31話 シルト村防衛戦2
膠着した戦場に変化が起きる。
左手の中央。一人の村人が、簡易城壁をよじ登ってきたゴブリンを突き落とそうと踏み込んだ時、足元をすくわれてバランスを崩した。
ゴブリンに服を掴まれ、前のめりにつんのめる。
「うわっ……!?」
悲鳴を上げる間もなく、村人の体は簡易城壁の隙間から下へと引きずり出された。
数メートルの高さから地面に落下した村人は、受け身を取る間もなく、魔獣の群れへと放り出される。
「助けて――ッ!」
その絶叫は、一瞬にして無数のゴブリンたちの声にかき消された。群れに覆われた地面は、まるで生き物のようにうねり、一瞬で赤い血の染みへと変わる。
「あ……あ……」
それを間近で目撃してしまった村人たちの手が、ぴたりと止まった。恐怖が思考を止まらせ、動揺の波が防衛ライン全体へと伝染する。
ほんのわずかな、数秒の空白。
だが、その致命的な隙を、狂乱したゴブリンの群れが見逃すはずがなかった。
「ガァッ!」
防衛網にぽっかりと開いた穴を縫い、一匹のゴブリンが木の壁を跳び越え、ついに城壁の内側へと足を踏み入れたのだ。
仲間が喰い殺された恐怖と、防衛線が突破されたという絶望。城壁のその場所を守っていた村人たちは完全にパニックに陥り、武器を止め後ずさる。そしてその動揺は、必死に戦っていた他の村人たちへも瞬く間に広がっていった。
「くそっ、防衛線が崩れる……!ヴァル! なんとか止めろっ!」
ザックの怒号に近い叫び声に、後方で矢をつがえていた弓使いのヴァルが即座に反応した。
ヴァルは険しい顔で跳ね上がるように弓を構え、迫り来る群れの中央、城壁を越えようとするゴブリンたちを捉える。
「《ファランクス・レイン》ッ!」
放たれた一筋の矢は、空中で一瞬にして無数の光の矢へと枝分かれする。
凄まじい軌跡を描いた矢の雨は、パニックに陥る村人たちを寸分違わず避けて降り注ぎ、城壁に乗り込んでいたゴブリンたちの眉間を正確に射抜いた。
ズズッ、と音を立てて、侵入者たちが一斉に崩れ落ちる。
致命的な突破を間一髪で防いだものの、一度揺らいだ村人たちの恐怖と疲弊の色は、もはや隠しきれなくなっていた。
「よくやった、ヴァル」
ギリギリのところで致命傷を防いでくれた相棒に、ザックは短く声を飛ばす。ヴァルは弓を引き絞ったまま視線を戦場に向け、汗を拭いもせずに吐き捨てるように言った。
「わかってると思うけど、次はないよ」
たまたまうまくいったにすぎない。
まだゴブリンたちが完全に城壁の内側へ入りきっておらず、村人たちも何が起きたのかを理解できずに硬直していたからこそ、あの一斉射撃は味方を巻き込まずに済んだのだ。
これがもし、敵味方が完全に入り乱れる混戦の場になっていたら、たとえ腕利きの弓使いであるヴァルといえども、味方を傷つけずにゴブリンだけを正確に射抜くことなど不可能だった。次は、もう使えない手だ。
「……わかってるさ」
ザックの目から見ても村人たちはよくやっていた。素人集団でありながら、ゴブリン軍団の侵攻を何とか食い止め続けている。だが、決して楽観できるものではなかった。
村人たちの顔には、すでに明らかな疲労の色が濃く影を落としている。
それも当然だった。シルト村の人々は、そもそも戦闘員ではない。普段は森で木を切り、穏やかに暮らす非戦闘員だ。ごく稀に国の徴兵で駆り出されることはあったとしても、これほどの死地を潜ってきたわけではない。
上から槍や棒で突くという作業自体はシンプルだったが、一歩踏み外せば命を落とすという極限の恐怖感と、無限に湧き続ける終わらないゴブリンの群れ。その重圧は、村人たちの精神と体力をジリジリと削り取っていた。
「……そろそろ、限界かもな」
ザックもまた、村人たちが迎えている肉体的、精神的な限界に気付いていた。
