37話 獣
魔石を飲み込んだクロエの身体は、人間の形を保つことすら許されず、ぐにゃりと音を立てて歪み始めた。
それは、レンが纏うような漆黒のオーラとは異なる、歪で、もっと冒涜的な何かだった。
四肢はあり得ない方向へとねじ曲がり、その肉体はボコボコと不気味に隆起し、脈打つ。もはや、そこにクロエの面影は微塵もない。
残されたのは、ただすべてを破壊し尽くすための狂乱の衝動だけ。
理性を失ったその化け物は、喉を震わせて咆哮を上げると、無数のゴブリンたちが群がる戦場の只中へと猛然と突撃していった。
暴虐。
異形と化したクロエの一撃が振るわれるたびに大地が砕け、周囲のゴブリンたちが紙くずのように吹き飛び、血肉の雨が降り注ぐ。
あまりにも残酷な変貌。
あまりにも受け入れがたい現実。
救いたかった者たちはすでに死に絶え、一番守りたかった少女は、自らの命をすり潰し化け物へと成り果ててしまった。
余りの出来事にレンの思考は停止し、喉は張り付いたように声すら出ない。
血に染まる戦場の中心で、レンはただ足元に釘付けにされたまま、その凄惨な光景を呆然と見つめることしかできなかった。
静まり返った血の泥の中に、乾いた拍手の音が響いた。
ぱち、ぱち、と。
「いや〜、傑作だな。彼女、クロエと言ったか?やっぱあれ使っちまったか」
呆然と立ち尽くすレンの背後から、軽やかな足音が近づいてくる。
振り返ったレンの視線の先に立っていたのは、白銀の鎧をまとった男、ジークだった。
「お前は……レイモンドの隣にいた……」
レンの脳裏に、かつての記憶が蘇る。あの事件の時、レイモンドの側近としてダルそうに控えていた男。白銀聖騎士団副団長ジークその人だった。
「お、覚えてくれたか。嬉しいねぇ。やっぱ、お前が、災厄の器だったか」
「なん、で……」
「え、なんだって?」
「なんで、お前がここにいるって聞いてんだよ、ジーク!」
怒りと混乱に突き動かされ、レンは地面を拳で激しく叩きつけた。
しかし、ジークは平然とした顔で周囲を見回す。
「おいおい、怒んなって。呼んだのはお前らだろ?」
確かに、レンたちは救援を要請した。だが。
ジークの後ろには、誰の姿もない。
「なら、なんでお前一人しかいないんだ。他の連中はどうした! それに、使ったってどういうことだ!」
「おいおい、そんなに一気に聞くなよ」
次の瞬間、ジークの足がレンの顔面を蹴り上げる。
ドゴッ!
「がはっ……!」
顔面を捉えた強烈な蹴りが、レンを地面へと盛大に吹き飛ばした。
うつ伏せで動けないレンの顔のすぐ傍らに、ジークがすっとしゃがみ込む。そして、耳元に囁きを落とした。
「あの魔石は、俺が渡したのさ」
「おま……っ!」
怒りに任せて跳ね起きようとしたレンの髪を、ジークが容赦なく掴み、そのまま地面に叩きつける。
「ぐっ……!」
「まぁ待て、最後まで聞け」
笑みを浮かべたまま、ジークは淡々と語り始めた。
「何故、俺たちがあんな魔石を持っていたと思う? そもそも、聖騎士団の目的は? そうさ災厄の兵器化だ。災厄を作り出し、人外の力を持つ兵器へと変える。あの魔石はその副産物、災厄化するための依代さ。まぁ、あの女はそれを知らずに、ただお前を救うために使っちまったみたいだがな」
面白そうに目を細めるジークに、レンは血走り、怒りに満ちた瞳を向ける。
「路地裏にいた少女がいただろ? 俺たちは、あの逃げ出した災厄から抽出した魔素を使って兵器を作っていた。だがあろうことか、実験素材そのものが逃げ出したから大慌てだ。追い詰めたと思ったら、今度は偶然お前が器になった。焦ったよ。でもな、もういい。もっと純度の高い本物の素材が今、目の前にいるからな」
ジークが笑い、腰の鞘から抜き放った一本のナイフを、容赦なくレンの腕へと突き立てた。
「があ、ああああっ!!」
「あぁ、これだ……。お前の体内には、最も純度のいい魔素が満ち満ちている」
ナイフを引き抜きレンに見せつける。狂気的な瞳をぎらつかせるジークを睨みつけながら、レンは激痛に耐え、歯をくいしばる。
「……お前の言っていることは、本当だろうな」
「ん?」
