10話 災厄
ここはどこだ?
混乱する頭で、レンはゆっくりと上体を起こしてあたりを見渡した。
視界いっぱいに広がっていたのは……血塗れの路地裏でも、冷たい石畳でもない。ただひたすらに、どこまでも青く澄み渡る、永遠のような空だった。遮るものは何一つなく、吸い込まれそうなほどの青さがどこまでも続いている。
……俺は、どうなった?
たしか、あの不気味な女に足を切り落とされて、血の海に倒れて……。
「そうだ……!」
急に記憶の断片が蘇る。あの惨劇のなか、自分の前に飛び出して盾となった少女の姿。
あの少女は今、どこにいったんだ? 無事なのか? ひどい怪我をしていたはずだ。だが自分だけがこうして生きている。
レンの体をふわりと温かい光の粒子が包み込んだ。
心地よい温もり。光の粒子は敵意を示すことなく、まるで安心させるように優しくレンの輪郭をなぞり、溶けるように消えていく。
体の芯からじんわりと温められるような、不思議な感覚だった。
ぼんやりとした光の束がひとつに固まっていき、やがてそれは淡く輝く人型へと変わる。
「だれだ?」
「私は災厄」
「……災厄?」
「そう。絶望の落胤、終焉の原点、虚無……。そして、今はあなたでもある」
「俺?」
「そう」
レンはふっと目を伏せた。
「……俺、死んだのか?」
レンは自分の両手を見つめ、ゆっくりと握ってみる。温かい血の巡りがあり、動かそうと思えばちゃんと指先まで言うことを聞く。死んだというには、あまりにも実感がない。
「そうよ……死んだわ」
光の束はレンを見つめながら、ぽつりと告げた。
「あの女の刃で、あなたは一度、殺されたの。あなたの命は消えかけた……いいえ、一度は完全に消えたのよ」
「そして……私が、あなたを“災厄”としてよみがえらせた」
青く広い空間のなかにポツリと落ちた。
脳裏によぎるのは、路地裏の血の海と、無残に転がった自分の両足だ。
自分の下半身にそっと視線を落とすと、ちぎれていたはずの足は元通りにくっついていた。
「私の力で、命はつないだわ」
光は紡ぐ。
「でも、そのせいであなたは……もう人間ではなくなってしまった。災厄に、なってしまった」
「…………」
「私はあなたを……私のせいで死なせたのよ」
声が、どこか遠くで、しかし頭の芯に直接響くように聞こえた。
青く澄み渡った空間のなかに、ぽつんと立ち尽くす光はとても小さく見えた。
「わたしのせいで……私のせいで、あなたが……」
「待てよ、君のせいじゃないだろ。あの女がやってきて、俺を切り刻んだんだろ」
「違うわ……! あなたは本当なら、あんな路地裏になんて入る必要もなかったのに!」
「私が……私が、あの女から逃げるために、あそこにいたから……。私が声をあげてしまったから……。本来なら、あなたは巻き込まれるはずじゃなかったの!」
その言葉に、レンは少しだけまぶたを伏せる。
あのとき、路地裏の奥から聞こえたか細い声。それを聞きつけて、気まぐれに足を踏み入れたのは自分だ。もし行かなければ、こんな理不尽な暴力に巻き込まれることもなかったのかもしれない。
レンは自分の胸にそっと手を当てた。
「……じゃあさ」
レンは驚くほど落ち着いたトーンで、その場に膝をついた。
「俺は死んで、化け物として蘇った。……それでも、今こうして息をして、君と話せている。そうなんだろ?」
「……」
「なら、いいじゃないか」
レンはふっと息を抜くように笑い、震えている光に手を伸ばす。
「人間をやめたのかどうかは、おいおい考えるさ。とりあえず、俺を死なせないでくれて、助けてくれたんだ。恨む理由なんてどこにもないよ」
「でも、あなたはこれから……人間じゃなくなって、いろんなものに追われて、傷つけられて……!」
「ありがとう」
「え?」
紡ぐ光の渦が、困惑したように小さく揺れた。
「だって、君が俺を助けてくれたんだろ?」
レンは柔らかく笑う。
「だから、ありがとうだ」
「でも、でも、あなたは……!」
「それに……」
