28話 開戦
あつい。あつい。あついっ……!
あの小賢しい冒険者め。忌々しい小僧に抉られた左目が疼く。
我が城を踏みにじり、実験体を、我が物顔で連れ去ったあの忌々しい存在。
許さない。許すわけがない。
憎い。憎い。憎い憎い憎い……っ!
「腹から臓物を引きずり出してやる。肉を削ぎ、骨を断ち、絶望の底で這いつくばらせ、絶叫させ、恐怖に歪ませてやる」
「ああ……いい事を思いついたぞ……」
左目を抑え、ゴブリンロードは濁った瞳を爛々と輝かせる。脳裏に浮かぶのは、あの小僧が抱え込んでいた、実験体の姿だ。
「絶望の味を教えてやろう。小僧が守るすべてを目の前で音を立てて崩壊させてやる。実験体の皮膚を一枚一枚剥いで、助けを乞う声を、その耳に嫌というほど叩き込んでやる。自分が無力であるという現実を、骨の髄まで叩き込んで絶望に染め上げてやる」
洞窟の底、転送陣の魔力の渦のなかで、醜悪な肉体が怒りに震えて蠢く。
暗闇の中で、無数の濁った瞳がぎらりと光る。
ゴブリンロードの背後にはおぞましい悪臭を放つ緑色の肌がうねり、武器を掲げた数百のゴブリンどもが、地を揺らして群がっていた。
血走った眼をシルト村の方向へと向け、狂気に満ちた号令を叩きつける。
「すべてを喰らい尽くすのだ……!」
その一声を合図に、地を揺るがす咆哮と濁った雄叫びが爆発した。
数百の群れが一斉に雪崩を打って動き出す。踏みしめられる大地が悲鳴を上げ、圧倒的な悪意と殺戮が、シルト村へと向かってまっすぐに突き進んでいく。
目の前にぽっかりと開いた森の空白地帯、伐採場にレンは一人で立っていた。
ゴブリンロード。あの化け物を相手に、正面から普通に戦って勝てる見込みなど薄い。実力差は明白だった。頼れるのは、もはや自分自身の持てる力だけではない。自分の内側に潜む、あの災厄の力しかなかった。
変異体と死闘を繰り広げてから、レンにはシエルの存在を、これまで以上に強く、鮮やかに感じられるようになっていた。
レンはそっと胸元に右手をあてる。
「……シエル、ごめん。また、この力を借りたい」
無意識に零れた呟き。
彼女が、レンにこの危険な力を使わせることを嫌がっているのは痛いほど分かっていた。この災厄の力を引き出すたびに、自分が自分であるための輪郭が少しずつ削ぎ落とされていく。
自分が自分でなくなっていく感覚。
それでも、いまここで引くわけにはいかない。村のため、そしてクロエを救うためなら、自分の魂ごとすり潰す覚悟はできていた。
……いいよ。でも、力を使いすぎないで。
優しさが混じった、でも切なげな響き。
レンはその言葉に力強く頷いた。
「ああ……わかってる」
その瞬間、視界の端で光が爆ぜた。
伐採場の片隅に建てられた古い小屋の中心で、空間がぐにゃりと歪み、青白く禍々しい転送の光が空に激しく明滅する。
空間を切り裂くような重圧とともに、血まみれのゴブリンロードとゴブリン軍団が姿を現す。
「ギィアアアアアアッ……!」
左目の眼窩から黒い血を滴らせ、異様な殺気をむき出しにした統率者ゴブリンロードが、伐採場へ降り立った。
伐採場から離れたシルト村の防衛ライン。
ゴブリンに見立てた案山子に向かってシルト村の男たちが必死に棒や農具を突き出している。
「やあああああッ!」
「交代しろ!」
「おおおおおおおお!」
「おいザック、なに悠長に訓練なんてやってるんだ?」
手際よくバリケードの補強をしていたザックのパーティの弓使いが不満げな声を漏らした。
「レンは村人を戦わせないつもりだったがな……念のため、最低限の突きの動作だけは叩き込んでおこうと思ってな」
「一般人に今さら訓練したところで、付け焼き刃にもならないだろ」
「まぁな、だが何もできずにただ喰い殺されるなんて、ごめんだろ。それに今、誰一人として遊ばせておける余裕なんて、どこにもねえんだよ」
「それは、元騎士ザックとしての意見か?」
「ふん、騎士の誇りなんて今更ねーよ。ただの、泥臭い冒険者としての生き方さ」
軽口を叩き合いながらも、ザックは前を見据える。
「ザックの知り合いだろ、レンは、本当にあいつ一人でいいのか?」
「正直、わかんねぇよ。でも、あいつには何か勝算があるんだろ」
「ゴブリンロードっていえばA級相当の魔獣だぞ? 聞けばまだあいつはD級の冒険者だろ……? おい、本気で死ぬつもりか」
その率直すぎる指摘に、ザックはぐっと押し黙った。
迷いがないといえば嘘になる。ゴブリンロードの圧倒的な格を考えれば、単身で挑むなど無謀のひと言だ。だが、レンの囮作戦以外に、この物量の足止めを果たす手段など他にないのもまた事実だった。
逃げ出すこと自体はできたさ。
頭の中で、最悪の選択肢がかすめる。足の遅い避難民を抱え、荷物を引き連れての逃避行は困難を極める。この村を捨てて一目散に逃げたところで、追いつかれれば結局は全滅だ。最終的には聖騎士団やギルドの援軍にすがるしかない。
「はぁ……全く、見事に貧乏くじ引いたな」
ザックはわざとらしく大げさにため息をついてみせた。
正直に言えば、シルト村の住民がどうなろうと、ザックの知ったことではない。だが今、村の奥の建物にはクロエが眠っている。パーティのヒーラーが回復魔法で延命処置を施しているが、呪いの浸食はすさまじく、焼け石に水なのは誰の目にも明らかだった。
クロエをあのまま見殺しにするわけにはいかないという割り切れない思いが、ザックの足をこの地に踏み止まらせている。
「お前らも、無理につきあう必要はないんだぞ。ここで引き返したって誰も文句は言わねぇよ」
横で弓の弦を確かめていた弓使いが、呆れたようにフッと鼻を鳴らす。
「なーに言ってやがる。今更だろ。お前の気まぐれに付き合うのなんて、今に始まったことじゃないさ」
「……ふん、勝手にしろ」
照れ隠しのように悪態をつき、ザックは再び前方を睨み据えた。




