を容赦なく切り裂く。
肉を断つ音が響き、鮮やかな赤が暗い路地裏の空中に舞う。
「いたいでしょう? いたいよねえ? そういうときは、ちゃんと痛がるべきだわ」
レンは朦朧とした意識の中、声もなくうめく。
嘲笑いながらさらに踏み込もうとした女の視界の端で、不意に、空気が凍りついたような音がした。
次の瞬間、ぶしゃり、と生暖かい音がして、女の右腕が肩口から吹き飛ぶ。
「あはっ……そうよ、それよ、それえっ……!」
激痛に顔を歪めるどころか、女は自身のちぎれかかった腕から噴き出る血を浴びながら、狂気的な歓喜に満ちた笑顔を真紅に染め上げる。
少女の全身から、それまでの気配とは全く異なるどす黒いオーラが噴き出す。黒々とした靄が周囲の壁を音を立てて風化させ、狂気的な威圧感をまとって女へと襲いかかった。
「あは、あははははっ、やっと、出たわね」
プァァァァン……ッ!!
微笑んだ女は、黒い靄が直撃するその寸前、遠くの空を鋭く突き刺すような警報の音が、街のどこかから響き渡った。
「……遊びすぎちゃったかしら」
女は、顔を空に向けると能面のように感情を消した。
血染めの手をだらっとおろし、一歩後ろに下がると、まるで最初からそこにはいなかったかのように、忽然と姿を消す。
誰もいなくなった血塗れの路地裏。
少女は糸の切れた人形のように崩れ落ち、瀕死のレンのそばへと膝をついた。
出血多量のため、レンの顔色は青ざめた状態から、すでに失血による死相を帯びた白へと変わり果てていた。呼吸は浅く、もう長くは持たない。誰の目から見ても、致命的すぎる手遅れだった。
「死なせない……死なせない、から……」
少女は震える小さな手を、冷え切っていくレンの胸元にそっと当てた。
急速に遠ざかる意識のなか、ぼやける視界の端で、少女がどこか切なそうに、けれど微かにほほ笑んだのをレンは見た気がした。
レンの意識は完全な闇へと落ちた。




