11話 騎士
「あ、起きた!」
どこかホッとしたような、明るく元気な声が耳に飛び込んできた。
ゆっくりと視線を向けると、ベッドの脇でいつもの「にゃはは」と緩い笑みを浮かべるクロエの姿があった。
「クロエ……?」
「そうだよ〜。起きた?」
レンは状況を飲み込めぬまま、起き上がろうと上半身を持ち上げようとする。しかし、全身の筋肉がまるで使い物にならないかのように、まったく力が入らなかった。
「だめー、まだ安静にしてなきゃ。レン、三日も眠ってたんだからさ」
……みっか?
鍛冶屋に行って、路地裏に入り込んで……あの狂った女に遭遇して。
そこで記憶の糸が急に繋がる。両断された足。とめどなく溢れた自分の血。激痛。
「うぅ……あぁああああっ!」
恐怖とフラッシュバックに頭をかきむしり、レンは勢いよく体に掛けられていた布をひっぺがした。
ある。そこにあるのは、間違いなく自分の両足だった。千切れていたはずの足が、何事もなかったかのように綺麗につながっている。
「レン、レンってば!」
クロエが慌てた様子でベッドに駆け寄り、レンの上半身を支えた。
「レン、私の顔を見て!」
焦点の定まらない虚ろな目を、レンはぼんやりと空を見る。喉の奥から、言葉にならない、唸り声のようなものが漏れ出る。
「ここは安全よ、レン。大丈夫……。大丈夫だからね」
すがるように震えるレンの様子に、クロエはそれ以上何も聞かず、ただ優しく、壊れ物を扱うように彼の頭をそっと抱え込んだ。そのまま胸元へと引き寄せ、包み込むように強く抱きしめる。
クロエの胸の柔らかさと、そこから伝わる確かな体温。そして一定のテンポで刻まれる優しい心音が、激しく波立つレンの心を少しずつ現実に引き戻していく。
張り詰めていた恐怖と絶望がゆっくりと溶け出し、とめどなく溢れる涙がクロエの服の裾を濡らしていく。それでもクロエは手を緩めず、ただトントンと子供をあやすように背中を叩き続けた。
「ほら、ゆっくりね。深呼吸……」
言われるがまま、レンは大きく息を吸い込む。クロエの柔らかい髪が頬をかすめ、胸元からはトクン、トクンと確かな心音が響いてきた。
「何があったのかは知らないけど……ここはもう安全だから。大丈夫だからね」
子供をあやすように、クロエは優しく、ゆっくりとレンの背中を撫でてくれる。その温もりに触れているうちに、暴れていた心臓の鼓動が、思考がだんだんと落ち着いていった。
「……っ」
「落ち着いた……? レン?」
「ごめん……」
「いいよ、謝らなくていい。ゆっくりね」
クロエの言葉は、あまりにも優しすぎた。
張り詰めていた糸がプツリと切れたように、抑えきれなくなった涙が次から次へと溢れ出てくる。
なぜ自分がこんな目に遭っているのか。わけもわからないまま異世界転移して、魔獣と戦い、あんな理不尽に殺しかけられて。
胸の奥からこみ上げてくるのは、どうしようもない感情だった。憤り。絶望。やるせなさ。
……なんなんだよ。俺が一体、何をしたって言うんだよ。
返してくれよ。俺を家に帰してくれよ。
異世界?ファンタジーなんて知らねぇよ。自分の部屋のベッドにゴロゴロ転がりながら、どうでもいいアニメを観て、母親の作った飯を食う。あの、泥のように怠惰で、でも何よりも幸福だった当たり前の日常を。あの失われた時間を、レンは今、心の底から渇望していた。
「知ってる、天井だ」
ぽつりと呟いた視界の先には、どこか見覚えのある宿屋の天井が広がっていた。どうやらあのまますぐ眠ってしまったらしい。体を起こそうと周りを見渡すが、そこにクロエの姿はない。
ベッドのすぐそばには、彼女が用意してくれたのだろう。木製のコップに入った水と、湯気を失ってすっかり冷めきったスープの碗が置かれていた。
ぎゅるる、と情けない音が腹の底から響く。
思い返せば、あの路地裏での惨劇以来、まともに物を口にしていない。猛烈な空腹感と、全身を這うような気だるさが一気に体に襲いかかってきた。
レンは震える手で、冷えたスープの木の器を掴み上げる。失ったカロリーと水分を欲する体が貪るように飲み込んだ。スープはあっという間に底をついた。