「だが、おかしいところはまだある。お前は、何故ここに一人で現れた? 他の聖騎士団はどうした? その話が本当なら、お前が単身でここにいる理由なんてないはずだろ」
「おいおい、それは早めに俺がここに来たからにすぎないかもしれないだろ?」
何を言ってるんだとばかりにジークは肩をすくめる。
「……その反応でわかった」
レンは地面に血を吐き出しながら、告げる。
「シエルに出会った時、もう一人いた。俺を襲ったのは、赤血の処刑人レゼだ。最初、俺は裏ギルドの仕業だと思っていた。だがな、あいつはシエルを殺そうとしていたんだ。そして今、お前が一人でここにいる理由は、聖騎士団の目的とは違う、個人的な理由で動いているからだ。違うか?」
チッ。
ジークが、これまでにないほど露骨に舌打ちをした。
「……感のいいガキだな、お前は。そーだよ。俺は聖騎士団の本来の目的とは違う、個人的な趣味と目的で動いている。そして、レゼは俺の手下さ」
あーあ、バレた。
面倒くさそうに肩をすくめ、ジークは心底つまらなそうな顔を浮かべた。
「俺はな、災厄ってものが心底嫌いなんだよ。この世界から消し去りたいと思っている。いいやつだろ?聖騎士団は消すどころか増やそうとしているから困った。俺としてはな、お前らみたいな化け物は、早くこ世界からいなくなってほしい。ただ、面倒なことに、災厄ってのは殺しても死なない。死ねばまた数十年後にどこかで復活しやがる。絶対にこの世界からいなくならないんだ。まるで、魔獣並みの生命力だな……!」
ジークはわざとらしくブルリと身を震わせた。
「だからこそ、俺たちは人々に災厄の恐ろしさを骨の髄まで知ってもらいたいのさ。この平和ボケした世界は、少し平穏が続くとすぐに災厄の脅威を忘れやがる。だから、一度災厄を壊してみんなに恐怖を思い出してもらおうと思った。だがな、うまくいかなかった。それなら、お前が責任負うべきだよな?」
見下ろすジークの瞳の奥底には、底知れぬ狂気が渦巻いていた。
「なあ、これが見えるか?」
ジークがポケットから取り出し、かざしたのは、淡く光を放つひし形のクリスタルだった。
「暴走した災厄の力を封じるための神具だ。だがクロエのような中途半端な災厄でも、これを使えば元に戻せるだろうよ」
「なっ……」
レンが目を見開く。
「あぁ、早くしないと、壊れてしまうぞ?」
ジークが、にやりと歪んだ笑みを張り付けたまま、クリスタルを握りしめる手にぐっと力を込めた。
ピシリ。
静かな戦場に、冷たい亀裂の音が響く。
「やめ……ろ……っ!」
ジークに踏みつけられ、腕をナイフで貫かれたレンは、這いつくばったまま必死に身体をもがくが、びくとも動かない。
「ああ、もったいない。もうヒビが入っちまった。どうする? このままだと、クロエは二度と人間の姿に戻れず、永遠にあの化け物のまま生き続けることになるが?」
「やめろ……! やめろおおおおおっ!!!」
絶叫を絞り出すレンの眼前で、ジークは嘲笑うように指の力をさらに強めた。
バキッ!!
クロエを救う唯一の希望だった神具に亀裂が入る。
「あーあ」
「ジイイイイイイイクウウウウウウウウッ!!!!」
怒号すら超えた、獣の遠吠えのような咆哮。
レンの精神を繋ぎ止めていた最後の理性が、音を立てて崩れていく。
全身を支配していた絶望は、ドス黒い憎悪へと変貌する。
瞳を満たしていた金色が激しく濁り、レンの内側で、災厄の澱みがドロリとへばりつくように心を染め。
ズバッ!
「がっ……!?」
狂気に満ちた笑みを張り付けていたジークの表情が、一瞬にして驚愕へと歪む。
彼の右腕が、肘のあたりから鮮血を噴き上げながら宙を舞った。
「っ……!」
常人離れした反射神経で、とっさにレンのそばから距離を取る。転げ回るちぎれた腕。
レンは地面に這いつくばったまま、呆然と上を見上げた。
そこに立っていたのは。
「間に合ったようだな、小僧」
地響きのような声を響かせ、圧倒的な威圧感を放つ女。
その手には、彼女の巨体に見合った、巨大な大剣が握られている。
アイゼンヴェール冒険者ギルドの頂点に君臨する怪物ギルドマスターが、絶望の戦場へと降臨した。