戦線が完全に崩壊してからでは遅い。だが、下がるタイミングが早すぎれば、一気に押し寄せる群れに飲み込まれて総崩れになる。引き際の判断は、まさに生死を分ける一瞬の賭けだった。
ザックは押し寄せるゴブリンを剣でいなしつつ、第一防衛陣地を放棄し、より後方の地形へと退くタイミングを静かに見計らっていた。
「油の用意をしろッ!」
ザックは後方で物資の補給や負傷者の手当に当たっていた村人たちへ向けて声を張り上げた。
準備するのは、村からかき集めてきた大量の油だ。第一防衛陣地を完全に放棄し、そこを駆け抜けるゴブリンの群れをまとめて焼き払うための、足止め作戦だった。
周囲の木々が立ち並ぶこの場所で火を使えば、最悪の場合、森そのものへと火が燃え移る危険性がある。村人たちからは当然のように難色が示され、戸惑いの声が上がった。
だが、そんなことを気にかける余裕など、いまの彼らには一秒たりとも残されていない。
「このままじゃ村ごと全員食い殺されるんだ! 森がどうこう言ってる場合か、非常時だ、従えっ!」
ザックの鬼気迫る叱責に、村人たちは息を呑み、血相を変えて動き出した。
急ピッチで簡易城壁の上や斜面の要所へと、油の入った壺や樽が次々と配置されていく。
「準備よし……ッ!」
村人が血走った目でザックを見る。
ザックは押し寄せる緑の群れを一瞥し、意を決したように腕を振り下ろした。
「投げろッ!」
重い油の壺が次々と投げ下ろされ、黒い液体がゴブリンの群れへと降り注ぐ。
「《ファイヤーボール》!」
パーティの魔法使いが放った炎の魔弾が、黒い油を頭からかぶったゴブリンたちの中心部へと正確に着弾した。
その油の効果はまさに劇的だった。
瞬間、轟音とともに凄まじい炎が立ち上がり、緑色の獣たちの全身を瞬く間に呑み込む。脂の焼ける悪臭と魔獣特有の異臭が、一瞬にして戦場全体に立ち込めた。
ゴブリンたちは次々と引火し、炎は瞬く間に周囲の仲間へと燃え移っていく。狂気の進撃を続けていた群れに、大打撃が与えられた。
「やった……! 燃えてるぞ!」
「すげえ……! あの化け物どもを押し返してる……!」
その光景を目撃した村人たちから、再び歓声が上がる。
しかし、死の兵たちは、全身を炎に包まれながらも、ゴブリンたちは狂ったように走り続けた。そのまま目の前の木製城壁へと激突する。
バチバチと音を立て、燃え盛る肉体がぶつかり木製の城壁へと、炎が引火した。乾燥した木材に燃え移った火は瞬く間に広がり、もうもうと黒煙が空へ突き抜けていく。防衛陣地そのものが、いまや巨大な火柱と化していた。城壁が燃え落ちるのも時間の問題だった。
燃え盛る炎と濃い煙その熱気が視界を覆っていた。いくら理性を失い、狂乱しているゴブリンの群れといえども、本能的な火への恐怖まで完全に消え去っているわけではない。目の前で壁が崩れ、赤々と燃え盛る火が立ちふさがれば、一瞬の躊躇や混乱が生じるはずだ。
その生じたわずかな時間こそが、狙いだった。
「当初の予定通り、第一防衛陣地は破棄するッ! 第二防衛ラインまで撤退だ、下がれッ!」
ザックの怒号が飛ぶ。
村人たちは恐怖と熱気の中、防衛陣地を放棄し、背を向け、一斉に後方の退路へと駆け出した。
もうもうと黒煙を上げる崩壊寸前の城壁を背に、ザックは村人たちを促しながら撤退する。
「振り返るな! 足を止めずに走れ!」
ザックの檄が飛ぶ中、村人たちは息を切らしながら第二防衛ラインへと続く坂道を駆け上がる。
炎と煙が、ゴブリンの追撃を遅らせるための確かな時間稼ぎになる。そう踏んでのことだった。
燃え盛る黒煙の向こう側から、焼け焦げた肉の臭いと一緒に唸り声が響いてくる。
「……しぶとい連中だな。だが、ここからが本番だ」
ザックは第二防衛ラインへと飛び込むと、仲間たちとともにすぐさま次なる迎撃の態勢へと移った。