冷たい液体が胃に落ち、空腹の痛みが和らいでいくにつれて、ようやく頭を巡らせる余裕が戻ってくる。
脳裏によみがえるのは、路地裏と夢の光景。
自らを災厄と呼んだ、あの少女シエルのこと。
あの路地裏で容赦なく自分を切り刻んだ、血塗れの女。
そして、騎士の姿をした骸たち。
分からないことばかりだ。頭の奥がズキズキと痛む。だが、少なくとも今は……自分の足で立てる。動ける。何も言わずに自分を案じ、泣きそうな顔で看病してくれたクロエには、本当に心配をかけた。後できちんと謝らないと。
「……行くか」
ぐっと両拳に力を込め、レンは気合を入れるように歯をくいしばる。
そして勢いよくベッドから飛び降りた、その足が、確かな重みと感触を伴って、冷たい床を踏みしめた。
ふわりと香る朝の空気と、いつもと変わらない宿屋の日常。
階段をゆっくりと降りたレンの視界に飛び込んできたのは、困惑気に眉をひそめるクロエと、見慣れない白銀の鎧をまとった男たちの姿だった。
「あ、レン! もう起きて平気なの……?」
クロエが慌てたように駆け寄り、レンの顔や腕をポンポンと確かめるようにあちこち触る。
「ごめん、もう平気だよ。心配かけたな」
「本当に? 顔色まだ悪くない?」
「だ、大丈夫だって。それよりも、その……その人たちは誰なんだ?」
先ほどまで宿屋の部屋で子供のように泣きじゃくっていた醜態を思い出し、レンは慌てて気恥ずかしさを紛らわせるように、クロエが話していた男たちへと視線を向けた。
「私たちは白銀聖騎士団の、レイモンド・ヴァルハルトだ。そして、こちらはジーク。君が、レン君で間違いないかな?」
整えられた銀髪の短髪をさらりと流し、胸に手を当てて優雅に一礼する男……レイモンド。
その佇まいは清廉潔白という言葉がそのまま形になったかのようで、嫌味のない穏やかな微笑みさえ浮かべている。しかし、その整いすぎた顔立ちはどこか人間離れした冷たさを孕んでいた。
その隣には、無造作な灰色の髪に不敵な笑みを貼り付けたジークが無言で立っている。レイモンドの神々しさとは対照的に、いつでも牙を剥き出しにできそうな野獣のような気配を漂わせていた。
「……ああ、俺がレンだが」
警戒心を押し殺しつつ答えると、レイモンドは穏やかな笑みを崩さぬまま、静かに一歩踏み出した。
「単刀直入に聞こう。君は、あの夜……あの場所で、いったい何をしていた?」
……あの場所。
その言葉を聞いた瞬間、レンの背筋に冷たいものが走った。路地裏の血の臭い、千切れた両足、そして狂気に満ちた女の顔が脳裏によみがえる。
よく見れば、レイモンドたちの纏う白銀の鎧の意匠は、あの時あの路地裏に転がっていた骸たちのものと全く同じだった。
「なにって……、ただ通りかかっただけで……」
「すまないが、君には重要参考人として、一度騎士団まで同行してもらいたい」
トン、と。
拒絶を許さない絶妙な力加減で、レイモンドの右手がレンの肩に置かれた。
逃げられない。
ただ肩に手を添えられているだけだというのに、本能の鈴が危険信号を鳴り響かせる。動けば一瞬で首をねじ切られるような、底知れぬ実力差が肌を通して伝わってきた。
「ちょっ……! なによ急に! レンはまだ病み上がりで、そんなところに連れていけるわけ」
クロエが庇うようにレンの前に飛び出すが、レイモンドがちらりと向けた鋭い眼光のひと睨みに、彼女の言葉がピタリと止まる。冷水を浴びせられたような威圧感に、クロエの肩がわずかに震え、借りてきた猫のように小さくなる。
「クロエ、いいんだ」
レンは静かに息を吐き、レイモンドを見据えた。
ここで暴れても勝ち目はない。それに、あの女の正体や、なぜあの少女や騎士団のこと……自分自身、知りたいことは山ほどあった。
「……わかった。ついていくよ」
「レンッ! 何言ってるの……!」
振り返ったクロエの瞳には、不安と困惑の色が浮かんでいる。
レンは震えるクロエにできるだけ安心させるよう笑みを返した。