言葉を遮るように、レンはぽんとその光の塊へ優しく触れた。
触れた瞬間、光の粒子がちりのように霧散していき、あとに残ったのは……小さな体を丸めて泣きじゃくる、一人の少女の姿だった。
「こんな小さな子が、ひとりで泣いてるままなんて……良くないもんな」
レンはゆっくりと腕を伸ばし、その少女を優しく、しっかりと抱きしめた。
「……っ、そんな簡単に……」
「簡単じゃないさ。でも、一人で泣いてる女の子をそのままにするよりは、よっぽどマシだ」
レンは立ち上がり、どこまでも広がる青い空の果てに視線を投げた。
「なんで、なんでそんなに冷静なの……! 私のせいで、あなたは災厄になっちゃったんだよっ!」
小さな肩が震え、その目から大粒の涙がハラハラと零れ落ちる。空間の光の粒子が、彼女の感情の揺れに呼応するように激しく明滅した。
「って言われてもなぁ。俺、災厄なんてぶっそうなもの、知らないし」
不思議と、恐怖はなかった。あんなにも凄惨な死を迎え、すべてもう終わってしまったと思ったのに、こうして再び息をして、誰かと話せている。それだけで十分すぎるほどだった。
「あなたは知らないかもしれないけれど……災厄は、人間から忌み嫌われ、恐れられる存在なの。いつか必ず……」
少女は声を詰まらせ、両手で顔を覆った。
「あなたは人間から裏切られる。化け物として恐れられる。きっと、想像もつかないような酷い目にあうわ……!」
少女の慟哭が、虚ろな空間に痛々しく響く。それは、かつて自分が世界から拒絶され、疎まれてきたからこその怯えであり、レンを案じるがゆえの必死の叫びだった。
「でもさ」
レンはゆっくりと首を横に振り、どこかすっきりとした笑みを浮かべた。
「でもさ、生きていれば……またみんなと笑い合える。みんなと、旨いご飯を食べられるだろ」
「なんで……そんなに……」
少女は信じられないといった様子で顔を上げ、潤んだ瞳でレンを見つめる。失ったものや、これから待ち受けるであろう過酷な運命を思えば、普通なら絶望して狂っていてもおかしくないはずなのに。
「平気ってわけじゃないさ。怖いし、面倒なことにはなりそうだけどさ」
レンは自分の胸に手を当てた。そこには確かな心臓の鼓動がある。クロエの呆れたような顔も、温かいスープの記憶も、すべて消えてなどいない。
「君を一人で泣かせたままで終わるより、よっぽどいい。それに……」
レンは少女の頭にそっと手を置き、優しくポンと撫でた。
「君が俺を助けてくれたんだ。今度は、俺が君を助ける番だろ?」
「なんで、どうして……」
少女は大きく目を見張り、ぽつりと言葉を零した。その瞳から、堰を切ったようにまた大粒の涙があふれ出す。
得体の知れない災厄であり、自分をこんな数奇な運命に巻き込んでしまった元凶であるはずの災厄を、なぜこの人間はここまで真っ直ぐに肯定してくれるのか。理解が追いつかない。
「なんでだろうなぁ。自分でもよくわからん」
レンは困ったように笑いながら、目の前の小さな体をさらに強く、優しく抱きしめた。
「ただ、目の前で泣いてる女の子を、笑顔にしたい。……それじゃ、ダメかな?」
かっこいい理由なんてない。世界を救う英雄でもなければ、高尚な信念があるわけでもない。ただ、泥臭く生きて、大切な人たちと日常を続けたい。その延長線上に、この少女がいただけだ。
「そんなの、そんなの……ずるいよ……っ」
少女は息を呑み、声を押し殺すようにして、わんわんと泣き出した。
「そういえば、君の名前はなんていうんだ?」
少女はふるふると、小さく首を横に振った。
「名前、ないのか……。じゃあさ、俺が名前をつけてもいいか?」
少女は驚いた顔をすると大きく頷いた。
「シエルなんて、どうだ」
永遠に続くかのような、どこまでも青い光の空間のなかで、レンは微笑みながらそう言った。
「……シエル。シエル……! シエル!」
少女……シエルは、まるで見違えたようにぱっと顔を輝かせ、嬉しさのあまりその場で飛び跳ねた。




